027 甘美な香り
甘く濃厚な香りが、焚き火の煙と入り混じりながらテントの中へ流れ込んだ。
花蜜にも熟れた果実にも似た、心を蕩けさせるような香り。
それはリリメルのまぶたの裏にまで忍び込み、夢と現の境を曖昧にしていく。
入り口から差し込む逆光を背に、ひとりの女性が姿を現す。
高く伸びた背筋、流れるような黒髪。
その立ち姿は、まるで舞台に上がった女王のように周囲を圧していた。
「この子が……アストレイの言う子なの?」
艶を帯びた声音が耳をくすぐる。
女はリリメルを覗き込むように一歩近づき、その影が小さな体を覆った。
ドレスは黒と紫を基調にし、金糸の刺繍が夜空に散る星のように輝いている。
胸元は大胆に開き、豊満な双丘が呼吸に合わせてゆったりと揺れた。
腰から流れる布地には深いスリットが入り、白磁のように滑らかな脚線美を惜しげもなく晒す。
身につける宝石は実用からはほど遠く、ただ主の美を飾るためだけに存在していた。
アストレイは慌てて前に進み出る。
彼の長身さえも霞ませるその女の気配に、思わず声が裏返った。
「シルフェリア卿! このような場所では……私が祖父に叱責されてしまいます! すぐに民家を整えさせますので、どうかそちらへ――」
必死に訴えるも、女は涼しい顔で小さく笑い、扇子をひらりと開く。
「あらアストレイ、それはだめよ。皆忙しく働いているのに、わたしのために人を動かすなんて無駄でしょう? それに今日は――お忍びなのだから」
「お忍び」の言葉がこれほど似合わない人間も珍しいとどこか感心する。
彼女はためらいもなく美しいドレスを床に広げ、腰を下ろした。
ひざを組み替える仕草すら絵画のよう。
アストレイは額に手を当て天を仰ぐ。
(……どうしてこうなる……!)
「この子が、ねぇ……」
ヴィエラ・シルフェリアは改めてリリメルに目を落とした。
瞳は宝石のように澄み、覗き込まれた者の心を吸い込むようだ。
リリメルの白く細い腕には、法力の過負荷でできた内出血の痕が痛々しく浮かぶ。
ヴィエラはその傷に触れようと、そっと手を伸ばす。
だが、次の瞬間――
彼女のやわらかな手首を押さえつける、強く無骨な掌。
眠っていたはずのアドガードが目を開け、鋭い眼差しでヴィエラを見据えていた。
「シルフェリア卿⁉」
アストレイは蒼白になり、慌ててアドガードの手を払う。
「無礼だぞ!」
しかし当の本人は、小さく笑うだけで、アストレイが鞘にかけていた手を軽く下ろす。
「よしなさいよアストレイ。彼は今、大義を成したのよ」
静かに告げ、ヴィエラは真正面からアドガードの瞳をみつめる。
「……あなた、いい男ね」
唇に笑みを浮かべた瞬間、甘やかな気配がさらに強く広がる。
アドガードは僅かに肩を固くし、小さく喉を鳴らし警戒心を露わにした。
風聖は獣人を嫌う。
八十年前から変わらず、先日のセラフィムを通じても明らかだ。
「俺は……アドガード・ウィキだ」
アドガードの声はさらに低く唸り、目には困惑と緊張が揺らめいた。
意にも介さず、ヴィエラは恋人と話す乙女のように笑った。
「知っているわ。あなたは有名人だもの。でもね――恋に種族なんて関係ないのよ」
艶のある声が意味深に囁く。
ヴィエラは改めてリリメルの肌に触れた。
その肩を指先でなぞり、柔らかな吐息を漏らす。
「法力を使ってこのようになるなんてね。普通なら、法力は身体の許容を超えられないものなのに」
今度はアドガードの腕へと指を移す。
焼けるように熱を帯びた筋肉が軽く痙攣していた。
その異常さえも愉しむように、ヴィエラの瞳は妖艶に光る。
「あなたもよく、ここまで動けたものね」
撫でる手は、あくまで柔らかく、しかし確かに官能的だった。
指先だけを残して下へ滑らせ、甲をくすぐるように撫でる。
人間の男であれば、理性を焼かれて思わず彼女を押し倒してしまったかもしれない。
アドガードは戸惑いながらも髪を逆立てて威嚇する。
その光景にアストレイはもう限界だとばかりに顔を覆い、足早にテントを出ていった。
テントの外から盛大な溜息が聞こえる。
ヴィエラは胸元から小さな手帳を取り出し、回復法術陣のページを開く。
翠輝がテント内を埋め尽くすと、慌てたアストレイが飛び込んでくる。
「し、シルフェリア卿!」
翠輝の光がやがて収まると、アドガードの腕の痙攣や疲れは姿を消していた。
しかし、リリメルの方に変化はなく。
ヴィエラは不思議そうに首を傾げる。
「ここまで法術が効かないなんて……」
リリメルの痣に優しく触れると、ゆっくりと瞳が開いた。
「はじめまして……」
掠れた声で呟いたリリメルに、ヴィエラは扇子で口元を隠しながら柔らかく微笑む。
「お加減はいかが?無理はなさらないでね。」
リリメルは自分に覆い重なるようにするアドガードの顔をみてから、軋む体をゆっくりと起こした。
「貴女にはあまり活性の法術が効かないみたいね。治して差し上げたかったのだけど……」
甘美な女性を目の前に、戸惑いながらも深く頭を下げるリリメル。
助け舟を出すように、アストレイが咳払いをひとつ。
声を張って威儀を正す。
「こちらにおられるのは、風聖十聖家がひとつ──シルフェリア卿、ヴィエラ様であられる!」
「十聖家、シルフェリア卿……!」
その名を耳にした瞬間、リリメルは弾かれたように姿勢を正し、真剣な面持ちで向き合った。
「私は華聖の教徒、リリメル・ベルと申します。こちらは随人のアドガード・ウィキです。」
震える掌を差し出したが、その手はアストレイによって鋭く弾かれる。
「無礼を働くな!」
アストレイの声がテントに響く。
「やめなさいよ、アストレイ」
ヴィエラは肩を揺らして笑い、叩かれたリリメルの手を取り、優雅に握り返した。
「回復法術をかけていただき、感謝しています。ですがシルフェリア卿に喜んでいただけそうなお返しなど持ち合わせがなくて……」
申し訳なさそうに頭を下げるリリメル。
そのつむじを、ヴィエラは楽しげに扇子の先でツンツンと突き、可笑しそうに笑った。
「あなたには効かなかったじゃない。それにリリメルは風聖の人間じゃないのだから、気軽に“ヴィエラ”と呼んでちょうだい」
背後からアストレイの深い溜息が漏れた。
「けが人に無理をさせてもいけないわね。お会いできて……よかったわリリメル」
ヴィエラは両手でリリメルの手を包む。
彼女の熱が、冷えたリリメルの手を温めた。
「私はあなたたちに期待してるのよ。活躍を祈っているわ」
ヴィエラはそれだけ言い残すと、ドレスを押さえながら立ち上がり、テントの入口へと向かう。
その背を見送りながら、リリメルは思い切って声をかけた。
「仲間が揃ったら……必ず、あなたのもとをお訪ねします。」
――シュッ
音を立てて鋭い刀身がリリメルの首元に突きつけられた。
「それは……宣戦布告か?」
アストレイの声が張り詰める。
「アストレイ」
窘めながら、ヴィエラが振り返る。
「その時は精一杯のおもてなしをして差し上げるわ」
「私も、ヴィエラさんと争うつもりはありません。むしろ、良き縁を結べることを願っています」
その言葉にヴィエラは艶やかに微笑み、軽く手を振って別れを告げた。
その底知れぬ魔性は小さなテントに、二度と忘れられない香りを残した。




