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026 夜明け


 

 東の空が薄らと色づき始める。

 

 リリメルとアドガードは、転送陣(てんそうじん)の光から最後の一人が姿を現すのを見守っていた。

 

 弱々しい足取りで外へ出てきた住民を風衛兵(ふうえいへい)が支え、セレナが手元の板に印をつける。

 

「これで、全員です」

 

 その言葉に、二人の肩から一気に重荷が降ろされる。

 

 堰を切ったように全身の疲労が押し寄せ、同時にドサリと地面に倒れ込んだ。

 

 荒い息をつき、背中を土に預けながらリリメルがだらしなく両手両足を伸ばす。

 

「あぁもう!疲れました〜! 疲れましたよ、アドガードさん! このまま寝ちゃいたいですっ」

 

 アドガードは上下に大きく胸筋を動かしながら、もう指先一つ動かないとばかりに天を仰いだ。

 

「……俺は川に飛び込みたい」

 

 呻くように言いながらも、アドガードは白み始めた空に瞳を閉じた。

 リリメルはそんな姿を横目で追いながら、背筋を伸ばして全身をぐっと反らせた。

 朝露に濡れた大地が、火照った体を冷やして気持ちいい。

 

 冷たい朝風が汗を乾かしていく。

 鉛のような身体は、動きに合わせ軋んだ。

 

「……全員、助けられましたね」

 

 リリメルの言葉は小さな呟きだったが、確かな安堵が宿っていた。

 

 アドガードはその横顔を見つめ、同じように呟いた。

 

「……お前のおかげだ」

 

 リリメルの小さな胸が痛んだ。

 瞬間、目頭が熱くなるのを感じて、ぐっと目を閉じて誤魔化す。

 

 喉に詰まるものをごまかすように、わざと明るく声を張り上げる。

 

「……お腹、空きましたねぇ! 本当は中央都市(ちゅうおうとし)で屋台の焼き鳥を食べたかったのに……アドガードさんが焦らすから〜」

 

 アドガードは片側の眉を小さく持ち上げて、唇を尖らせる。

「……悪かったな」

 

 仕草がどこか子供っぽくて、リリメルはつい吹き出してしまう。

 

「ふふっ……違いますよ! 謝るところじゃないんです!」

 

「そうか」

 

 リリメルの笑い声につられるようにアドガードも笑みをこぼした。

 

 重なる笑い声に、自然と胸を締めつけていた痛みが薄れる。

 

 見上げた空には夜明けの青が広がり、まだ消え残った星がひとつ、きらりと光を放っていた。

 

 ふと――。

 

 風に混じって漂ってくる、香ばしい匂い。

 

「お疲れ様でした」

 

 声に気づいて振り返ると、そこには大きな器を抱えたカナが立っていた。

 

 目は真っ赤に腫れ、涙が頬をつたってこぼれ落ちている。

 

 器を二人の前に置くと、カナは正座の姿勢をとり、そのまま土に額を擦りつけるほど深く頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました……!」

 

 その震える声に押されるように、周囲の人々がざわめきながら集まってくる。

 

 最初は控えめに。

 次第に大きく、波のように拍手が広がっていった。

 

 やがて、大地そのものが震えるような大歓声へと変わる。

 

 リリメルは頼りなく笑い、アドガードは居心地の悪さを覚えながらも、自然と口元がほころぶ。

 

 二人は深く礼をして、差し出された食事をありがたく受け取った。

 

 空腹が満たされていくうちに、緊張でこわばっていた心身がほどけていくのを感じる。

 

 ――だが、喜びの声の裏側で。

 

 「この先どうなるのだ」

 「どこへ行けばいいのか」

 

 不安げな囁きがあちこちで交わされていた。

 

 風衛兵(ふうえいへい)たちも集まり、突如現れた七百人もの難民をどう扱うか、顔を曇らせながら議論している。

 そんな中、先ほどの金髪長身の男、アストレイ・グレイヴァルドと目が合った。

 リリメルが首を傾げると、爽やかに微笑み踵を返す。

 

 やがてリリメルが器を空にし、立ち上がる。

 

 両腕をぐっと上に伸ばして、大きく天を突いた。

 

「では――こちらも、宣戦布告といきましょう!」

 

 張りのある強気な声が、朝の空気を震わせた。

 

 風衛兵(ふうえいへい)たちに住人を下がらせるよう命じると、リリメルはゆっくりと空中へと歩きだす。

 

 見えない階段を踏みしめるように一歩、また一歩。

 

 街を見下ろす中央の高みに立つと、両手を広げ、深く息を吸い込んだ。

 

 ――月聖(げっせい)アルディス教祖が残したはずの法術陣(ほうじゅつじん)

 

 その痕跡をリリメルの翡翠色の瞳が注意深く探りながら、体内の法力を流し込んでいく。

 

 ――大地が唸るように震えた。

 

 地響きが轟き、住民たちは恐怖に足を取られ地に伏せる。

 

 やがて、トリヴァラの街が――。

 

 瓦礫に埋もれていたその姿が、巨大な塊となって空へと浮き上がる。

 

 可愛らしい円錐の屋根、白い壁。

 

 傷だらけで、半ば崩れかけながらも――確かにそこにある、と訴えるかのように。


 息を呑んで見守る人々の上にも影が広がる。

 誰もが言葉を失った。

 

 トリヴァラの民衆は、この時奇跡を目撃する者となった。


 天地がゆっくりと裏返っていく。

 割れた窓の破片は、まるで街が流す涙のように朝日を弾き、キラキラと舞い落ちた。

 

 街が天地を取り戻し、またゆっくりと元の場所へと吸い込まれていく。

 やがて轟音と地下に残った瓦礫の潰れる音を響かせながら地に据わった


 ――プツン。

 

 リリメルの視界が暗く、意識が空中を彷徨った。

 

 糸が切れた人形のように力を失い、落下していく。

 

 地面にぶつかる寸前――。

 

 アドガードが腕を伸ばし、彼女をしっかりと抱き止めた。

 

 そんな彼自身も、もう立ち上がる力も無く、リリメルを胸に抱いたまま、土の上へと崩れ落ちた。


 

 ***


 

 どれほどの時が過ぎたのだろうか。

 

 リリメルは、柔らかな布の感触に包まれて目を覚ました。

 頭上には白布の天幕。

 ここが救護用のテントだと理解するまで、数秒の間が必要だった。

 

 すぐ横ではアドガードが、岩のように動かず眠り続けている。

 規則正しい寝息が、かえって頼もしさを感じさせた。

 

 リリメルはそっと身じろぎするが――頭が割れるように痛み、体の芯まで重く、腕を持ち上げることさえ困難だった。

 

(……少し……無理をしましたね……)

 

 自嘲めいた吐息をもらし、瞳を閉じる。

 次の瞬間にも再び眠りに引き込まれそうになる。

 

 その時だった。

 

 外から、低く押し殺したような言い争いが聞こえてきた。

 

「……様……この……にどう……」

 

「ふふ……事件……いち……うかが……」

 

 途切れ途切れの声は、まるで夢の中の響きのように意味を結ばない。

 ただ僅かに華やかな香りが漂っていた。

 

 やがて、テントの入口がゆっくりと持ち上げられる。

 

 温もりの中に、ひやりとした一筋の風が差し込んできた。

 その風が先ほどの香りをテントへと招き入れる。

 

 花とも果実ともつかぬ甘やかな香りが空間を満たした。

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