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012 逃避


「ごめん……」

 

 アドガードの影がシャルンにかかる。

 小さな亡骸の前に膝をついた。

 ほんの数刻前まで敵であり、拳を合わせた相手だった。

 セラフィムが言った通り、助ける理由など、どこにもなかったはずだ。

 

 そう何度言い聞かせても、心の中で響く声は「もう少し早く追いかけていれば」だの「裏路地に行くことをはじめから阻止していれば」だの、どうしようもない後悔が泥水のように溢れ脳内に停滞する。

 

 無理やり連れてこられて、無理やり戦わされて……最後が森の中で一人きりだった。

 グリンドに会っていなければ、全然違う未来もあっただろう。

 

 もう冷たくなったシャルンの小さな手を取った時、自分の手が震えていることに気が付いた。

 

 短すぎる人生の終焉。

 せめて、安らかであるように仲間の元へ返してやりたい。

 

 アドガードは冷たい小さな手を両手でギュッと握りしめ、シャルンを抱えるために手を伸ばした。

 

 ――ゴンッ!!

 

 シャルンとアドガードの間に振り落とされた棍棒が、大地を砕き、土埃を巻き上げた。

 

 月光に照らされた影は、セラフィムの華奢な姿とは比べものにならぬほど巨大だった。

 背筋をなぞるような殺気。

 暗闇に浮かび上がる燃えるような赤い目。

 

 次の瞬間、空気が鋭く裂けた。

 樹々を薙ぐほどの長い棒が、無造作に振るわれる。

 反射的に枝の上へと飛び退く。

 

 風圧でシャルンの眠る木が揺さぶられ、枝葉がざわめいた。

 

 その背から、ひとつの影が飛び降りる。

 小さな足音が地を蹴り、シャルンへと駆け寄る。

 それは長い耳に薄茶色の毛並み、兎族のミュラだった。

 

 シャルンの傍らに膝をつき、その身体に触れた瞬間、喉を裂くような悲鳴が森に響いた。

 ミュラの泣き声は永遠のように続き、止むことはない。

 

 大男、ラン・フェンの棍棒を構える肩が震えている。

 怒りに燃える瞳は、アドガードを睨みつけて離さない。

 

「なんでや……なんで、こんなことができるんや……!」

 

 ランの頬を涙が伝う。

 

 アドガードが身を隠した木の幹を棍棒で薙ぎ倒す。

 木は轟音と共に崩れ、アドガードは宙へと投げ出される。

 

「シャルンがお前になにをしたんや!!」

 

 アドガードは言葉を失った。

 自分は彼を殺してはいない。

 なんと言えば信じてもらえると言うのだろうか……

 

「月聖200人殺しの裏切り者」の弁明を一体誰が信じてくれるというのだろうか。

 

 理不尽な状況に胸を焼かれながらも、アドガードはただ、己の手の届かなかった無力を噛みしめるしかなかった。

 

 唸りを上げて振り下ろされる棍棒。

 ラン・フェンの一撃は、地を割り樹々をへし折るほどの威力を秘めていた。

 アドガードは辛うじて身を翻し、森の奥へと駆け込む。

 

 頭上で枝が裂け、木の幹が鈍い音を響かせて崩れ落ちる。

 殺意に満ちた打撃が、追撃のように背中を追い立てた。

 

 ――ふと気づけば、音は追ってこなかった。

 振り返れば、ラン・フェンはその場を動かず、シャルンとミュラの側に膝をついていた。

 幼い亡骸を抱き締める少女の肩を庇うように、彼は棍棒を地に突き立て、アドガードをただ睨み据えている。

 

 その視線は言葉以上に雄弁だった――「許さない」と。

 

 アドガードは歯を噛みしめ、森の闇を大きく迂回しながら街道へと戻る。

 血の匂いがまだ鼻腔に残り、吐き気を誘った。

 自分のせいではない。

 そう繰り返しても、胸の奥で澱む苦味は消えない。

 

 木々の隙間から街の明かりが見え始めた頃、空を駆ける影が視界をよぎった。

 ――リリメルだ。

 大地がそこにあるように空中を走り、彼の前へ降り立つ。

 

「アドガードさん……?! 無事だったんですね!」

 

 リリメルの声は少し震えていた。

 その視線は、服にベッタリと付いた返り血に向けられる。

 不安そうな翡翠色の瞳が、アドガードを見つめる。

 

 だが、彼にはリリメルを思いやる余裕がない。

 ただ低く、「街を出る」とだけ告げ、地面を蹴った。

 

 二人が噴水のある公園にたどり着くと、そこにはすでにカナが待っていた。

 夜気に白い息を吐き出す。

 二人の姿を見つけるや否や駆け寄ってきた。

 

 カナの視線はそっぽを向いたアドガードに向けられる。

 長い前髪に隠されて真意は覗けなかった。

 リリメルに目を向け直したが、視線を外して自分の後ろ髪を撫でつけた。

 

「すぐ街を出るって……夜っスよ? それに次の目的地も決めてるんスか?」

 

「決めています。風聖(ふうせい)の街――カルディナへ向かいます。」

 

「カルディナまで行くなら三日はかかりますよ? この街を出たら、次の街までは一日半。今夜は宿に泊まって、準備を整えた方が……」

 

「……なら、お前はそうしろ。」

 

 カナの煮え切らない態度に、アドガードは低く吐き捨てた。

 苛立ちを隠さないその響きに、カナの肩がびくりと震える。

 

 アドガードはもう、振り返らなかった。

 街の灯を背にして、足早に闇へ踏み出す。

 落ち着きなく周囲に視線を走らせ、常に背後を警戒する様子は、何かから逃げているようにも見えた。

 

 リリメルもカナも、互いに視線を交わすだけで何も言えない。

 何かがあったのだ――そのことは、十分に伝わってきた。

 けれども、それを尋ねることができなかった。怖くて、踏み込めなかった。

 

 静まり返った夜の道を、三人はただ、沈黙のまま歩き続けた。

 

 石畳を離れると、すぐに街道は土の匂いを帯び始めた。

 アドガードの荒い足取りが、湿った土を無造作に蹴り上げる。

 跳ねた泥が、リリメルの真っ白なブーツに黒いシミを作った。

 

 街の灯が背後に小さくなるにつれ、三人の足音だけが世界に刻まれていく。

 

 アドガードは一度も振り返らない。

 荒い呼吸を抑え込み、ひたすら歩を早める。

 その背中は重く、広いはずなのに孤独の影を纏っていた。

 

 リリメルは口を開きかけては、また唇を噛む。

 声をかければ答えてくれるのか、それとも拒まれるのか――その恐れが彼女を沈黙に縛っていた。

 手を伸ばせば届く距離にいるのに、背中が遠い。

 

 カナは腕を組み、落ち着きなく目を泳がせていた。

 「なにか」が自分にとって最高の記事になるのか、それとも地獄まで引きずり込まれる枷となるのか、測りかねていた。

 

 アドガードの背は「放っておいてくれ」と言っていた。

 

 時折、風が草原を渡ってくる。

 乾いた草が擦れ合う音が、何かの気配に聞こえて胸をざわつかせる。

 誰も声を発さないせいで、些細な音までが必要以上に大きく響いた。

 

 リリメルはふと夜空を見上げた。

 雲間から覗く星々が、あまりに遠く冷たい。

 胸の奥に広がるのは、安堵でも希望でもなく、得体の知れない喪失感だった。

 

(シャルンくんはどうなったのでしょうか。)

 

 飲み込んだ問いが、毒のように胃の腑を掻き回す。

 

 三人の間を埋めるのは、ただ乾いた夜風と、土を踏みしめる靴音だけ。

 

 その沈黙は、もはや言葉を拒絶する呪いそのものだった。

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