3 夜の訪問者
「はあ……」
深い溜息が、暗い部屋の静寂の中に溶けていく。
昼間の庭園での出来事を思い返し、私はベッドの上で頭を抱えた。
立場が立場なだけに、彼女と仲睦まじくなれるなんて最初から微塵も期待してはいなかった。
婚約を解消された身でありながら未だに離宮に留まり続けている私を、新しく婚約者となったルドヴィカ嬢が目障りに思うのは当然の感情だろう。
もし私が逆の立場だったなら、前婚約者の存在など今すぐにでも視界から排除したいと思うはずだ。
『せっかく高貴な美しさを持って生まれても、摘み取られ、その美しさを奪われ……醜く朽ちていく運命なんて、私には絶対に耐えられません』
脳裏に焼き付いて離れない、握り潰された薔薇の花びらと、彼女のどこか狂気を孕んだ艶やかな微笑み。
でも、だからといって、わざわざ私に会いに出向いてまであんな意地悪を言うなんて。
私だって、できることなら一刻も早くこの場所から去りたい。
婚約の解消を一方的に突きつけてきたくせに、セドリック王子はどうして私を実家に帰してくれないのだろう。
私はいつまで、死んだネズミのようにこの狭い部屋で息を潜めていなければならないのだろうか。
ふと意識を向けても、以前なら扉の向こうに感じられていた護衛騎士の気配はない。
今の私なら、本気になればここから逃げ出すことだって容易いのかもしれない。わずかな荷物をまとめて遠くへ逃げ延び、平民としてひっそり暮らすのも悪くはないはずだ。
だけど、物心がついた頃からずっと王宮という名の黄金の鳥籠に閉じ込められ、籠の中のルールしか知らずに育った私に、外の世界へ飛び出すような勇敢な心が残っているはずもなかった。
そして言い訳ばかりで何の行動も移せない弱い自分が、嫌になる。
「……どこか、遠くへ行ってしまいたい」
ベッドに倒れ込んだ私は、抱きかかえたクッションに顔を深々と埋めて呟いた。
しんと静まり返ったこの自室は、六歳の頃から長年過ごしてきたはずの場所だ。
それなのに今の私には、冷たい暗闇の中にたった一人置き去りにされたかのように思えてならなかった。
脳裏に蘇るのは、初めて侯爵家から離宮へ連れてこられた日のこと。
家に帰りたいと惨めに泣き喚いた幼い私は、その日のうちに専属教師から「王子の婚約者に相応しくない愚行」だと厳しく叱責され、容赦なく鞭で叩かれた。
とっくの昔に痕跡は消え去り、完璧に治ったはずの太ももの裏の傷跡。 それが今になって、まるで皮膚の下で生き物のように蠢く気がして、私は耐えるように下唇をきつく噛み締めた。
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「……そこで何をしているのですか?」
近頃というもの、どうしてこうも信じられないことばかり起こるのだろう。
昼間のことが気がかりで中々眠りにつくことができず、喉の渇きを覚えた私は飲み物を持ってきてもらおうとベッド脇に垂れ下がった呼び鈴の紐を引いた。
しかし、いくら待ってもメイドがやってくる気配はない。
今まで私の身の回りの世話をしていたメイドや護衛騎士は、新たに婚約者となったルドヴィカ嬢につきっきりなのだろう。
きっと、そうに違いない。わざと私を無視しているのだと考えるのは、あまりにも虚しい……。
そう自分に言い聞かせ、仕方なく一人で部屋を出て食糧庫へ向かった。
そこまではよかった。
問題は、部屋へ戻った後だった。
部屋の扉を開けた瞬間、私はそこに立っていた人影に大きく目を見開いた。
メイドでも護衛騎士でもない。見知らぬ男の姿。
暗闇の中、ローブの隙間から覗く男の冷たい瞳だけが輝いていた。
「こんばんは、令嬢」
深夜の王宮に忍び込んだ正体不明の男。
しかも複数ではなく、たった一人。
私は警戒しながら男の姿を観察した。
ローブの下に武器を隠している様子はない。
刺客……というわけではなさそうだ。
だとすると、一体何者なのだろう?
「あなたがどうやって王宮に入り込んだのかは知りませんが……とにかく、こっちへ来てください」
戸惑う男をよそに、私は彼を衣装室へと連れて行った。
そこに並べられた装飾品やドレスを指差す。
「私の持っている高価なものは、すべてここにあります。全部持って行ってくださって構いません」
「……これは、どういう意味ですか?」
「何を仰っているのか分かりませんが、私は泥棒と世間話をするほど暇ではないのです。分かったら、さっさと逃げてください」
私がここへ来るときに持ってきたものも、王子から贈られたものも、いずれはすべてルドヴィカのものになってしまうくらいなら、いっそのこと泥棒に持っていかれた方がいい。
王室や社交界の人間は当然。実の家族だって、私という存在を娘というよりも家の繁栄の駒として見ている。
どうせ、私を守ってくれる者はいない。
そんな投げやりな気持ちで告げると、男はしばらく黙り込んだ後、落ち着いた声で話し始めた。
「王子の婚約者でなくなったあなたが忙しいとは到底思えないのですが……何か面倒なことにでも巻き込まれていらっしゃるのですか?」
「……言ったはずよ。話をするつもりはないと」
あまりに無礼な物言いに、腕を組んだまま冷たく言い返す。
不法侵入者を相手にこんな傲慢な態度を取ってしまっていいのかとも思う。
しかし不思議なことに、この男は危険な存在だとは感じなかった。
「そうでしたね、申し訳ありません。では……」
男は並べられた高価な品々を一瞥すると、こちらに向かって大きく一歩踏み出した。
距離が一気に縮んだことで、緊張のあまり全身に力が入る。
「あなたを俺にください」
あまりに単刀直入な口ぶりに、私は思わず目を瞬かせた。
男は自身のフードへと手をかけ、今まで隠されていた男の顔が露わになる。
現れたのは、泥棒とは到底思えない高貴な姿だった。
涼しげな目元と整った顔立ちは、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しい。
「こうしてご挨拶できる日を、ずっと夢見ていました」
私と目が合った男は、どこか嬉しそうに目元を細めた。
「セレディア帝国ラディア公爵家、クロード・ラディアと申します」
ニコッと爽やかに笑った男が告げた名前に、一瞬で頭が真っ白になる。
セレディア帝国は、このルミエール王国と国境を接する大国。その中でもラディア公爵家といえば、皇族にも並ぶほどの権勢を誇る名家だ。
当主のクロード・ラディア公爵といえば皇太子の従兄弟でもあり、若くして非常に優秀な男だと、その名はこの国にまで届いていた。
そんな有名人が、どうしてこんなところにいるのよ?
あまりに理解の追いつかない状況にただ茫然としていると、男は困ったように眉尻を下げた。
「まさか護衛が一人も付いていない部屋が、令嬢の私室だとは夢にも思っていなかったのです」
「そ、そういう問題ではありません!」
その言葉でようやく我に返った私は思わず声を上げた。
本当に私の部屋にきたのが偶然だったとして、そもそもどうして隣国の公爵が夜中に王宮に忍び込んでいるのよ!
恐怖が払拭されるほどの困惑に頭が支配され、私はただ混乱を堪えるために下唇を噛んだ。
「では、何でしょう?」
「そもそも、どうしてあなたのような方が……」
「あなたに俺と結婚してほしいと伝えるためです」
「……は?」




