024 悪魔の子
少年たちが指差した山の麓に、黒い穴が口を開けている。
その光景を見て初めて、リリメルの胸に疑問が浮かんだ。
――どうやって、ここまで逃げてこられたのだろう。
考えればすぐに分かるはずだ。
足を潰されたセレナが自力で動けるはずがない。
その事実に思い至った瞬間、胸の奥で濁った感情が渦を巻いた。
自分は怒りに任せて人命を後回しにした。
だというのに、あれほど嫌われた男は……
周囲の視線が穴へと注がれ、空気が張り詰める。
リリメルもゆっくりと顔を向けた。
そこに立っていたのは、かつて癇癪で二百人を殺したとされ、千年刑を受けた最悪の裏切り者。
獣人、アドガード・ウィキ。
彼は肩に母親を抱え、口にはその子をくわえ、汗に濡れた身体でなお立っていた。
全身が震え、息は今にも途切れそうなほど荒い。
ずっと……リリメルが敵を追っていた時間すら、この男は自分を嫌った者たちを救うために費やしていたのだ。
濁流のような感情が胸の奥で暴れ出す。
なぜ自分はそうなれないのかという失望と嫉妬。
人間であろうとした自分が揺らぎ、体内を虫が這うような気持ち悪さが胃を迫り上げた。
脳裏に、過去の言葉が甦る。
――『悪魔の子』
今はそんな時ではない。
強く頭を振り、記憶も気持ちも追い払った。
上を向いたとき、アドガードはすでに穴の中へと足を踏み入れていた。
「アドガードさん!」
声を張り上げ、リリメルは急いで駆け寄る。
「空気が薄い、時間が足りない」
「少し待ってください」
リリメルは法術陣を展開し、掌ほどの大きさの紙に数十枚の転送陣を刻み出し、アドガードに手渡した。
「転送の法術陣です。助け出すのはこちらでやります。アドガードさんはこの紙をできるだけ多くの人に配ってください」
アドガードは紙を握りしめ、短く言う。
「動かせないのが結構いる」
リリメルは静かに頷いた。
「私が回復法術をかけます。ケガの原因になっているものを取り除いてから法術陣を置いてください。」
アドガードは紙を掲げ、了解の合図を送ると、躊躇なく穴に消えていった。
リリメルは深く息を吸い、地面に二つの大きな法術陣を描き出す。
一つは転送用、もう一つは回復用だ。
転送陣の中心に、身につけていた宝珠をすべて置く。
そして、カナのもとへと歩み寄った。
「カナさん。心中お察しするのですが、人手が足りません。私は回復法術を発動しますから、カナさんは宝珠を使って転送法術を発動していただけませんか?」
地面に座り込んだまま、ただ土山となった故郷を見つめていたカナが、ゆっくりと顔を上げた。
頼りない表情に、緩やかに力が戻る。
「――できます」
大地を踏み締めて奮い立ち、カナは転送法術陣の中央へと歩み出た。
宝珠を一つ握りしめる。
この街を救うために駆け回っている二人は、ただ通りかかった旅人でしかない。
それなのに、自分の故郷を救うために命を削ってくれているのだ。
その事実が胸に刺さり、握りしめた手が引き寄せられた。
――次の瞬間
リリメルが翠輝をまとわせながら回復法術陣を発動する。
光は稲妻のように地を這い、暗い山の中央へと伸びて行く。
穴の中がほんの少し明るく光るのがわかった。
カナはその横顔を見つめ、キツく唇を結ぶ。
宝珠を法術陣の中心に置いた。
「顕現」
カナの言葉に呼応して、宝珠から翠輝が法術陣へと流れ込む。
光が弾けて、五人の住人が現れた。
救い出された住人たちが、肩を抱き合いながら生きていることを確かめ合う。
手の中へと視線を落とすと、宝珠が色を失っていた。
(こんなに純度の高い宝珠でも五人しか転送できないの?)
転送法術の法力消費量に、カナは愕然とする。
(これじゃすぐ宝珠が底をつく……)
胸に浮かんだ不安に、頭を大きく振った。
カナはすぐに次の宝珠を握りしめ、繰り返す。
十個ほどの宝珠が透明となり、土の上に転がった頃、穴の中からアドガードが現れた。
肩で大きく息をつきながら、短く告げる。
「転送法術陣が尽きた。……住人はあと何人いる?」
長い間、他の街で暮らしてきたカナは答えを詰まらせる。
妹の代わりにと、背後からセレナの声が割り込んだ。
「この街には六百八十人が暮らしています」
辺りを見回すと一割程度しか救われていないことに気付く。
カナは大地に爪を立てて土を握りしめた。乾いた土が爪と皮膚の間に入り込み肉を破る。
「アドガードさん、聞いてください。」
セレナが震える声で呼びかける。
彼女の前には土の上に即席の地図が描かれていた。
街の建物がひとつひとつ刻まれ、それぞれに家族構成が書き記されている。
「ここが助かっていない家族。人数……おそらく穴の位置はこの辺りで……」
枝で印を示しながら説明を続けるセレナを、アドガードはじっと見据えた。
その眼差しを正面から受け止め、セレナもまた目を逸らさなかった。
その時、リリメルの回復法術がひと段落し、周囲の状況を見渡す。
即座に新たな法術陣を展開した。
現れた転送法術陣をアドガードに手渡すと再び周囲に視線を走らす。
アドガードはリリメルの背中に押されるように立ち上がった。
「助かった」
セレナに短く感謝を告げると、再び迷いなく穴の奥へと消えていった。
「……こちらこそ」
セレナが何かを呟き、消えていく背中を見送っていた。その声はあまりに小さく、カナの耳に届く前に風にさらわれて消えた。
「カナさん、次は私が転送します。」
リリメルはそう告げ、カナの隣に立つ。
法術陣に手が触れると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの翠輝が奔り、周囲を昼間のように照らし出した。
一瞬後、まばゆい光の中から五十人ほどの住人が現れる。
掌の宝珠とその光景を見比べて、カナは唖然とする。
そんなことに気付く様子もなく、リリメルはすぐに声を張った。
「怪我をしている方は左の転送陣へ移動してください。」
小さなリリメルの体は、急に増えた救助者に埋もれた。
リリメルの白いブーツに法術陣が浮かび、空中を駆け上がって大きく手振りをする。
「元気な方はセレナさんのもとで生存確認をお願いします。」
転送陣の後方を指さすと、セレナも大きく手を振っていた。
「こちらで人数の確認をしてます。名前と居住地を教えてください」
その様子を確認すると、リリメルは回復法術陣の中央へ降り立ち法力を注ぐ。
先ほど同様に翠輝が地面を走り、近くに居た怪我人の傷が消えていく。
「元気になられた方はセレナさんの元へ」
そう指示を出しながら、今の法術で治しきれなかった者たちを一人ずつに回復法術を施した。
その背を見て、カナの胸には熱いものが込み上げる。
自分より年若い少女が誰よりも強く、大地を踏み締めている。
彼女を誤解していた自分が、酷く矮小に感じられた。
強く両目を瞑り、大地を掻く。
小さな砂が存在を主張するように、カナの手に食い込む。
再び前を向き、震える手で宝珠を握りしめ、転送法術を繰り返す。




