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019 セレナとリオ


 閉まった扉から目が離せないまま、小さな喪失感を覚え、にリリメルは胸に手を当てた。

 

「……大丈夫っスよ。位置確認の法術(ほうじゅつ)もかけてありますし、玄関横の窓からも姿は確認できますから」


 その言葉は小さな棘のように胸に刺さった。

 それはまるで、アドガードが不測の事態を引き起こすことを前提とした言葉だった。

 扉の隙間から夜気を孕んだ風が温かな部屋へ流れ込む。

 冷えた足先の痛みに、彼女は小さく首を傾げた。

 

 胸の中で渦巻いた感情が、怒りなのか、寂しさなのか、それとも全く違う何かなのか、リリメルには判然としなかった。

 

 出会って、まだ数日。

 彼が歩んできた血塗られた過去を思えば、カナの警戒は至極まっとうだ。

 それなのに、扉の向こうで一人佇む彼の姿を想像すると、どうしようもなく息が詰まった。

 

「行きましょう」

 

 カナに促されるまま、リリメルはリビングの椅子に腰を下ろす。

 温かみのある木の手触りと、部屋を満たす生活の匂いに触れれば、自分だけが少しズルをしたような気持ちになった。

 赤子の静かな寝息が漂う。

 セレナが揺り籠にかけられた布をそっと整えた。

 その指先には、隠しきれないわずかな震えが滲んでいる。

 

「ごめんなさい。私の態度、きっと変に映ったでしょうね」

 

 セレナは視線を落としたまま、消え入りそうな声で呟いた。

 

「わかってはいるんです。拘束の縛りがあって、そう簡単に法を破れるわけではないことも」


 セレナの肩が強張った。

 リオに触れる手が、どこかぎこちない。

 

「それでも、私はこの子の……リオの側には、近付かせたくない」

 

 拳をきゅっと握りしめ、セレナは意を決してリリメルを振り返った。

 

「ひどい人間だと思われても構いません」

 

 その瞳に宿ったのは、何者からも我が子を守ろうとする強い母の意志だった。

 リリメルは思わず息を呑み、そして静かに首を横に振る。

 

「そんな風には思いません。……こちらこそ、十分な配慮もなしに押しかけてしまって、ごめんなさい」

 

 リリメルが愛想笑いを浮かべると、セレナは申し訳なさにエプロンの端を強く握りしめた。

 その場を重苦しい沈黙が支配しようとしたとき、カナが快活な声を上げた。

 

「違うんだよ、ねぇさん! 私が提案したの。アドガードさんの服、あれだと誰だって怖く見えちゃうから……。だから、ねぇさんに新しい服を作ってもらおうと思ったんだ」

 

 あまりに唐突な切り出しに、リリメルは思わず目を瞬かせた。

 セレナの気持ちを考えると、無茶なお願いなのではと思えたからだ。

 恐る恐るセレナの様子をうかがう。


 ――その瞳が、ふっと職人の輝きを帯びた。

 

「あら……そうなの。確かに、あの服では目立ちすぎるわね」

 

 セレナの声から震えが消える。

 

「一から仕立てるなら……デザインを決めて、採寸して、生地を選んで、型紙を切って……そうね、最低でも四日はほしいかしら」

 

 掌を合わせて楽しげに話すセレナには、いまや創作への情熱が灯っていた。

 その豹変ぶりに、リリメルの頬にも自然と柔らかな笑みがこぼれる。

 

「四日!? もう少し早くならないかな? ほら、四日もここに滞在したら、いろいろ……ね?」

 

 カナが玄関の方へちらりと視線をやる。

 滞在が長引けば、周囲の目も、そしてセレナの精神的な負担も増す。

 

 セレナは頬に手を当て、しばしプロの顔で考え込んだ。

 

「そうねぇ……彼は体格が良すぎて、既製品では合うものがないわ。でも、仕立て済みの服を調整してサイズを広げる方法なら……二日で仕上げられるかもしれない」

 

 そこで一瞬言葉を切り、セレナは少女のように嬉々として微笑んだ。

 

「どんな服がお好きなのかしら? せっかくだもの、ご本人の希望も聞いてあげたいわ」

 

 カナの口から小さな安堵がこぼれ落ちる。

 

 緊張感は、「服作り」という話題によって霧散していった。

 

「良ければ、お店にデザイン帳があるの。仕上がった服もいくつかあるから、実際に見ていただけるかしら?」

 

 職人としての彼女は、驚くほど頼もしかった。

 リリメルは一度だけ窓の外――暗がりに立つ影を気にしてから、優しく頷いた。

 

「ありがとうございます。……今日はもう遅いですから、デザイン帳をお借りして、明日また詳しく伺ってもよろしいですか?」

 

「ええ、そうね! 色も白昼の方がはっきりわかるわ。そうしましょう!」

 

 セレナはそそくさと立ち上がると、弾んだ足取りでデザイン帳を取りに向かった。


***

 

 紺色の空に一番星が姿を現した。

 

 街は日暮れと共に眠りにつくのか、どの家の窓も静かに闇へ沈んでいた。

 

 山から吹き下ろす夜風が木々をざわめかせ、わずかに鉄錆の匂いを運んでくる。

 

 アドガードは、自らの袖に鼻を近づけた。

 

 濃い灰色の囚人服は、水で洗えば、血の跡一つ残さない。

 それでも、ふとした瞬間に鼻腔を突く血の匂いが、彼の胸の奥を鋭く抉った。

 

『――獣人はいくら殺したって、罪にはならないんだ!』

 

 かつて投げつけられたシャルンの言葉が、耳の奥で呪いのように反芻(はんすう)した。

 それに重なるように、怯えきった風衛兵(ふうえいへい)とセレナの顔が浮かんでは消えた。

 

(……だがな)

 

 目前の家に、ぽう、と小さな蝋燭の光が灯った。

 子供の影が楽しげに揺らめく。

 

 その消え入りそうな小さな影に、ため息が漏れる。

 

(……人間を喰らった獣人は、本当に裁かれるのか)

 

 服の繊維に残る、あの生暖かい返り血の記憶に、彼は静かに問いかけた。

 

 ――その時だった。

 

 勢いよく扉が開く。

 

 硬い木板が鼻先を直撃し、衝撃音が空気とアドガードの脳を揺らす。

 呻き声を漏らしてその場に膝をついた。

 

「……っ!?」

 

「あれ? どうして開く方向に立っているんですか? アドガードさん」

 

 いつもの軽い口調。

 悪びれる様子など微塵も見せないリリメルが、扉の向こうから顔を出した。

 

 悪態をつきたい気持ちを呑み込み、鋭い眼光で睨みつける。

 すると、リリメルの翡翠色の瞳が不意に間近まで迫り、温かな掌が、ぶつけたばかりの彼の額を優しく撫でた。

 

「なっ……!」

 

 反射的に身を逸らした、その瞬間。

 

 背後の壁に後頭部を叩きつけ、閃光のような衝撃が体を駆け抜けた。

 

 二撃目の衝撃が脳を揺らす。

 アドガードは両手で頭を押さえ、情けなく丸まった。

 

「何やってるんですか?」

 

 リリメルの鈴を転がすような笑い声が、鼓膜を心地よく(くすぐ)る。

 

「大丈夫ですか? どこか怪我しましたか?」

 

 また懲りずに手を伸ばす。

 アドガードはたまらず彼女の手首を掴み、逃げるように立ち上がった。

 

「……この程度で、怪我なんかしない」

 

 ぶっきらぼうに吐き捨てたが、どうしても目が合わせられない。

 花のような香りが鼻先をくすぐり、頬がわずかに熱を帯びた。

 

「随分と、早かったんだな」

 

「そうなんです! セレナさんにデザイン帳をお借りしたので、テントで一緒に見ようかと思いまして!」

 

 分厚いファイルを受け取ると、リリメルは踊るようにくるりと回り、軽やかな足取りで来た道を引き返していく。

 

「川沿いにテントを張りましょうか」

 とか

「カナさんは泊まってくるそうなので、今夜は交代で見張りですね」

 とか、前方から飛んでくる声に生返事(なまへんじ)をしながら、アドガードは彼女の後を追った。

 

 リリメルの頭上で、一番星が静かに瞬いていた。

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