011 闇夜の再会
「なぜ庇う? 知り合いというわけでもないだろう。」
セラフィムの問いに、アドガードは目を見開いた。
そこで初めて、己の行動が思考を介さない、純粋な反射であったことに気づかされる。
「理由なんてない。」
フンッと鼻で笑ったセラフィムが「酔狂なことだ」と吐き捨てた。
「ここで直々に相手をしてやるほど、僕は暇ではない。ケガレは部下に任せるとしよう。」
だが、その瞳には今までとは違う、明らかな不快の色が宿る。
彼は掴まれたままの腕をアドガードの眼前へと突き出した。
「腕を離してくれないか。誇り高き風聖の騎士に、獣皮の臭気が染みつくなど――言語道断だ」
言葉の毒に、アドガードの眉がわずかに動く。
セラフィムは袖口を、まるで汚泥でも付着したかのように払い落とした。
細められた目は侮蔑に歪み、その吐息は冷徹そのものだった。
「追わなくていいのかい? 僕の部下は優秀だよ。君のように鈍重ではない」
――嘲弄めいた声は、アドガードの迷いを見透かしているようだった。
次の瞬間、背後から翠輝があがる。
「ギャハハハハ!!」
グリンドの気味の悪い笑い声が路地裏に響いた。
その声にアドガードの胸がざわつく。
気がつくと地面を蹴り、血の匂いを追っていた。
視線の端、セラフィムが刀を振り下ろした。
大気は冷たさを含む屋根の上。
血の匂いを追って、アドガードは真っ直ぐに中央都市の夜を駆け抜ける。
頭には「追ってどうする?」と何度も繰り返し問いが浮かぶ。
(リリメルがいなければ、結局俺には何も出来ない。追いついたところで、戦えもしない……)
心臓がギュッと握られたような、息苦しさを感じる。
己の不自由さ、無力さが骨の髄まで突き刺さる。
それでも、アドガードの足はなにかに導かれるように、屋根を蹴って駆けていた。
匂いの糸は街を抜け、やがて郊外の森へと伸びている。
***
「なにやってるんスか?!リリメルさん!!」
カナの厳しい声が、暗くなりかけた中央都市に響く。
リリメルとカナは、中央都市の喧騒をあてもなく駆け回っていた。
「アドガード・ウィキが何かしでかしたら、全責任はリリメルさんに降りかかるんですよ?!」
続けられた叱咤に、リリメルは体を小さくする。
カナは息も切れ切れにまくし立てた。
「だ……だいじょうぶですよぉ……」
頼りなげに笑うリリメル。
自分の言葉にまるで自信がない。
アドガードを信じ切るには、付き合いが短すぎる。
ランが消えたあとも姿を現さないアドガードを心配して、周囲を探してみたが、二人の姿は忽然と消えていた。
随人契約の内容を自分はどこまで説明しただろうか、と冷たい汗が伝う。
胃の辺りが重くキリキリと痛い。
もしアドガードが誰かを傷つけでもすれば……嫌な予感が頭を駆け抜ける。
(私の首が飛ぶどころか、華聖に多大な迷惑をかけてしまう……)
それだけは阻止しなくてはいけない。
孤児であったリリメルを育ててくれた華聖の教祖に報いたくて、ここまで来たのだ。
それではあまりにも、本末転倒だ。
ただでさえ、彼を連れ出したことで、現状最強と名高い月聖を敵に回したも同然だ。
ここで犯罪者として追い回されるわけにはいかない。
まだ準備も力も、何ひとつ整っていない。
「なにが大丈夫なんスかっ!」
カナが足を止め、振り返って怒鳴った。
「アドガードは十数年間、月聖と肩を並べて戦ったんスよ! それをたった一晩で――身勝手な理由ひとつで壊滅させたんです!連れ出すなら、その覚悟を決めるべきだったんスよ!八十年間誰も連れ出さなかった理由をちゃんと考えたんスか?!」
カナの鋭い問いが、リリメルの胸を抉る。
言い返せる言葉はない。
カナの大声に、人だかりができ始める。
その人混みをかき分けるように足を進める背中は、憤りを隠せない。
巻き込んでしまっている以上、カナの叱責を受け止めなくてはならない。
リリメルは所在ない気持ちで肩を竦める。
心臓が早く波打っているのは、走り回っているからだけではない。
「どうした?」「喧嘩か?」と口々に話す民衆の隙間を縫うように走りながら、リリメルは祈っていた。
(……大丈夫。きっとなにもない。歴史は間違っているのだと、そう信じたんですから)
リリメルは自分自身に言い聞かせる。
――その時、カナが何かを思い出したように足を止めた。
「リリメルさん! 飛べないんですか? 法術とかで! 上から探せばもっと早いはずっス!」
「――?!飛べます!」
自分がいかに混乱していたのか、リリメル自身が一番驚いていた。
カナは踵を返し、走りながら続ける。
「じゃあ私は地上を探します!上からは見つけられないところを重点的に。見つかっても見つからなくても、さっきの噴水のところで――一時間後に!」
「はい!」
リリメルはその場に留まり、目を閉じて、一度大きく深呼吸をする。
(落ち着きましょう。冷静に……)
言い聞かせて最後に大きく息を吸う。
両頬を平手打ちして「よし!」と気合を入れた。
リリメルの白いブーツに翠輝の法術陣が浮かび上がる。
空気の階段を踏みしめるようにして、空へと駆け上がった。
中立国の民衆が、地上からその輝きを見上げてどよめく。
そのどよめきさえ、今のリリメルには自分の無謀さを責める声のように聞こえた。
***
街を抜け、森へと踏み込む頃には、太陽の残滓は完全に消え去っていた。
近づくたびに血の匂いが濃くなり、胃が縮み喉まで何かが迫り上がる。
あの日の気持ち悪さが蘇る。
ヒンヤリとした汗が背中を伝う度に、肌が泡立つのがわかった。
枯葉を踏む音は、アドガード一人分しか聞こえない。
枝を払い、湿った大地を踏みしめ、願うように血の痕跡を辿った。
木の根元に人影が見えて、足が止まった。
――小さな体に丸い耳。
ピクリとも動かないその人影が誰であるのか、確かめるのが怖い……
フーッ、フーッ
何度も息を吸うのに肺まで届かずに息苦しさが消えない。
地面に縫い付けられたように重い足を、一歩前へと送り出した。
東の空に三日月がのぼる。
月光が真っ暗な影に色を落とした。
シャルンの金色の髪が風に揺れる。
瞳はもう、光を映してはいなかった。
胸の真ん中にぽっかりと空いた穴から、その幼い命はすべて零れ落ちた後だった。
指先が震え、伸ばそうとしては宙に止まり、触れることをためらう。
胸の奥を締めつける痛みを、どう言葉にすればいいのかもわからない。
「……ごめん。」
搾り出した謝罪は誰にも届かず、闇夜に吸い込まれて消えた。




