015 北へ
北から南へ冷たい風が吹き抜け、リリメルの頬を撫でる。
膝の上の地図が風を孕んで羽ばたいた。
慌てて手で押さえ込みながら、リリメルはこれからの進路を指でなぞる。
その指先は迷うように、地図の上を忙しく行き来した。
進路は二つ。
南に向かい、風聖のアイゼンガルドから橋を渡るか。
それとも北へ向かい、中立国ローデン・ハブから航路を辿るか。
どちらも一長一短がある。
片付けを終えたカナが、大きく伸びをしながら声をかけた。
「そろそろ行くっスか」
リリメルはようやく顔を上げ、白んだ空とカナの顔を見る。
目の前には、滔々と流れる広大なローデン運河。
流れに逆らって北へと向かう一匹の魚が、力強く水面を跳ねた。
――ピチャン。
遠くで響いた小さな音が、リリメルの気持ちを固めた。
「北に行きましょう」
当然アイゼンガルドを目指すと思っていたカナが、慌てて振り返る。
「えっ? 北って、ローデン・ハブに行くんスか」
その質問に、リリメルは笑顔を向けた。
「よし!」と立ち上がり、まっすぐに北を見つめる。
遠くに見えるのは、ノルヴァ山脈の険しい頂。
あの真下の街が、目的地の一つである学術都市『カルディナ』だ。
リリメルは迷いなく北へと一歩を踏み出す。
靴底の小石が、足の裏に確かな存在を伝えてくる。
痛いような、こそばゆいような……その感触が、なんだか不安定な今日の自分のようだとリリメルは思った。
「航路はお財布が北風に吹かれて、風邪ひいちゃうっスねぇ」
独り言のようにぼやきながら、カナはしきりに自分の財布を確かめている。
何度も首を傾げるその仕草が、なんだかおかしくてリリメルは微笑んだ。
「仕方ないですよ。カーヴェインさんとの面会は五日後。二日余分にかかる陸路は選べません。それに……」
リリメルは、ちらりと背後のアドガードを振り返る。
北からの風が心地よいのか、昨夜より随分と顔色が良い。
昨日、彼に何があったのかはまだ聞けていない。
ただ、少なくとも『聖風衛士団』の本拠地であるアイゼンガルドに、彼は行きたくないだろうと思ったのだ。
「それに?」
カナが言葉の続きを促すように、リリメルの顔を覗き込む。
「……はやく、カナさんの故郷が見たいですから」
にっこりと微笑むリリメルに、カナは諦めたように首を振った。
「仕方ないっスね。風聖様に貢献するっス」
その言い回しに思わずリリメルが声を上げて笑う。
アドガードがひとり、頭を傾げながら、後ろから低く問いかける。
「ローデン・ハブは中立国だろ。なんで風聖なんだ?」
「航路の権限だけは風聖所有なんスよ。あの守銭奴がこんな美味しい商売を手放すわけないです」
「それはご苦労なことだな」
アドガードの投げやりな一言が北風に吹かれて南へと運ばれた。
***
太陽が頂点を少し過ぎた頃、一行の眼前に一つの街が現れた。
反り立った崖の上に立つその街こそが、中立国ローデン・ハブだ。
川沿いでは数隻の船が忙しなく荷の積み下ろしをしている。
重い荷を担ぎ、街へ入るための長い階段を上る男たちの背中は、どれも屈強で険しかった。
そのうちの一隻、船首に腰をかけて煙管を薫らせる老夫に、リリメルは声をかけた。
「こんにちは! こちらの船には、どうすれば乗れますか?」
老夫は興味深そうにリリメルを眺めた。
皺枯れた顔も手も真っ黒に焼け、白い髪がよく映えている。
老夫は煙管をクルリと回すと、無言で崖の上の階段を指し示した。
「あの上に行けばいいですか?」
リリメルの問いに、老夫はただ頷く。
「ありがとうございます!」と大きく一礼して歩き出すと、彼は背後で右手をひらひらと振ってくれた。
背丈の三倍はあろうかという長い階段を上り詰めると、立派な待合所が姿を現した。
木製の重厚な扉を開くと、そこには白い大理石で構成された室内が広がっている。
中立国とはいえ、その格式の高さは「いかにも風聖らしい」と言わざるを得ない。
右手には乗船予約の受付カウンター、反対側にはベンチと、軽食の取れる食堂があった。
食欲をそそる香りの誘惑に、なんとか精神力で勝利し、リリメルは受付へと向かった。
備え付けられた掲示板には、目的地と料金が記されている。
『トリヴァラ行 千五百コルト/人』
リリメルは目を疑った。
何度も擦ってみるが、数字に変化はない。
隣ではカナが「ほら見たことか」と言わんばかりの溜息をついていた。
「せん……ごひゃく……? え? これ、一人分でしょうか?」
「そうっスよ。私が丸一日、必死に働いた分と同じ。それが一瞬で消える金額っスね」
遠くを見つめるカナの目の前で両手を「おーい」と振ってみる。
「……とりあえず、お昼ごはん食べましょうか」
「リリメルさん、それを世間では『現実逃避』って言うんスよ」
疑り深く細められた視線が突き刺さる。
まぁ気にしても始まらないので、リリメルは早々に踵を返した。
食堂でサンドイッチと水を買ってベンチに座る。
だが、カナの視線はなおもリリメルを舐め回すように追ってきた。
「リリメルさん……二人分、本当に足りるんスか?」
リリメルはサンドイッチの断面に視線を走らせた。
正直に言えば、足りていない。
けれど、方法がないわけではないのだ。
腰に下げた数珠から一つの宝珠を抜き取ってカナの前に差し出した。
「これを売れば、足ります」
「……つまり、現時点では足りないんスね?」
カナの呆れた目が痛い。
「もともと私は宝珠を売りながら旅費を工面しているので、これが私の『通常』ですよぉ」
リリメルは口を尖らせた。
「リリメルさんは、中立国のことを知らなすぎるっスね」
カナの言葉には、この先に待ち受ける更なる困難を予見するような、重い響きがあった。
***
食事を終えた一行は、待合所を後にした。
一歩外へ出ると、景色は一変する。
美しく整えられていたのは待合所へ続く道だけで、そこから外れると道は剥き出しの土のままだ。
港町特有の湿り気と埃っぽさが混じり合った、剥き出しの活気がそこにあった。
往来は激しく、荒々しい。
リリメルは人混みの中、立ち止まっていた老婆に声をかけた。
「すみません。宝珠を買い取ってくれる質屋か道具屋を探しているのですが……」
「宝珠……? 宝珠を売ってくれるのかい!?」
老婆の目が、獲物を見つけた獣のようにぎらりと輝いた。
「私に売っておくれよ! 道具屋なんて通す必要はない。私ならそこらより高く買うから!」
「へぇ……?」
老婆ががっしりと両肩を掴み、リリメルは変な声を上げた。
顔を寄せられ、唾を飛ばさんばかりの勢いに気圧される。
「え、ええと……おいくらで、買い取っていただけるんでしょうか?」
「十万セインでどうだい! なんなら十五万出してもいいよ!」
「セ……セイン? 十万セインというと、千コルトくらいでしたか?」
困惑するリリメルの周囲に、異変を嗅ぎつけた人々が次々と集まってきた。
「おい、宝珠だってよ!」「本当か、こんな娘が持ってるのか!?」
欲望を隠そうともしない野次馬たちの勢いに、リリメルはたじろぎ、一歩、また一歩と後退していく。
「なら、俺は二十万セイン出す!」
「なにをなにを! 私は二十五万だ! こっちへ渡しな!」
突如として始まった競りの咆哮。
欲望に突き動かされた群衆に包囲された。
「はぁぁぁ……」
後ろからカナの大きなため息が、「ほら見たことか」と言っているようだった。




