6 家族とは名ばかりの
「ほ、ほんとうに……本当に、リゼットお嬢様なのですか?」
「久しぶり、クレア。ええ、本当に私よ。リゼットよ」
「ああ、なんてこと!」
クラシカルなメイド服に身を包んだ中年の女性は、目元に涙をあふれさせると、私の頬を両手で優しく包み込んで歓喜の声を上げた。
「神よ、感謝いたします……! またこうして、私の可愛いお嬢様にお会いできるだなんて」
「うん……私もクレアにもう一度会えて嬉しいわ」
「こんな老いぼれを覚えていてくださるとは。お元気そうで何よりですわ」
数年ぶりにロザベール侯爵邸に帰ってきた私を真っ先に出迎えてくれたのは、メイドのクレアだった。
夜に王宮を出発したが、ロザベール侯爵邸に到着した頃には早朝になっていた。
彼女は私の乳母で、王宮へ連れていかれるまでの幼少期、実の母親よりもずっと長い時間を共に過ごし、私に本物の温もりを教えてくれた人だった。
「お嬢様、そちらの方は……」
クレアの目線が、私から隣に立っているクロードへと向かう。
「お初にお目にかかります。クロード・ラディアと申します。朝早くに押し掛けてしまい申し訳ありません」
「ラディア……まさか、セレディアの?」
「はい。リゼット嬢との結婚の許しを貰うために、ご挨拶に伺いました」
「ま、まあ! なんてこと!」
クロードの丁寧かつ突拍子もない言葉に、クレアは目を丸くしながら歓喜の声を弾ませた。
「大変。すぐに旦那様と奥様を呼んで参ります。お嬢様とお客様はお先に客間へ! ああ、どうしましょう!」
慌ただしく階段を駆け上がっていくクレアの後ろ姿を見つめていると、なぜだか目頭が熱くなってきた。
きっと、私とセドリック王子の婚約解消を聞いて、とても心配してくれていたのだろう。そして今、新たな縁談が決まったと聞いて自分のことのように喜んでくれている。
あまりに長い年月が経って忘れてしまいそうになっていたけれど、私には、私を心から心配してくれる人が確かにいた。
それだけで、私には確かに価値があると思うことができた。
「リゼット嬢? どうかされましたか」
隣から声がかかり、視線を上げると、そこには心配そうに私の顔を覗き込むクロードの姿があった。
「目が赤いですが、長時間の移動で疲れてしまわれましたか」
まさか、私のことを心配してくれているの?
「違うんです。クレアに……メイドに久しぶりに会えたのが、とても嬉しくて」
慌てて目元を擦り、平気だと微笑みかける。
セドリック王子だったら、こんな風に私の些細な変化に気づいてくれただろうか。
……いや、そもそも私はセドリック王子の前だったらこんなに愚かな姿を見せることすら無かったはずだ。
彼が求める理想の少女を必死に演じてばかりで、本来の自分を見せることなんて一度もなかったのだから。
だったら、どうしてだろう?
どうして私は、この人の前ではこうして無防備な自分を見せることができるのだろう。
彼は私の最後の頼みの綱であり、本来ならセドリック王子の時以上に自分を偽り、愛らしく完璧に振舞わなければいけない相手のはずなのに。
「メイドに会えたことが、そんなに嬉しいのですか?」
「はい。それに彼女はただのメイドではなく、私の乳母でもありましたから」
「やっぱり、リゼット嬢は面白い人ですね。一介のメイドに会えただけでそれほど喜べるとは」
この男には、誰かに会えて嬉しいと思えるような存在がいないのだろうか。
彼が私にどんな感情を抱いていようと、貴族の令嬢として育った私が淡い恋心などに現を抜かすことなんてあり得ない。
だからといって、彼に対して情がないわけでもなかった。
地の果てで枯れていくしかなかった私に、救いの手を差し伸べてくれた人。
だからこそ、彼に不満を抱かせないよう、妻として最善を尽くしたいと思っている。
そして、これから私の夫となる男が、一体どんな人生を歩んできたのかを知りたいとも。
胸の中に湧き上がる居心地の悪さに目を泳がせていると、クロードが私に優しく微笑みかけた。
「俺は、リゼット嬢にお会いすることができて嬉しいですよ」
まるで私の心の中を見透かしたかのようにそう告げられ、私は思わず口をぽかんと開けて固まってしまう。
「……それは、よかったです」
彼の笑みは、どんな欠点もない完璧な美しさを持っている。
クロード・ラディア。隣国セレディアの公爵。
現皇后の甥であり、次期皇帝である皇太子の従弟でもある彼が望めば、手に入らないものなど何ひとつない。
そればかりか、ラディア公爵家は皇室にすら匹敵する武力を持つ騎士団を従えている。その膨大な財力まで考慮すれば、彼が望みさえすればこの世のすべてを手にすることだってできる。
だから、彼のその完璧な笑みがどこか寂しげに見えるのは、単なる私の錯覚に過ぎないはずだ。
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「ようこそお越しくださいました、公爵様。まさかこのような朝早くにお越しになるとは思わず、十分なおもてなしもできず申し訳ありません」
「とんでもありません。突然の訪問にもかかわらず、温かく迎え入れていただき感謝いたします」
「さすがはあのラディア公爵様ですわ。懐の深さが違いますのね。娘を妻に迎えるために、わざわざご自身で我が家を訪れてくださるなんて」
客間のソファで向かい合う形で座るのは、私とクロード、そして数年ぶりに顔を合わせた私の両親だった。
年の数だけ刻まれた皺が目立つものの、自分より位の高い人間に向ける作り笑顔は、遠い記憶に残る姿とほとんど変わっていなかった。
これまでの私も、セドリック王子の前でこんなふうに愚かな振る舞いをしていたのだろうかと思うと、羞恥心で涙が出そうになるくらい。
「ロザベール家の大切なご令嬢を妻にいただくのですから、当然のことですよ」
「いやはや、娘が傷物になったと聞いた時は一体どうしたものかと頭を抱えましたが、まさかこれほど素晴らしい良縁をいただけるとは思ってもおりませんでした」
「ええ、本当に。貴族の娘に生まれながら顔に傷が残るなど、死も同然。それを救ってくださったのだから、公爵様に心から感謝しなさいね、リゼット」
「昔から抜けたところがある娘ですから、公爵様にご迷惑をおかけすることがないか、妻も私もとても心配しているのです」
「この子の取り柄といえば、愛らしいお顔くらいだったのに、それも酷いことになってしまいましたから。リゼット、あなたもっと前髪を伸ばしなさい。その醜い傷をけして公爵様にお見せしないように努めるのよ」
父と母の言葉に、何ひとつ間違いはない。
それでも、あなたたちに私の何が分かるというのだろう、と疑問が浮かぶのはどうしようもないことだった。
家族とは名ばかりの存在であるにも関わらず、まるで私のすべてを理解しているかのような口ぶりに、思わずため息がでそうになる。
私は六歳で王宮へ送られて以来、ずっと実家とは疎遠だった。
両親は明らかに私を遠ざけていた。
どれだけ手紙を書こうとも、返ってくるのは従者に代筆させたような飾り気のない言葉ばかり。ようやく社交パーティーで会えたと思っても、娘としてではなく王子の婚約者に向けられた形式上の会話を交わすだけ。
幼い頃はとてつもなく家族が恋しかったけれど、それも今となっては遥か昔の話だ。
貴族の令嬢など、所詮は一族の駒にすぎない。
彼らは何も間違ったことは言っておらず、こんな理不尽な感情を抱いてしまう私の方が悪いのだと自分に言い聞かせる。
胸の奥底から込み上げてくる黒い感情をどうにか押し殺そうと、私は太ももの上のドレスをきゅっと握りしめた。
「リゼット嬢の美しさは、きっと侯爵夫人に似たのでしょうね」
その時、口元へ運んでいたティーカップを置いたクロードが静かな声で話し始めた。
「まあ、公爵様ったら」
頬に手を添え、満悦の笑みを浮かべる母の姿をじっと見つめる。
確かに、私と母の顔立ちはよく似ている。
歳を重ねてもなお、見た目には相当気を遣っているのだろう。すっかり衰えてしまった父と比べると、驚くほど綺麗だった。
『リゼット、よく聞きなさい。永遠に美しく咲き誇り、力ある男に愛されるのよ。そうすればお前は幸せになれるわ。それこそが女の幸せなのだから』
私の肩を掴み、優しげな笑みを浮かべながら何度も繰り返していた母の姿は今でも鮮明に思い出せる。
私に美しさこそがすべてだと教え込んだ人。
きっと、私の顔に傷ができたと知った時、誰よりも落胆したことだろう。
「この子は兄妹たちの中でも一番私に似て美しく育った自慢の子でしたわ。怪我さえしなければ、胸を張って公爵様に――」
「その醜さが似ることはなく、母としてさぞかし安心されたことでしょう」
「……はい?」
母の言葉を遮るようにして告げたクロードは、相変わらずにっこりと優しげな笑みを保ったままだ。
その声色も穏やかなものだったが、ここにいる誰もが彼の放った言葉に込められた鋭い棘を感じ取っていた。
「既に俺は彼女にプロポーズをし、彼女はそれを受け入れてくださいました。その時点で、リゼットはロザベール家の令嬢ではなく俺の妻です」
リゼット。初めて呼び捨てにされた自分の名前に、肩がぴくりと反応した。
彼が何を言っているのか、まるで信じられなかった。
「どうか俺の妻を貶めるような言葉は、今後一切ご遠慮いただきたい」
父と母は顔を見合わせ、数回瞬きをした後に慌てて媚びへつらうような笑みを浮かべた。
「ま、まさか、私たちはそんなつもりでは……」
「そうです、どうか誤解をなさらないでいただきたい」
クロードの機嫌を取ろうと必死になる二人を見つめていると、不思議なことに、先ほどまで私の胸を苦しめていた不可解なモノが消えていった。




