9 醜い本性
私は今日、婚約破棄が公表されてから初めて、社交界の場に足を踏み入れる。
今の私がすべきことは、あの狂った人たちとの関係に、きっぱりと区切りをつけること。
あの日々に囚われたままでは、いつまで経っても前に進めないのだから。
過去の苦しい記憶を振り払い、これからは自分自身のために生きていく。そのためにも、今日という日を無駄にするわけにはいかなかった。
そんな決意を胸に、私は広間の中へと歩みを進めた。
会場に足を踏み入れた途端、あちこちから向けられる視線に気づいた。
楽しげに談笑していた貴族たちがこちらを振り返り、手にしていたグラスを口元で止める。
「リゼット嬢……なぜ彼女がここに?」
「第二王子と婚約を解消され、隣国のラディア公爵と婚約されたという話は本当なのか?」
「ですが、リゼット嬢は額に傷を負われたのですよね? それなのに公爵夫人になど……」
好奇心に染まった瞳が次々と私に向けられる。
憐れむような眼差しもあれば、面白い見世物でも見つけたかのような視線もあった。
この汚く荒んだ世界には、本当にうんざりしてしまう。
額の傷は化粧で目立たないように隠してある。少なくとも、遠目から見ただけでは気づかれないはずだ。
ただ、それでも歩くたびに揺れる前髪が気になって仕方がなかった。
「リゼット様」
不意に名前を呼ばれ、私は足を止めた。
「……ルドヴィカ嬢」
目の前に立ちはだかったのは、愛らしい笑みを浮かべたルドヴィカ嬢だった。
柔らかな色合いのドレスを身にまとい、上品に微笑むその姿は、まさに今夜の主役にふさわしい。
彼女は少しも気後れした様子を見せず、まるで親しい友人にでも会ったかのように、嬉しそうに私を見つめていた。
「わあ、本当に来てくださるなんて感激ですわ」
ルドヴィカ嬢は目を輝かせ、両手を胸元で合わせた。
「せっかくルドヴィカ嬢が直々にお招きくださったんですもの。当然です」
彼女から招待状が届いたときには、いったい何を考えているのかと疑問に思ったものだ。婚約を解消されたばかりの元婚約者を、自分とセドリック王子の婚約を祝う宴に招くなど、普通ならば避けることだろう。
それでも、わざわざ招待された以上、断る理由はなかった。むしろ、こうして直接顔を合わせる機会を与えてくれたことには、感謝してもいいくらいだ。
「私やセドリック王子に何も言わず、突然侯爵家へ帰られてしまわれたから心配していたんですよ。それに、何だか変な噂まで立ってしまっているようで……」
「変な噂ですか?」
「はい。リゼット様が隣国のラディア公爵殿とご結婚されるという、根も葉もない噂です」
「まあ。既にルドヴィカ嬢のお耳に入っているとは、驚きましたわ」
「……はい?」
思いがけない返答だったのだろう。ルドヴィカ嬢の笑顔が、ほんのわずかに強張った。
「では……まさか、この話は事実なのですか?」
先ほどまでの柔らかな声音に、かすかな緊張が滲む。
彼女は笑みを保とうとしているものの、その瞳には隠しきれない動揺が浮かび始めていた。
「もちろんです。本日はそのことをお話しするために参りました」
できるだけ穏やかな声でそう告げると、ルドヴィカ嬢の顔色がみるみるうちに変わった。
「ま、待ってください。それじゃあ、一体誰が王子の仕事を……!」
ルドヴィカ嬢が悲鳴にも似た声を上げた、そのときだった。
「何だと?」
彼女の言葉を遮るように、背後から低く、威圧的な声が響いた。
聞き慣れたその声に、私はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、やはりセドリック王子だった。
以前はいつだって自信に満ち溢れ、まるで自分の思いどおりにならないことなど、この世にはひとつも存在しないとでも言いたげな顔をしていたセドリック王子。
王族としての威厳を当然のように振りかざし、周囲から敬われることに何の疑問も抱いていなかった彼が、今は見るからに疲れ切っている姿に驚いた。
その顔には隠しきれない疲労の色が濃く浮かび、目の下には薄っすらと隈まで刻まれている。
いつもならば余裕たっぷりに細められているはずの目元にも、どこか苛立たしげな影が差していた。
「お久しぶりですね、セドリック王子」
少し見ないうちに随分と老け込んだみたいだけど、一体どうしてしまったというの?
「リゼット、今の話は本当なのか。お前が隣国の公爵と婚約したという話は……」
セドリック王子は私の挨拶に応じることもなく、矢継ぎ早に問いかけてきた。
かつての私なら、彼のそんな困り果てた顔を見るだけで、どうにかして力にならなければと思ったはずだ。
何に困っているのか、何を望んでいるのか。彼が口にするよりも先に察し、少しでも負担を減らせるようにと考えてきた。
婚約者なのだから、彼を支えるのは当然のこと。そう信じて、どれほど理不尽な要求にも応えようとしてきたのだ。
でも、今は違う。
彼がどれほど困った顔をしようと、私にはもう関係のないこと。
「お二人とも同じことを仰るなんて、本当に仲がいいのですね」
私は隣に立つルドヴィカ嬢へちらりと視線を向けてから、再びセドリック王子に目を戻した。
「はい、公爵様から婚姻を申し込まれたので了承しました。お二人のように仲睦まじい夫婦になれるとよいのですが」
にこやかにそう告げると、セドリックの眉間に深い皺が刻まれた。
「侯爵家に勝手に帰ったかと思えば、隣国の公爵と結婚するだと? お前、一体誰の許可を得て……」
「王子が何を仰りたいのか私には理解ができません。今まであなたの言葉に従ってきたのは、あなたが私の婚約者だったからです。ですが今は、私たちは何の関係もありません。ですから私があなた個人の命令に従う義理はないでしょう」
婚約者でもないのに、それでも私をまだ酷使しようというの?
「あなたが国王陛下ならまだしも……」
顎に手を添えて意地悪くそう言うと、セドリックの表情が一層険しく歪んだ。
「お前、よくもそんなことが……!」
私は満足げに口角を上げて彼を見上げる。
そうよ、あなたはいつだって自分の理想にそぐわないことが起これば子供のように我儘を言い、横暴に振る舞った。
それこそがあなたの醜い本性よ。
『今まで僕を飾る花となってくれたこと、感謝するよ』
顎で使っていた元婚約者に感謝を告げたりしない。
いつまでも人を自分の所有物として扱い、自分の気に触ることがあればすぐに声を荒げる哀れな王子様。
私はあなたのことが、心の底から嫌いなの。




