023 絶望の果てに
天地を引き裂くような轟音と共に、トリヴァラは地の底へと押し込まれた。
土埃が空を覆い、地鳴りがなおも続く。
一番早く動いたのはリリメルだった。
瞬間にすべてを悟り、迷いも恐れもなく、大地を蹴って駆け出す。
カナは呆然と立ち尽くしていた。
つい数分前まで人々の笑い声があった街が、今は無惨に土に呑まれ、小山のように盛り上がっただけの異形の塊と化している。
白壁の家も、市場の喧噪も、姉の姿も――何ひとつ残っていない。
「……う、そ……」
唇が震えるばかりで、声にならない。
現実を受け止められず、ただ目を見開き、小山となった大地を凝視している。
そんなカナを放っては行けず、アドガードが手を引く。
彼の手は力強くも優しく、カナを支えながら崩落した跡地へと導いた。
地面に膝をついた瞬間、カナの全身から力が抜け落ちる。
震える両手が土を掻き、爪が割れても気づかない。
視界が滲み、涙が頬を伝い、ようやく絞り出された声は
「うわああああ――!姉さん、姉さあああん!」
それはほとんど叫びに近かった。
夜気を震わせる慟哭が響き渡り、遠くの森にまで木霊していった。
***
――突然の大きな揺れ。
轟音が地を裂き、建物全体が悲鳴をあげるように震えた。
セレナは反射的にリオを胸に抱きしめ、全身で覆い隠す。
「大丈夫、大丈夫よ……!」
必死に囁き続けるが、泣き喚く幼子の声は恐怖に震え、宥めの言葉を容易く打ち消していった。
天地が、ゆっくりと――しかし抗えぬ力でひっくり返っていく。
セレナはリオを抱いたまま、なす術もなく壁や天井に叩きつけられた。
硬い角が背や肩を抉り、息が詰まる。
意識が飛びかける中でも、腕だけは決して緩めなかった。
崩れ落ちる家具や棚の連鎖音。
次の瞬間、その一つがセレナの足を直撃した。
「――っ!!」
押し潰された瞬間、鋭い痛みが全身を貫き、声にならない悲鳴が漏れる。
視界が白く弾け、その後すぐ真っ暗になった。
必死に足を動かそうとするが、ピクリとも反応しない。
天地の区別を失った世界で、セレナは逆さまの床を天に仰ぐ。
粉塵で喉が焼け、息をするたびに血と土の味が口に広がる。
「誰か……助けて……」
それは声にもならない願い。
狭く、息苦しい闇の中で、セレナはただ祈ることしかできなかった。
――パリンッ!
暗闇の中、どこかで窓が割れ、直後、ズカズカと大きな足音が響き、床となった天井が振動する。
セレナの胸は不安で張り裂けそうになる。
現れたのは、二メートル近い大男。
逆光に浮かぶその影は異様に大きく、そして見覚えのあるものだった。
先日、セレナが無碍に追い出した獣人――アドガードである。
セレナの奥歯が震えて音を立てる。
「お、お願い……お願いします! この子だけは……この子にだけは!」
リオをさらに強く抱きしめ、祈るように目を瞑る。
――次の瞬間。
セレナを押さえ込んでいた家具が、オモチャのように持ち上げられた。
足にはもう感覚が無い。
「そんなに大事なら――」
低く響く声。
ふわりと身体が浮き、気づけばセレナはアドガードの肩に担がれていた。
「絶対離すなよ」
力強いアドガードの腕はセレナよりずっと熱く、この獣の髪からは不思議と太陽の匂いがした。
それは、リオを包む毛布と同じ匂いだった。
一粒の涙がどこまでも暗い穴の底に落ちる。
アドガードは、腕と脚力だけで瓦礫の山を跳ねるように移動し、天地逆転した街を抜けていく。
月明かりの漏れる、小さな穴から外へ抜け出した。
川から吹き上げる水の匂い、その先にカナがいた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、姉の姿を見つけた瞬間、叫びを上げる。
「ねぇさぁぁぁぁん!!」
アドガードは足の動かないセレナをカナの隣にゆっくりと降ろすと、再び何も言わず穴の中へと向かう。
泣き叫ぶ妹と息子を抱きしめながら、その背中をただ見送ることしかできなかった。
暗闇の中には、嗚咽と助けを求める声が溢れていた。
その声は、アドガードにとって絶望ではなかった。
(つまり、まだ大半の奴は息があるってことだ)
アドガードは導かれるように幼い泣き声のする方へ進み、とある家の窓を強引に押し開ける。
目の前にいたのは、昼間石を投げつけてきた子供たちと、その横で石壁に胴体を潰され意識を失った父親と、その腕に庇うように閉じ込められた母親。
「……兄弟だったのか」
アドガードが短く呟いた。
その声に反応して、子供たちは一斉にアドガードを見上げ、恐怖で悲鳴を上げた。
だが父親も母親も子供たちの異変に微動だにしない。
血の臭いが濃く、下半身が完全に潰れている。
動かせば即座に命が尽きるのは明らかだった。
アドガードは暴れる子供を無理やり引き剥がし、外へと連れ出す。
外気に触れ、ようやく自分たちが救われたと理解した子供たちは、縋るように叫んだ。
「お願いだよ! 父ちゃんと母ちゃんを助けてよ! お願いだよ!」
その声に、アドガードの表情が歪む。
見る限り下半身が完全に潰れていて、動かせば即死に至るだろう。
噛み締める歯の隙間から、苦い言葉が零れた。
「……今は、難しい」
それだけ言い残し、再び瓦礫の闇の中へと身を躍らせる。
***
トリヴァラだったものの頂点で、リリメルは怒りを堪えるように全身を震わせ、月を睨みつけていた。
胸の奥で煮えたぎる激情が喉を焦がし、吸い込んだ冷気が体の内で熱される。
何度か深呼吸を繰り返し、ようやく燃えるような怒りを押し込み、少しだけ冷静さを取り戻した。
頭に浮かんだのは、仲間の顔――カナだ。
今は立ち止まっている暇はない。
踵を返し、崩れた斜面を滑り降りる。
その先で見つけたのは、呆然とする数人の住人とカナの姿だった。
誰もが言葉を失い、ただ山の麓に開いた小さな穴を凝視している。
闇の奥から、助けを求める声がいつか届くのではと息を呑み、待ち構えているようだった。
リリメルはセレナの元に駆け寄った。
潰された足は不自然な方向に折れ曲がり、見るだけで痛みが伝わってくる。
リオを庇うように抱きしめながら、セレナは必死に気丈な表情を保とうとしていた。
「今から回復法術をかけます。少し痛むかもしれません。」
そう告げると、胸の宝石が輝きを放ち、複雑な紋様を描く法術陣が現れる。
翠輝がセレナの全身を包み、激痛に耐えるように彼女の眉間に深い皺が刻まれた。
回復法術は怪我の深さに応じて時間がかかる。
今回は一分ほどで、曲がった足が自ら元の位置に戻る。
その挙動が痛みを与え、永遠にすら感じられた。
やがて光が消えると、折れた足はまっすぐに戻り、痛みの影も消えていた。
「ありがとうございます。」
セレナの声はかすかに震えている。
リリメルは周囲に目を走らせ、大きな怪我人が見当たらないことに胸を撫で下ろした。
その時、小さな影が二つ、涙に濡れた顔でリリメルに飛びついてきた。
「ねぇ、お願いだから……父ちゃんと母ちゃんを助けてよ!」
小さな腕で必死にすがりつく幼い兄弟。
震える声は悲痛で、心を突き刺してくる。
「勿論です。どちらに居ますか?」
リリメルが静かに問いかけると、子供たちは同時に穴の奥を指差した。
――その先には、まだ救われていない命が待っている。




