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020 子供と小石


 大樹の太い枝の上。

 

 春先の日差しが、幼いアドガードの焦茶色の毛並みを黄金色に輝かせていた。

 

 頭の上に置かれた、大きく温かな手。

 ゆっくりと、慈しむように自分を撫でるそのぬくもりは、彼にとって世界の何よりも心地よく、愛おしいものだった。

 

 長い前髪の隙間から覗く翡翠(ひすい)色の瞳が、遥か遠くを眺めている。

 

 どこか満ち足りたような微笑。

 風に遊ばれる短い黒髪。

 細められた瞳が、いっそう柔らかく細められる。

 

「この国は美しいね、アド」

 

 男の声に促され、アドガードもその視線を追った。

 

 眼下に広がるのは、深い緑を湛えた森とエメラルド色の湖。

 彼方には巨大な岩壁がそそり立ち、幾筋もの飛瀑(ひばく)が白く糸を引いて流れ落ちている。

 まだ人の手が及ばぬ、静謐な秘境の景色だ。

 

「僕はね、この景色が好きなんだ。ここを守るためなら、なんだってするよ」

 

 首のあたりを愛犬にするように掻かれ、全身から力が抜けていく。

 瞼がとろりと重くなるのを感じながら、アドガードは夢うつつに口を開いた。

 

「……ゼノが守りたいものを、俺も守るよ」

 

 男は子供のように無邪気に笑い、幼い彼の顔を何度も撫で回した。

 

 その時、翡翠の瞳が間近に覗き込んできた。

 吸い込まれるような、あの優しさだけは――長い年月を経た今も、一度として忘れたことはなかった。

 

***

 

 不意に、川面からの鋭い反射に意識を引き戻される。

 

 重い瞼を持ち上げた、その視界のすぐ先に。

 

 記憶の中と同じ、翡翠色の瞳が覗き込んでいた。

 

「……何をしている」

 

 低い声で問いかけると、リリメルはぱっと花が咲くような笑顔を見せた。

 

「もうすぐ起きそうだと思いまして。……でも、どうしてテントの中で寝ないんですか?」

 

 呆れ混じりの視線を投げかけ、アドガードは大きく一つ伸びをすると、返事もそこそこに川縁(かわべり)へと歩き出した。

 

 小さく肩をすくめ、リリメルは代わりに、朝の支度に取りかかる。

 昨日セレナから譲り受けたサンドイッチを並べ、温めたミルクをカップに注ぐ。

 

 冷え込む早朝の風に、彼女は肩布をギュッと握りしめた。

 立ち上る湯気の向こうで、新しい一日の気配が静かに動き始めている。


 朝食を終える頃には、太陽はすっかりその全貌を現していた。

 鋭かった冷気も、陽光に解かされて次第に柔らかさを帯びていく。

 

「さぁ! 行きましょう!」

 

 リリメルが元気よく声を上げ、迷いなき足取りで街道へと踏み出す。

 アドガードは重い溜息を一つ吐き、その小さな背中に渋々ついていった。

 

 二日目ともなると、門番の風衛兵(ふうえいへい)に呼び止められることもない。

 拍子抜けするほどあっさり、二人はトリヴァラの街へと足を踏み入れた。

 

 だが、溢れる街の人々の反応は露骨だった。

 

 通りの人々はアドガードの姿を認めると、一瞬で凍りついたように立ち止まる。

 母親は悲鳴を呑み込んで子供を抱き寄せ、外に出ようとした者は慌てて扉を閉め、家の中へと逃げ戻っていく。

 

 向けられるのは、毒を含んだ「拒絶」の視線。

 

 そんな険悪な街道を歩きながら、リリメルはあろうことか、すれ違う人々に片っ端から明るい挨拶を振りまく。

 

「おはようございます!」

 

「いいお天気ですね!」

 

 小さな子供から年配の夫婦まで、誰もを等しく標的にする。

 人々は困惑に顔を歪め、ひきつった笑みで挨拶を返す者もいれば、あからさまに背を向ける者もいた。

 

 リリメルの意図は、アドガードにはまるで読めなかった。

 

 だが、奇妙なほど明るい彼女に視線が集まる分、自分への刺すような敵意が幾分か和らいでいる。

 それが彼女の計算なのか、天性のものなのか判然とはしない。

 どちらにせよ、居心地の悪さが多少なりともマシに感じられるのは事実だった。

 

 やがて、セレナの家が見えてくる。

 玄関先では、カナが朝日を浴びながら、熱心に体操をしていた。

 

「カナさん!」

 

 リリメルが大きく手を振ると、カナが弾かれたように駆け寄ってくる。

 

「服、決まりました? 姉を呼んでくるっスね! 先に縫製場の方へ行っててください!」

 

 カナは忙しなく玄関の扉を閉め、家の中へ消えていった。

 

 リリメルが隣の縫製場へ向かおうと歩き出しても、アドガードは建物の外壁に背を預けたまま、頑として動こうとしなかった。

 

「……俺は、ここで待っている」

 

 家の中へ入り、再びセレナを怯えさせるわけにはいかない。

 リリメルは深く追及しなかった。

 

「わかりました!」

 

 一点の曇りもない明るい声が、早朝のトリヴァラに高く響き渡った。


 

 真っ白な壁に、天を突くような円錐状の屋根。

 背後には青々と茂る山の木々が連なり、頭上には雲ひとつない蒼穹(そうきゅう)が広がっていた。

 

 絵画の中に迷い込んだかのような――そんな錯覚を覚えるほど、その景色は澄んでいた。

 アドガードは、この静謐(せいひつ)をいつまでも眺めていられる気がした。

 ぼんやりと視線を遊ばせていたその時、視界の端に小さな影が躍り出る。

 反射的に手を伸ばすと、乾いた感触が掌に落ちる。

 小石だった。

 

 視線を向ければ、五、六歳ほどの少年が、二人いた。

 小石を抱え、悪者退治に挑む小さな勇者のように胸を張り、真剣そのものの瞳でこちらを睨みつけていた。

 

(……シャルンと同じ年くらいか)

 

「悪者め! この街から出ていけーっ!」

 

「やっつけろーっ!」

 

 甲高い声が静かな路地に響き渡る。

 子供らしい無邪気さと高揚に混じって、小石が次々と飛んできた。

 アドガードは黙ってそれを受け止め、手の中に静かに集めていく。

 

 やがて、覚えたての「正義の呪文」を唱えるかのように、少年たちは叫んだ。

 

「出ていけ!」「ケガレ!」「半獣(はんじゅう)!」

 

 それはきっと、街の大人の口真似なのだろう。

 言葉の意味も、その残酷な重みも知らぬまま、投げつけられる石と言葉。

 

 両手いっぱいに弾丸を抱えた少年たちは、「くらえー!」と声を合わせ、数個の石を同時に放った。

 

 アドガードは掌の石を親指で弾き飛ばした。

 

 カツン、カツン――。

 

 硬い乾いた音が空中で重なり、双方の石が力なく地面に落ちる。

 

 目を輝かせていた少年たちも、目の前で起きた妙技に驚いたのか、あんぐりと口を開けて立ち尽くした。

 

「な、何やってるんスか……!?」

 

 カナの悲鳴に近い声が反響した。

 

 その後ろで、リリメルは「パチパチ」と楽しげに手を叩いている。

 まるで大道芸でも見物しているかのように、無邪気に拍手をする彼女に、アドガードは内心で呆れ返った。

 

 カナは慌てて少年たちの前に立ちはだかり、「もう帰りなさい!」と腰に手を当てた。

 

 子供たちは瞬間、顔をしかめたものの、満足いく遊びを終えたような笑い声を残して、元気に走り去っていった。

 

 ――再び静寂が戻る。

 

 石畳に散らばった石片だけが、今の出来事の痕跡だった。

 

 カナは振り返り、アドガードの前に立つと、深く、折れそうなほど頭を下げた。

 

「す、すいません。悪気はないんです。ただ……冗談にしても、ちょっとやり過ぎっスけど」

 

 カナの声はわずかに震えていた。

 彼女の目には、単なる「子供の悪戯」以上の恐ろしい光景が映っていたのかもしれない。

 もしアドガードが激昂し、その強大な力を振るっていたら……。

 

 アドガードは肩をすくめ、ことさらに軽く答えた。

 

「少し、遊んでやっただけだ」

 

 その穏やかな声音に、カナは恐る恐る顔を上げる。

 アドガードの瞳に怒りの色はなかった。

 そこでようやく、カナは凍りついていた胸を撫で下ろす。


 

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