009 聖風衛士団
――四人は街道を抜け、広場の噴水へと向かった。
そこなら、人目を気にせずミュラの治療に専念できると考えたからだ。
水が出なくなって久しい壊れた噴水の縁。
そこに腰をかけたリリメルは、ランから折れそうなほど小さなミュラの体を受け取った。
リリメルが胸元の飾りにそっと触れる。
すると、鮮やかな翠輝が放たれた。
その光に呼応するように、ミュラの胸元には緻密な法術陣が浮かび上がり、柔らかな光の繭が彼女を包み込んでいく。
「見た目は酷いですが、表面的な怪我ばかりです。すぐに良くなりますよ」
リリメルの穏やかな言葉に、ランはようやく胸を撫で下ろした。
やがて翠輝は名残惜しそうに揺らめいて消え、ミュラの痣や傷跡は、まるで最初からなかったかのように完治していた。
「良かったなぁ。すぐ親元に返したるからな……」
ランが大きな掌でミュラの頭を撫でる。
その優しげな目元が、少しずつ険しさを帯びていく。
ランは徐にリリメルの隣に座ると、膝に肘をつき、合わせた掌を口元に当てて低く切り出した。
「……噂を聞いたんやけどな」
唸るような声が、乾いた噴水の底に反響する。
「華教徒がアドガード・ウィキを連れ出そうとしとるって。それ、もしかしてあんたか?」
ランがリリメルの横顔をチラリと覗き込む。
リリメルは答えの代わりに、ただ柔らかく微笑んで見せた。
ランは深く、重苦しい溜息を吐き出した。
「ただでさえ、この宗戦は二十年も続いてる。……なんで華聖まで参戦すんねん」
苦虫を噛み潰したような顔と、怒気を孕んだ声音。
リリメルはランの想いを逃げずに受け止めるべく、体を彼の方へ向け、真っ直ぐに見つめる。
「華聖は政権に興味のない『恩恵派』やったんちゃうんか?」
「華聖は宗戦には参戦しません。それに、政権に興味がないのは鳥聖も同じではありませんか?」
「鳥聖は……ウチらは己の体をどこまでも鍛え上げる。それを良しとしとる。せやから、強い奴と戦えるんなら、オレらは戦う」
ランの瞳は雄弁に語っていた。
――「だが、お前たちはそうではないだろう」と。
「誤解せんで欲しいんやけどな。オレは力ある奴が戦うのは大いに結構やと思っとる。リリメル、あんたがどのくらい『闘える(やれる)』のかは知らん。でもな、あんた以外の華教徒はどうなるんや? ほとんどの華教徒は戦う準備なんてしてへん。もし風聖や月聖が本気で攻めてきたら……」
仲間を案じる、悲痛な響き。
有事の際、非力な華教徒を常に最前線で支えてきたのは鳥聖だった。
華聖と鳥聖は古来より助け合ってきた。
リリメルの行動一つで、華聖に危機が及ぶことをランは危惧している。
「そうですね」
リリメルは伏せ目がちに微笑むと、一度ゆっくりと深く目を閉じた。
そして、顔を上げて凛と告げる。
「必要な三人の仲間が揃ったら、私は華聖を抜けます」
――揺るぎない、離反の決意。
翡翠の瞳に宿る、全てを捨て去る覚悟の光を見て、ランは言葉を失った。
彼は拳をきつく握り締め、一度深く呼吸を整えると、眠るミュラを抱き上げる。
「……回復してくれて、ありがとうな。ほな、オレらはそろそろ行くわ。やらなあかんことがあるんや」
「いえ。また困れば、いつでも呼んでください」
そこへ、カナが慌てて割って入る。
「ちょっ、ちょっと! その子をどこに連れて行くスか!? 友達のシャルンくんが探してるんスよ!」
「なんや、目的は一緒やないか。この子も、そのシャルンってガキも、オレがまとめて面倒みたるわ!」
快活な笑い声を残し、ラン・フェンは雑踏の中へと踏み出した。
豪快な笑い声が石畳に反響し、やがて喧騒に溶けて消えても、リリメルはその背中が見えなくなるまで見送った。
***
屋台の煙と群衆の波が、リリメルたちの姿を視界から遠ざける。
アドガードは屋根の上で、息を潜めながら地上の雑踏に目を凝らした。
その後ろでは、シャルンが路地裏や廃屋の隙間にミュラの影を探し求めている。
(グリンドは表通りには出ないはずだ……目立って風衛兵に目をつけられたくないから、あいつは死角になる細い道を選ぶはず……)
シャルンは獅子の丸い耳を小刻みに動かしながら、どんな微かな異変も見逃すまいと意識を集中させる。
その時、路地裏の柱に絡みついた鎖が、傾きかけた陽射しに鈍く反射した。
「グリンドだ!」
シャルンは屋根を強く蹴ると、弾丸のような勢いで鎖の主を目指し、屋根の上を跳ねるように進む。
「おい、勝手に行くな!」
アドガードは咄嗟にリリメルの所在を確認したが、人混みに紛れて判別できない。
千年刑務所の囚人服を纏ったアドガードがこの場に降り立てば、街は一瞬で騒動になるだろう。
だが、躊躇している間にシャルンの背中がみるみる小さくなっていく。
(リリメルが俺をシャルンの側に置いたのは、こういう時に一人にしないためだ……!)
アドガードは己に言い聞かせるように覚悟を決めると、少年の後を追った。
シャルンが鎖を頼りに裏路地へ降り立つ。
だが、そこには無残に千切られた鎖が転がっているだけだった。
辺りを見回しても、ミュラの姿はどこにもない。
代わりに、路地の奥で誰かが横たわっているのが見えた。
嫌な予感が胸をざわつかせる。
駆け寄ったシャルンが目にしたのは、血塗れで転がっているグリンドの姿だった。
息はまだあるようだが、それも風前の灯火だ。
「誰がこんなこと……」
鼓動が早まり、背中に冷たい汗が伝う。
「ミュラ! ミュラァ!!」
必死に叫び、壊れかけた建物や路地の暗がりに声を投げる。
――刹那、アドガードが上空から飛び込んできた。
彼はそのままの勢いでシャルンを抱き抱えると、地面を滑るように姿勢を低くする。
キンッ――!
甲高い金属音が響く。
硬質な火花がアドガードの視界を焼き、首に鋭い衝撃が走る。
アドガードの腕の中で、シャルンが先ほどまで自分が立っていた場所を振り返る。
そこには、抜き身の刀を構えた白い服の男が、静然と立っていた。
刀の刃は間一髪のところで、アドガードの首のトルクによって弾かれていた。
アドガードは地面を滑る勢いを利用して体勢を反転させ、男と対峙するように止まる。
油断なく相手を睨みつけながら、背後に隠したシャルンの無事を手探りで確認した。
「……風衛兵だ」
シャルンの喉が鳴る。
路地の空気が、凍りつくような緊張感に支配された。
「風衛兵?」
「『聖風衛士団』。風聖の治安維持組織だよ……」
次の瞬間、再び刀が閃いた。鋭い風切音が、視覚よりも遅れて耳に届く。
アドガードが咄嗟に仰け反って倒れ込むと、鼻先を刃が掠めていった。
体勢を崩しながらも相手の足を払うように蹴りを見舞う。
だが、剣を振り抜いて隙だらけに見えたはずの相手は、重力を無視するように空中へ舞い上がり、アドガードの蹴りを悠然と回避した。
男は宙返りをしながら距離を取り、優雅に、一点の乱れもなく着地する。
壁を背にしたアドガードの前で、唯一の出口を塞ぐように男が立ちはだかった。
「ふむ……」
小さく頷いたその男は、セラフィム・ヴァルク。細身で背は高くない。
頭の高い位置で一つに束ねられた灰色の長髪に、感情の読めない同じ色の瞳。
風衛兵の隊服の胸元には、九つの星が誇らしげに輝いている。
「さすがに速い……」
セラフィムの瞳は、刃を見つめながらも、決してアドガードから意識を外していない。
冷徹で、かつ狂熱を孕んでいた。
アドガードの体勢が整うのを、礼儀正しく待ってから再び構えた。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。この極限の状況を、まるで愉しんでいるようだった。




