022 禍
小さな窓からわずかに夕陽が射し込む。
黒い大理石で飾られた床と壁は冷たく、光を拒むように艶めいていた。
中央には、重厚な木製の机と椅子。
その机の上に転がるのは一本のダーツと、積み上げられた書類の山。
椅子に腰かけていたのは、齢十二、三の黒髪の少年だった。
髪は短く整えられ、無邪気な笑みを浮かべている。
「古今東西ダーツの旅!」
一人で拍手をしながら無邪気な声が、陰鬱な部屋に不釣り合いに響く。
その隣に控える執事風の男は、やれやれといった顔を浮かべつつも、止めようとはしない。
――この少年こそが現月聖教祖、アルディス・ルナ=ゼノラート。
最強の名を冠する存在である。
アルディスは軽やかに椅子から飛び降り、手にしたダーツを構える。
視線の先には一枚の大きな地図。
振り抜かれた腕の先で、ダーツが突き刺さった。
執事の男――セヴラン・ノクティスが音もなく歩み寄り、刺さった場所を確認する。
「……トリヴァラですね。現在、いずれの宗派にも属していない街になります。治安維持のみ、風聖に依頼しています。」
「いいじゃない」
アルディスは短くそう告げ、月聖教祖の証である白銀のローブを羽織った。
「じゃあちょっと、お散歩にでも行こうかな。セヴランはどうする?」
「もちろんお供致します。」
セヴランが恭しく礼をすると、アルディスが窓枠に軽やかに足をかける。
吹き抜ける風がローブを煽って危なっかしく翻る。
塔の最上階から見下ろせば、無数の屋根がはるか眼下に小さく並んでいた。
「またそんなところから……お行儀が悪いですよ」
セヴランが微笑みを漏らしつつ、落ち着いた足取りで後を追う。
アルディスはそのまま大空へ倒れこむ。
体は布が羽ばたくように宙に浮いた。
無邪気な笑みを浮かべ、空中を鳥のように自由に舞う。
「下まで降りるの、面倒なんだもの」
風を切る声は子どもの戯れそのものだった。
次の瞬間――その笑顔が冷たく凍りつく。
「さあ――街をひとつ、滅ぼしに行こうか」
金色の瞳が鋭く光り、凍てつくような威圧感が放たれる。
セヴランはその視線を見上げ、悩ましげな吐息が漏れた。
頬は紅潮し、体の芯がゾクリと震える。
眩い光に目を細めるように、その冷たい金色の瞳を覗く。
教祖の狂気と力に酔い痴れるような、甘美な戦慄であった。
***
川のほとりに焚き火がはぜる音と川のせせらぎが響く。
瞬く星も、山の中の動物たちも息を潜めているような、やけに静かな夜だった。
「アドガードさんが、犬にもなれるなんて知りませんでした」
「狼だ」
カナとアドガードの軽快な対話を横目に、リリメルはリンゴを一欠片口に運ぶ。
瑞々しい甘さが口の中を覆い、頬が歓喜に震える。
甘味は旅人には大変貴重だ。
(いいことはするものですね)
リリメルは頬に手を当て満足げに余韻を楽しむ。
カナもアドガードも珍しい豪華な晩御飯に、手と口がせわしない。
「カナさん、せっかくなのにセレナさんと過ごさなくてよかったんですか?」
「リオくん元気過ぎてこっちのが安眠できるんスよ。それに今日は晩御飯が豪華ですからね!」
輝くカナの目がおかしくて、笑い声が静かな夜に反響した。
その時――
背後から突如、昼を思わせるほどの翠輝の柱が立ちのぼり、大地が裂けるような地響きが走った。
焚き火の上の食べ物が無残に散らばった。
必死に掴める場所を探して手が彷徨う。
大地の悲鳴のような重低音に芯まで震わせながらも、誰もがその光から目が離せなかった。
翠輝の柱が一点へ収束しはじめ、街を囲う柵のわずか外側を囲むように強く光を放つ。
円形に大地が抉れ、まるで巨大な手に掬われるように、街全体が翠輝に包まれ、空に持ち上げられていく。
美しい円錐の街が……トリヴァラの街が宙へと浮かび上がっていく。
鼓動が大きく跳ね上がり、息ができない。
体を動かそうとしても、まるで時間が止まったかのようにピクリともしない。
ただ、美しい街が凌辱される様を、血が出るほど唇を噛みしめて睨みつけた。
やがて、その塊が空中で動きを止める。
ゆっくりと反転したトリヴァラの街から、窓を突き破った家具や剥がれ落ちた街路が空へと零れ落ちていく。
遠く離れたこの場所にまで届くのは、無数の悲鳴とうなり声だ。
天地が逆さまになった街は、ドーム状の大地をまといながら緩やかに落下する。
ドームの頂は月に向かって突き出され、巨大な蓋のように大地へと押し込まれた。
地面が跳ね上がり、衝撃で体が宙に浮く。
土埃を舞い上げた強風が、視界を奪った。
小さく咳き込みながら、なんとか薄らと目を開く。
地中に呑み込まれた、トリヴァラの街、その頂に二つの影が揺らめいた。
土埃を掻き分け、月明かりに照らされた影を睨む。
リリメルは直感した。
これほどのことができるのは、この世にただ一人。
月聖教祖――アルディス・ルナ=ゼノラート。
リリメルは振り返ることなく、まっすぐにその影へ駆け出した。
走りながら掌に法術陣を展開する。
淡い光が弓の形を結び、彼女の怒りを矢として宿す。
二人の影は輪郭を現し、月明かりの下でその姿が鮮明になる。
白銀のローブを纏う少年、アルディス。
隣には執事のセヴラン。
彼らは反転した街の惨状をしばし眺め、まるで芸術作品を鑑賞したかのように満足げに頷き、踵を返した。
「――アルディス=ゼノラート!」
リリメルの声が夜を裂く。
振り返った二人は、怒りに震える少女の姿を目にし、同時に薄ら笑みを浮かべる。
弓を構える彼女を、まるで道化でも眺めるかのように。
「君か、噂のリリメル・ベル華教徒。まさかこんな所で会うなんてね」
アルディスの声は軽く、愉快そうに弾む。
「なぜ、こんなことを……!」
リリメルの叫びに、アルディスはわざとらしく肩をすくめる。
「なぜ? そうだな……退屈してたから、かな?」
無邪気な笑顔。
リリメルは舌打ちをして、弓を引き絞る。
「退屈だなんてご冗談を、書類が山をなしていましたよ」
冗談を言い合ったような軽快な二人の笑い声が、リリメルの額の血管を膨れあがらせる。
「何が面白い!!」
リリメルの咆哮と同時に、矢が空を裂き、一直線にアルディスへ飛んだ。
――が寸前、彼の前に淡い法術陣が浮かび、矢はそこへと吸い込まれた。
続けざまに放つもすべて、同じように飲み込まれていく。
「私はあなたを絶対に許さない……必ず、必ず倒しにいきます!」
リリメルの決意に、アルディスは空中で腹を抱えて笑い転げた。
リリメルは奥歯を噛みしめる。
「あははっ、おっかしい……」
アルディスが目じりの涙を指で拭う。
その金色の瞳が再びリリメルを捕らえた。
「今の矢がどこへ行ったのか……後悔するといいよ、リリメル・ベル。次に会う時を楽しみにしている」
アルディスはひらひらと手を振り、からかうように法術陣へ姿を消した。
残されたセヴランは深々と礼をしてから、主に続き同じ光の中へと消えていく。
夜風に残るのは、街を埋め尽くす静寂と、リリメルの怒りに震える呼吸だけだった。




