10 刻まれた傷
「王子、どうか落ち着いて。あなたにはこの私が……」
いつもの愛らしい笑顔はすっかり影を潜め、大きな瞳には焦りが滲んでいた。
どうにかしてセドリックの機嫌を取り戻そうと必死のようだが、彼女の言葉は届くどころか、かえって彼の怒りを煽っているようだった。
ルドヴィカが伸ばした手が彼の身体に触れるよりも先に、セドリックは鬱陶しそうに振り払った。
「お前がまともに仕事ができないから言っているんだろう、ルドヴィカ!」
「わ、私は……!」
突然の叱責に、ルドヴィカは言葉を詰まらせた。
先ほどまで必死に取り繕っていた表情が、みるみるうちに歪んでいく。大きな瞳を震わせ、悔しそうにセドリックを見つめるその姿は、なかなかに見ものだった。
『醜く朽ちていく運命なんて……私には絶対に耐えられません』
ふと、あの庭園でルドヴィカに告げられた言葉が脳裏をよぎった。
彼女は確かに美しかった。
またルドヴィカも自身の美しさをよく理解しており、それを失うことなど自分にはあり得ないとでもいうように、私に向かって言い放った。
ルドヴィカ嬢。あなたは確かに美しく、今も尚咲き誇っている花だわ。私とは違って。
それでも、私の目にはあなたがとても醜く映るの。
どれだけ外見が美しくても、その内面が滲み出るようでは、ダメだということね。
そう冷静に自分の中で結論付けていると、またセドリックの鋭い視線が私へと向けられていることに気が付いた。
「リゼット、すべてお前のせいじゃないか。お前が傷モノになどならなければ、こんなことには……!」
怒りに顔を歪ませながら伸ばされたセドリックの手が、私の目の前まで迫り寄る。
私は反射的に身構えながらも、どこか冷めた気持ちでその手を見つめていた。
もしこの手が私に触れたら、思いきり悲鳴を上げてやろうかしら?
そう考えた、その時だった。
「セドリック・ディ・ルミエール」
美しくも威厳ある女性の声が会場に響き渡る。
その場にいた全員の視線が、その声の方へと集まった。
「母上……?」
そこに立っていたのは、セドリック王子の実母であるルミエール王国の王妃だった。
今宵の宴会はセドリックとルドヴィカの婚約を披露する場所。
王妃のように面倒ごとを避けるような人は、絶対に参加してこないと思っていたのに……。
「一体何を騒いでいるのかと思えば、あなたは一体何をしているの」
分かりやすく怒りを露わにした王妃は、優雅に私たちの元へと歩いてくると、自身の息子を冷たく睨みつけた。
「令嬢に対して傷モノ呼ばわり。彼女への言葉、このわたくしが確かに聞きましたわよ。しっかりと説明していただきましょうか、第二王子」
王妃は冷ややかな眼差しで息子を見据えると、自身の腹へと両手を添えた。
「お前の母は、お前を産む際に腹を切りました。ここには彼女とは比べものにもならないほど深く醜い傷跡が残っています。わたくしは、それだけで王妃の座から引き摺り下ろされる存在になるのかしら? 傷がついた女は、価値がなくなってしまうのかしら」
「母上、僕はそんなことを言っているのでは……」
「黙りなさい! 少なくともお前の父である国王陛下は、そのように愚かなことを言いはしなかった! 一体お前はどうしてそうなってしまったのか……」
王妃は額に手を当て、深々と息を吐き出した。
息子を厳しく問い詰める彼女の顔には、怒りだけでなく、どうしようもない失望が滲んでいる。
セドリックは何か言い返そうと口を開きかけたものの、結局何も言えずに口を閉ざした。
大勢の貴族たちが見守るなか、これ以上何を言っても自分の立場が悪くなるだけだと、ようやく気づいたのかもしれない。
「みっともない姿をこれ以上晒すつもりですか。今日から一月、お前に謹慎を命じます。いいですね」
断固たる声でそう言った王妃は、後ろに控えていた従者に視線で合図する。
「待ってください、母上! 誤解です!」
従者たちがセドリックの両腕を取ると、彼は途端に声を荒らげた。
「お前たち、その手を離さないか!」
「王妃様のご命令です。どうかご理解ください、第二王子殿下」
「ま、待ってください、セドリック王子……!」
二人の姿が扉の向こうへ消えていくのを、私はただ呆然と見送っていた。
まさか、王妃が自分の息子に謹慎を命じるなんて。しかも、これほど大勢の貴族たちが見守る場で、あそこまではっきりと叱責するとは思いもしなかった。
あまりにも予想していなかった展開に、知らず知らずのうちに肩へ力が入っていたことに気づき、私はそっと息を吐いた。
つい先ほどまで、あれほど騒然としていた会場が嘘のように静まり返っている。
誰もが突然の出来事に戸惑っているのか、すぐには言葉を発しようとしなかった。先ほどまで私とセドリックのやり取りを面白がるように眺めていた貴族たちも、今は口を閉ざし、互いの顔色を窺っている。
第二王子が母親である王妃に叱責され、会場から連れ出されたのだ。いくら好奇心を抑えきれなくとも、軽々しく口を開くわけにはいかないのだろう。
「リゼット嬢。本当にごめんなさいね」
王妃は何事もなかったかのように私へ向き直ると、先ほどまで息子に向けていた厳しい表情を和らげた。
「あの子があなたを婚約者に選んだと聞いたときから、わたくしは、あなたならあの愚かな息子を良い方向へ引っ張ってくれると信じていたわ」
周囲の様子を一度だけ確かめるように視線を巡らせると、すぐに艶やかな笑みを浮かべ、私の手をそっと握る。
「そして、あなたはわたくしの想像以上に頑張ってくれた。それなのに……こんなことになってしまって本当にごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げる王妃を、私は黙って見つめていた。
少し前の私なら、きっと感激のあまり涙を流していたことだろう。
誰にも気づいてもらえないと思っていた努力を王妃が認めてくださったのだと思えば、それだけで救われたような気持ちになっていたはずだ。
さすがは王妃の座にまで上り詰めた女。
どれだけ穏やかな笑みを浮かべていようが、発せられる言葉のすべてに裏がある。
隣国の公爵の妻になる私と、これからも良好な関係を築いておきたい。たとえ可愛い息子に恥をかかせることになったとしても。
そう考えていたとしても、何ら不思議ではないだろう。
だけど、彼女もまた私と同じように妃教育という名の厳しい日々を耐え抜いてきたのだ。
「あなたは本当に素晴らしい令嬢だから、きっとセレディアでも上手くやっていくのでしょう」
「王妃様にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ」
この世のすべてを手にした女に、若き日の苦い思い出が残っているかはわからないけれど……。




