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014 ローデン運河ほとりにて


 ――翌朝。

 

 まだ空気が冷たい早朝、東の空がうっすらと色づきはじめる。

 ローデン運河では魚たちが跳ねる水の音が時折聞こえてきた。

 

 カナは、焚き火の上に小鍋をかけてお湯を沸かしていた。

 湯気が立ちのぼり、焦げた木の匂いと混ざり合う。

 コーヒー用にと持ち歩いている豆を潰すたびにふわりといい香りが鼻を刺激する。

 カナはこのひと時が好きだった。

 

 ふと視線を横にやると、アドガードが岩にもたれかかって眠っている。

 テントには入らず、外で夜を過ごしていたらしい。

 その寝顔は、ただの人間にしか見えない。

 

 (……ホントに獣人なのかな?)

 

 カナは思わず見入ってしまう。

 

 カバンから一冊の教本を取り出した。

 表紙には『宗教戦争(しゅうきょうせんそう) 始まりと終わり』と記されている。

 

 ページをめくり、最後に描かれたアドガードの挿絵で指を止めた。

 

 そこに描かれた男は、大きな耳に、頬まで裂けた口から覗く白い牙、そして強靭な爪を持っていた。

 

 彼女は本を眠るアドガードの方へ向け、交互に見比べる。

 

「……全然、違うっスね」

 

 完璧に人間へと化けた獣人が存在するなんて、聞いたこともない。

 もしかして「今までも知らずにすれ違っていたのだろうか」と首を傾げた。

 もしそうなら、記者としてはぜひ取材をしてみたいものだ。

 『人の世に紛れる獣人!その生活とは』見出しを思い浮かべて、ハッと我に返った。

 

 膝の上に本を広げ、第一次宗教戦争の顛末が書かれたページをなぞった。

 

(『月聖二百人殺しげっせいにひゃくにんころし』なんて大事件の犯人には、どうしても見えないんだよね……)

 

 もしかして、歴史を覆すような裏があるのではないか。

 そう思うと、また記者としての血が騒ぎ、顔のニヤけが止まらない。

 

 その時、シューとお湯が沸いた。

 コーヒーを淹れると、深い香りが立ち上る。

 

(いやいや。油断は禁物! 元は月聖と仲良くしてたんだから)

 

 思考を現実に引き戻し、湯気の向こう側へ視線を送った。

 

「……俺の顔に、何かついてるか?」

 

 低い声に心臓が飛び上がる。

 慌てて首をぶんぶんと横に振ると、持っていたコーヒーが勢いよく溢れる。


「アッツ――!」

 

 アドガードは訝しげに慌てふためくカナの顔を見つめ、それから大きく伸びをする。

 

「……起こしちゃいましたね。あ、コーヒーどうっスか?」

 

 カナはいそいそとマグを差し出す。

 

 だがアドガードは眉をしかめ、すぐに突き返した。

 

「だめだ。なんだ?この匂い……知らないものばかりだな」

 

「これでも、たった八十年の変化なんスよ。」

 

「……たった八十年、か。」

 

 アドガードはその言葉をゆっくりと反芻し、短く息を吐いた。

 そして「顔を洗ってくる」とだけ告げ、立ち上がる。

 ローデン川を北へと登っていく。

 

 その背を見送りながら、カナは服に着いた黒ずんだシミを見て、体の芯が冷たくなる。

 ブルブルと身震いをして両手でさする。

 

(昨日はホント、肝が冷えたな……)


 嫌な予感が胸をくすぐった。

 首を大きく横に振り、予感を振り払う。


 (……さて、リリメルさんでも起こそうかな)

 

 そう思い立ち、テントの入口に手をかける。

 紐を解き、そっと中をのぞくと――リリメルは既に目を覚まし、紙の上にさらさらと何かを書き付けている最中だった。

 

 細い指が紙の上をすべるたび、複雑な線が組み合わされていく。

 興味を惹かれたカナは、そっと覗き込む。そこには新しい法術陣(ほうじゅつじん)が描かれていた。

 

「……ほぉ」

 

 思わず感嘆の声が漏れる。

 

 リリメルは、まるで呼吸をするような自然さで法術陣を生み出していく。

 

 (法術全書(ほうじゅつぜんしょ)も無しで構築ができるんスね。)

 

 カナは感心しつつ、リリメルが描き終えるのを待った。

 

 筆が止まり、リリメルが紙を持ち上げて確認している。

 

「それ、何の法術陣なんスか?」

 

 カナの問いにリリメルは振り返り、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「おはようございます。」

 

 リリメルは起き上がり、外から吹き込む冷たい風に少し体を震わせる。

 書いていた紙をカナに差し出した。

 

「昨日、少し反省しましてね。やっぱり簡単にでも“居場所”が分かる方が良いと思ったんです。これは位置探索の法術陣(ほうじゅつじん)なんですよ。」

 

 リリメルはそばにあった布を肩に纏いテントから外へ出る。

 目を凝らしながら土の上を観察すると、やがて一匹の蟻を見つけた。

 その進行方向に紙をそっと置く。

 蟻が陣の中央に入った瞬間、彼女は法力(ほうりょく)を注いだ。

 

 次の瞬間――翠輝(すいき)が陣を走り抜ける。

 

 驚いた蟻は慌てて紙の上から逃げ出した。

 すると、風とは反対の方向へ、紙が蟻を追うように地を滑った。

 

「上出来ですね!」

 

 リリメルは嬉しそうに声を上げると、紙を拾い上げ、素早く一部を書き換えた。

 途端に、法術陣(ほうじゅつじん)は動きを止める。

 

「今消したの、個別特定(こべつとくてい)の印ですか?」

 

 カナが目を輝かせて尋ねると、リリメルは得意げに頷いた。

 

「そうです。……ただ簡略化しすぎたので、設定を変えるたびに書き直さなければなりませんけど。とりあえず成功したので、及第点でしょうか。」

 

「なにしてるんだ。」

 

 背後からの声に、リリメルは肩を跳ねさせた。

 咄嗟に紙を背中へ隠す。

 

 位置特定――それは便利であると同時に、相手を信用していない証でもある。

 仲間に施すのはどうかと昨夜は悩んだが、やはり必要だと考え直したのだ。

 

 リリメルは小さく息を整えると、意を決して口を開いた。

 

「……自由に動くためにも、必要だと思うんです。位置特定の法術をかけさせていただけませんか?」

 

 その声には不安が混じる。

 この法術陣(ほうじゅつじん)をアドガードが、どう感じるのかわからなかったからだ。

 

 だがアドガードは意外にも、あっさりと頷き、無言で腕を差し出した。

 水で洗い流された服を片腕にかけている。

 きっと昨日のことは、彼自身にも思うところがあったのだ。

 

 リリメルは、法術陣(ほうじゅつじん)の紙をそっとアドガードの腕に載せた。

 

 次の瞬間――淡い光が彼を包み込み、先程同様に紙はアドガードに向かって動き出す。

 

「成功ですね。」

 

 リリメルはその紙を折り畳み、片付けた。

 胸のつっかえが取れて、リリメルは深く伸びをする。

 

 焚き火を囲い、朝食が始まるとカナが二人へ提案をした。

 

「カルディナに行く途中で、トリヴァラって小さな街を通るんス。そこ、私の生まれ育った街なんですよ。アドガードさん、ずっと千年刑務所の囚人服じゃ目立ちすぎるんで……姉がやってる縫製所で服を新調するってのはどうっスかね?」

 

 アドガードは少し戸惑ったようにリリメルへ視線を向け、無言で許可を求める。

 

「良いですね! カナさんの故郷も見てみたいです」

 

 リリメルの快諾に、カナはぱっと笑顔を見せた。

 

「じゃあ、決まりっスね!」

 

 その瞬間、空を裂く影が三人を覆う。

 大きな鷹が翼を広げ、太陽を遮った。

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