7 二度目の結婚指輪
「少し休んでから、すぐにラディア公爵家に向かいましょう」
私とクロード、そして両親の四人での苦痛な会話を終えた後、クロードの機嫌が悪くなったのを察した両親は、慌てて話を切り上げて部屋を逃げ出していった。
そして感謝の言葉を伝えなければと思いを巡らせていると、彼が唐突にそう切り出したのだった。
「すぐに……。ですが、私とセドリック王子の婚約は解消されたばかりです。それなのに、何の挨拶もなく隣国へ発つだなんて、きっとあなたにご迷惑をおかけすることになってしまいます」
「あなたが気になさる必要はありません。すべて俺に任せておいてください。絶対にあなたへ苦労はかけないと約束しますから、俺と一緒に来てください」
「……あなたの妻にはなります。ですが、今すぐ一緒には行けません」
私は目を泳がせながら、必死に言葉を紡いだ。
「あなたにすべてを委ねて、共に逃げてしまうのが一番楽な選択なのでしょう。ですが、今ここで背を向けて逃げてしまえば、私は一生後悔することになると思うんです」
少し思い返すだけで、悔しさと悲しさで涙が溢れだしそうになる。
それでも、このまま逃げてばかりではいられなかった。
私のすべてだったものを、この手で消し去ってしまわなければならない。
「これは私の問題ですから。私自身の手で、ちゃんと決着をつけなければならないんです」
そうと言い切ってから、私は強く下唇を噛みしめた。
言葉にしてしまった途端、断られるのではないかという不安でどうにかなりそうになり、彼の顔色を伺うことすら恐ろしい。
生意気だと怒らせてしまったら、どうしよう……。
かつてセドリック王子の機嫌を損ねた時のように、笑って甘い言葉を吐けば許してもらえるだろうか。
背筋にすうっと冷たいものが這い上がり、私は胸の前で組んでいた手を微かに震わせた。
「分かりました。正直に言えば、今すぐにでも連れ去りたいくらいですが。俺はいつでも、あなたの意志を一番に尊重すると約束します」
クロードはそう言って私の左手を取ると、その薬指を撫でながら優しく付け加えた。
「あなたはもう、俺の妻です。それだけはどうか忘れないで」
驚きで目を見開いたまま、彼をじっと見つめる。
「本当は向こうに着いてからお渡ししようと思っていたのですが……きっと、あなたに似合うと思っていました」
彼はそう言うと、懐から取り出した何かを私の左手の薬指へと滑らせた。
「……ブルーダイヤですか? こんなに大きなものは生まれて初めて見ました」
彼の手が離されたと同時に、私はようやく自分の手元に視線を落とした。
プラチナの台座に、吸い込まれそうなほど美しく大きなブルーダイヤモンドが鎮座している。
六歳の頃から同じサイズを着け続けていた私の薬指は、反対側に比べて少し細く不格好で、そのうえ痕まで残っていた。
ここへ来る前に外してきた、セドリック王子とお揃いの金とルビーの指輪。
私のすべてだったものを思い出し、一瞬胸が痛む。
けれど私のすべてを縛りつけていた過去の傷痕を、一瞬で上書きしてしまうような高貴な青い輝きに、私は瞬きすることさえ忘れて見入ってしまった。
「ええ。一応、ラディア公爵家に伝わる家宝です」
「か、かほう……?! こんなものを私に……」
「これは今、この時代であなたの手にしか渡ることのないものです。気に入らなければ、新しいものを用意しましょう」
「き、気に入らないだなんて、そんなはずがありません」
「本当に?」
「本当です!」
「それはよかった」
力強くそう断言して見せると、彼はまた柔らかく私に微笑みかけた。
どこか上手く言いくるめられたような気がするのは、単なる気の所為だろうか……。
私は新しく与えられた指輪をそっと撫でながら、もう一度下唇を噛みしめた。
今度は不安を押し殺すためではない。感激のあまり溢れ出しそうな涙を堪えるためだった。
「……ありがとうございます。大切にします」
私にとって二度目となる結婚指輪。
それはかつて従者によって無機質に運ばれ、一人で指に嵌めたあの冷たい指輪とは比べものにならないほど温かく、輝かしかった。
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「またこうしてお嬢様の身の回りのお世話ができる日がくるとは。長生きはするものですね」
「もう、クレアったら……」
クロードとの話し合いを終えた後、彼はさっそくラディア公爵邸へと戻るための準備を進め始めた。
隣国の公爵領から王室へ、そして王室からこのロザベール侯爵邸へと夜通し疾走し、酷使された哀れな馬を休ませ、代わりにロザベール家の馬を引かせて出立するという。
せめて少しだけでも休んでいけばいいのにと一瞬口を開かけたたものの、彼が一国の運命を背負う多忙な公爵であることを思い出して、私はそっと言葉を飲み込んだ。
そして、共に公爵領へ向かえない以上、せめて玄関先で見送りだけでもしたいと願ったが、それも叶わなかった。
私の体調を心から案じた彼から「お疲れでしょうから、どうか部屋で体を休めてください」と固く促されてしまったからだった。
すっかり公爵の忠実な犬と化していた両親は、彼の言葉に慌てて首を縦に振り、すぐさまクレアを呼び出し、私を半ば強制的に私室へと連行した。
そうして数年ぶりに足を踏み入れたロザベール侯爵家の私の私室は、まるであの日から時が止まっているかのようだった。
クレアが、私が不在の間も美しく保つべきだと清掃し続けてくれていたらしい。
「それにしても、本当に素敵なお方でしたね」
クレアが頬に手を添えて、嬉しそうににっこりと笑みを浮かべた。
その温かな視線は、私の左手の薬指へと向けられている。
「お嬢様に素敵なご縁があったようで、何よりです」
あれこれ深く追究しようとはせず、ただ私の幸せを純粋に願ってくれている彼女の優しさに、思わず涙が溢れそうになる。
その時、庭のほうから馬の蹄の音が聞こえてきた。出立の準備が整ったのだろう。
それはクレアも同じように察したようだった。
「あら、もう旅立たれるみたいですね」
「ええ……」
私は部屋に備え付けられたテラスの窓へと視線を向けた。
ほんのわずかな時間の間に起きた出来事があまりに多すぎて、もし今目を閉じて眠りについてしまったら、すべて幻だったと無かったことになってしまうのではないか——そう思うと、眠ることすら恐ろしかった。
でも、きっと大丈夫。
気づけば、私は突き動かされるように足を踏み出していた。
窓を押し開き、テラスへと飛び出た私は、早朝の冷たい風に揺れるケープをきゅっと押さえながら、大きく声を張り上げた。
「クロード様!」
ロザベール侯爵邸の玄関横に止まった馬車へ、まさに乗り込もうとしていた男が、私の一声でハッと振り返る。
「リゼット嬢……?」
今にも破裂してしまうのではないかと思うほど、胸の中の心臓が激しく打ち鳴らされていた。
私はじっと、階下に立つ彼の姿を目に焼き付けた。
この夢のような出来事が、単なる私の愚かな幻想でないことを祈るかのように。
「そんなところで何を……風邪を引くといけないので、すぐに中へ戻ってください」
「このくらい平気です。私、あなたに言い忘れたことがあって……その、ありがとうございます。さっきあなたが私の両親にああいってくださって、本当はすっきりしたんです。こんなことを考えるのはよくないことだと分かっていますが、それでも嬉しかったです」
東の空から静かに朝日が昇り始め、早朝の澄んだ冷たい風が私の頬を優しく撫でていく。
「あなたからの結婚の申し出を受けて、よかったと思っています。あなたが一体、私のどこを好いてくださったのか……私にはまだ分かりません」
私は胸の前で両手をきつく合わせ、必死に声を振り絞った。
「ですが、この短い時間で、あなたの素敵なところをたくさん知ることができました。あなたが私を好いてくださったように、私もあなたを好きになると思います」
一瞬の静寂の後、今までに見たことのない顔をしたクロードが、繰り返し問いかける。
「いつですか? いつ、俺を好きになってくださりますか?」
「そ、それは、まだ分かりません」
「待ちます。あなたが俺の妻になってくださっただけでも幸運なことなのに、あなたが俺を好いてくださる日がくるなら、俺はいくらでも待てます」
爽やかな水色の目元を細めて、にっこりと笑みを浮べながら、真っ直ぐに私だけを見つめる男。
「俺はずっと、あなたが好きなので」
断固とした声でそう言い切った彼を見つめ、私の顔には自然と笑みが浮かび上がった。
あなたの瞳に映る私は、一体どれほど美しいの?
その魔法が解けないよう、私は祈り続けることしかできない。
あなたが私をずっと好きでいてくれるように。
そして、私もあなたを好きになれるように。
「はい。私のことを、ずっと好きでいてください」
たとえ、私の額に消えることのない傷が残ったとしても。
若く美しい少女から、歳を取って衰えた女になったとしても。
私のことを決して嫌わないと、そう誓って……。




