第四章
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理名ちゃんへ
突然のお手紙ごめんなさい。お仕事も休んでごめんね。
私がこの土地で働き始めてから、理名ちゃんには迷惑をかけてばかりですね。
あなたは私とよく似ています。
私たちは波の大きな人間です。
しかし、あなたと一緒に騒いでいるときにふと、激しい波と波とが打ち消しあうように、二人のあいだに凪が訪れるときがあります。
私はその瞬間に海を感じます。
陸上で起こるどんなことより尊いことです。
この手紙が届くころ、私は二人で行ったあの崖から身を投げます。
死ぬんです。
そのことについては謝罪しかありません。
でも、あなたなら、私がいずれそうすることを、その〝いつか〟を予感していたのではないでしょうか?
ダイビングセンターでの生活は、短いながらも私の人生でもっとも充実した時間でした。
欲を言えば、もっとあそこで働きたかった。
しかし、その〝いつか〟が来たのです。
夏の潮風がそれを知らせました。
勝手ですね。
勝手ついでにもうひとつ。もし私たちの職場にやせっぽっちの「みのり」という名の女の子が訪ねてきたら、私の分までやさしくしてあげてください。
すごく強がりで、頑固な子です。
きっと素直に悲しむことすらできずにいるでしょう。
私がどうして死んだのか一緒に考えてあげてください。
私の直感ですが、ふたりはとても仲良くできるはずです。
私の宝物です。どうか大切に。
さようなら。さようならという言葉でしか、さようならを伝えられない陸上のロジックを歯痒く思います。
さようなら。私の分身。また海の底で。
真琴詩織
私と理名ちゃんは、互いに届いたマコちゃんの手紙を、交換し合って読んだ。
理名ちゃん宛の芝居がかった短い手紙からは、マコちゃんの行きついた不気味なほどまっすぐな宗教観が、むせかえるほど匂ってくるようだった。
私は、いま自分が理名ちゃんの部屋にいることすら、マコちゃんの思惑通りな気がして、手紙を持つ手に力が入った。
「勝手ね」
私が言う前に、感情のない理名ちゃんの声が聞こえた。
理名ちゃんのアパートは、絵に描いたような海を愛する人の部屋だった。白と青を基調とした家具の数々に、立てかけられたサーフボード、ラッセンのような絵画、冷蔵庫には海を連想させるマグネットやステッカーがべたべたと貼り付けてあった。
毎日海で潜っているくせに。少しあきれたが、悪くない居心地だった。この部屋は海の中でも水槽でもなく、まぎれもなく陸で生きる人間の住処だった。
私は一人暮らしには少し大きい白いソファーに寝転がっていた。千本浜の風が私の眠気を吹き飛ばし、いまはただお腹が空いていた。夕日が完全に沈んでも、名残惜しくて暗闇を眺めていたせいで、もういい時間だった。河野家でもそろそろ夕食の準備ができるころだ。料理に執念と人生を賭けた愛しの同居人の緑ちゃんが、今日も輝美さんを差し置いて料理を作っていることだろう。
こちらのキッチンでは理名ちゃんが、包丁でキャベツを切っていた。
「簡単なものしか作れないけどそれでいい?」
そのせりふに本当に簡単なものだろうなと想像して私は「いいよ」と笑った。
包丁がまな板を叩く音が止むと、今度は油で野菜を炒める音が聞こえてきた。
「はいはいできたよー」
器用に三つ持った皿を、私の前に、理名ちゃんの席に、そして木箱の前に。理名ちゃんは焼きそばの入った皿を並べた。
それからコップを三つ、ビールをひと缶、麦茶の容器を次々持ってきた。
「じゃあ、手を合わせてください。いただきます」
私は合わせた手をなかなか離せなかった。これまでの人生で最も重い「いただきます」。それに合わせて黙祷した。
目をつむりながら、理名ちゃんが鼻をすする音が聞こえた。
マコちゃん。
あなたはここにいますか?
それとも海の底? 天国みたいな場所にいるのでしょうか?
聞いた話では自殺をした魂は天国へ行けない宗教があるそうです。
私はそれを思うと胸が締め付けられます。
私はあなたのしたことを許せないけれど、神様くらいは許してあげてもいいと思います。
私は怒っています。でも激しい怒りじゃありません。
施設の子供が給食をぶちまけてしまったときのような、やり場のないせつない気持ちです。
あなたはそういうときに真っ先に気持ちの波を引かせて、布巾を取りに走る人でした。
だからでしょうか。
あなたの手紙にあった「人生がつらいのでも、行き詰ったのでもありません」という文句を信じられます。
あなたは正直な人です。ことさらあの手紙に関しては、一言一句私を煙に巻くようなことは書いていないのでしょう。
でも少しくらいは、やさしい嘘の毛布で私を包んでほしかった。
私が怒りを覚えるとしたらそんなことくらいです。
いま私は理名ちゃんと一緒に、彼女の部屋にいます。
不思議な人です。初めて会った気がしなくて、私たちはすぐ仲良しになりました。あなたの直感通りですね。
二人でダイビングをして深海魚水族館にも行きました。
明るく浅い海と、暗い深い海。どちらにもあなたはいませんでした。
千本浜で海と夕日を見ました。
水平線の彼方にあなたがいるような気がしました。
あなたはとても遠いところに行ったのだと、そのとき理解しました。
マコちゃん。
あなたはどうして死んだんですか?
それがわからなければ、私は涙を流せない気がするのです。
私は明日帰ります。
この町の重力を振り切って、あなたが生まれ育った岐阜の町へ。
海のない岐阜の町へ帰ります。
施設を出て半年足らずですが、河野家の人々は私にとってのあなたと同じく、もはや私の家族同然の存在です。私は帰って緑ちゃんの作った夕食を食べなければならないのです。
ここでの生活、理名ちゃんやダイビングセンターでの日常が、あなたにとってそうであったことを祈ります。
そのうえで免れない事故のような死であったのならいいと思います。
警察に、理名ちゃんに、そして私に。あなたは三枚の遺書によって私をここに運びました。ため息が出ます。あなたは私に何をさせたいのでしょう。
明日、目が覚めたらあなたが手紙と一緒に送り付けてきた鍵の場所に行こうと思います。そこにその答えが待っていることを願って。
では、一足遅いですが、最後の晩餐をいただきましょう。
「いただきます」
私は目を開いた。
私は野菜の切り方が雑な焼きそばを、口いっぱいに頬張った。
食べ終わると、理名ちゃんが木箱の前の焼きそばをつまんで、私の口の中に押し込んできた。私はむせそうになりながら、決して吐き出すものかとそれを飲み込んだ。理名ちゃんも供えられたビールを一気に飲んだ。
疲れた体にソースの塩味が染み込んで、心地よい満腹感だった。理名ちゃんが流したレゲエが異国にいるような気にさせて、二人して皿も片付けず無言でまどろんでいた。
「マコちゃんはここには来たの?」
不意に思い立って私はたずねた。
「うん、飲みに来たよ。私が連れ込んでたんだけど、よいしょ」
理名ちゃんは床に寝転がり、体を伸ばして指先で冷蔵庫を開けると、ビールを一缶引っ張り出した。
「あの子、そんなに酒好きってわけじゃなかったけど強くてねえ、私が落ちると勝手に洗い物とか片付けしてくれて、私をソファーに寝かせるんだ。それでちゃっかり自分はベッドで寝て、私よりも早く起きて帰ってく」
水の満ちた陶器のような、冷たいやさしさ。この旅に来て初めて耳にした、マコちゃんらしさを感じるエピソードだった。私は私の好きだったマコちゃんが、ここでも息づいていたことに、ちょっぴり救われた気持ちで白い天井を見上げた。
テロテロと私のスマホが鳴った。
そういえば、昼食のハンバーガーをSNSに上げて以降、私は一度もスマホを見ていなかった。施設を出てからアルバイトをして買い換えた、ちょっとだけ高性能なスマートフォン。私は中毒患者だった。
久しぶりに画面を覗くと着信画面に「川島いぶき」と表示されていた。彼女は河野家に住む里子の中で最古参であり、最年少でもある。コーヒー中毒の中学二年生の可愛らしい少女だ。
てっきり輝美さんだと思っていたので少し拍子抜けしたが、一緒に住んでいると通話の機会もめったにないので、画面をタップするのを少しだけためらってしまった。
「もしもし?」
応答のボタンを押す。
「あ、もしもーし。みのりちゃん? 元気?」
間近でいぶきちゃんのよく澄んだ涼やかな声がして、耳がこそばゆかった。
「元気元気ー。どしたの?」
するとスマホの向こうで
「元気だってー。他にはー?」
と少しいぶきちゃんの声が遠くなった。
「あのね、輝美さんがね、みのりちゃんが元気かどうか確認しろって。自分で電話すればいいのにねー」
「元気だよー。いま焼きそば食べたところ。輝美さんの部屋にいるの?」
「そうだよ。あ、いま、どこで何してたか聞けって言われた」
「そんなたいしたことしてないよ。疲れてたし、浜辺でずっと海見てたかな」
「そうなんだ。綺麗だった?」
「うん、すごく綺麗だった。すごーく長い海岸があってね。波の音が左右から聞こえるの」
「へーいいなー。なに? もう自分で喋ればいいじゃん。……あのね、明日には何があっても絶対帰って来いって」
「わかってるって伝えて。何があっても帰るから」
「うん。なに? 他は? いいの? もういいんだって。そんだけ。じゃあまた明日ね」
「うん、また明日。緑ちゃんに明日のごはん楽しみって言っといて」
「わかったー。一孝には?」
「別にー? なんにもー」
私はしれっと答えた。
「ふーん。じゃあ切るねー」
「うん、ありがとう」
通話が終わった。
電話越しの河野家の空気に、ドラマチックな感傷はつかのまどこかに吹き飛んでいた。温かい河野家という第二の故郷。施設を途中で抜けた脱走兵の私は、そこでの生活が楽しければ楽しいほど、時々申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私は静かになった真新しいスマホを見つめ、愛すべき家族が集うグループLINEの履歴を遡った。
河野家への移住の話が来たのは、今年の一月のことだった。私と一孝は中学三年生、受験を目前に控えた忙しない時期だった。
私の知る施設はいつも定員オーバーで、年中人手不足に追われていた。信頼できる人間が、一人でも子供を引き取ってくれるなら、それに越したことはない。
施設の応接間で、私たちは初めて輝美さんと対面した。第一印象は毛先のそろったショートヘアーの品のいい女性だった。
「コウノテルミです」
向かいのソファーに座った彼女はそう言って、テーブルに名刺を差し出した。
これはこれはご丁寧にと、名刺に目を移し、我が目を疑った。
『純喫茶』
そこに記されていたのは異質な三文字。そして、店名があって大きく
『店長 河野輝美』
「ちゃんと自己紹介させてもらうね。私は河野輝美、漢字は名刺を見て。元児童相談所職員って話は聞いた? でもいまは喫茶店の店長。旦那は単身赴任中」
んでだ、と輝美さんは言った。
「いま私は旦那を除けば二人の女の子と三人で生活してる。喫茶店の上の階でね」
隣の一孝が静かに興奮しているのが伝わってきた。
「ハーレムじゃん」
そう言って一孝の脇を小突いた。
一孝はむすっとして、私の横腹に肘打ちを返してきた。
冗談はともかく、一孝には朗報だと思った。彼は幼いころのやんちゃぶりが嘘のように勉強に熱中していたし、それでいて小さな子供たちの面倒もよくみていた。彼のためにも、勉強に集中できる環境に身を移すことは「いいこと」だ。
だが同時に施設のチビたちのことも気にかかった。年長者が減れば、他の年長組や大人たちの負担も増えるだろう。自分たちだけ抜け出してしまっていいのだろうか。私はあまり輝美さんの顔を見ることができなかった。
「一ノ瀬さん」
輝美さんは一孝の苗字を呼んだ。親を知らない私たちにとって、苗字はある種の記号でしかない。
「園長さんから伺いました。あなたは将来に大学進学を希望しているため、特待生を目指しているそうですね」
「仰る通りです」
一孝はまっすぐに輝美さんを見て言った。
「将来は孤児を支援する職に就きたいと思います」
「そうですか。では女性ばかりの環境で勉強に集中できますか?」
「できますよ」
輝美さんの問いに、私は一孝を差し置いて答えた。
「ここにだって女の子はいっぱいいますし、それに小さな子供に邪魔されずに勉強できるなら、いまよりずっといいはずです。それにそれに、こいつは植物みたいなやつなんで大丈夫です安全です」
輝美さんは大きく息を吹きだして一言
「そうか」
と言った。
話はトントン拍子に運んだ。思い出の詰まった施設を離れることに抵抗はあったが、ここは故郷であると同時にあくまで仮宿だ。マコちゃんが卒園していったように、一生いられるわけじゃない。私はお嫁に出るような心境で、心の荷物を整理し始めた。
「では受験で忙しいとは思いますが、いつでも見学に来てください」
去り際にそう言い残して、輝美さんは施設を後にした。
彼女の持ってきた小分けされたいっぱいのお菓子を、子供たちはとても喜んだ。
「家の人?」
理名ちゃんは床に寝そべりながらたずねた。
「うん。輝美さんのさしがね」
「ねえ、みのりちゃんはどんなところに住んでるの? なんか聞いてても見えなくて。施設は出たんだよね?」
「うん、マコちゃんは高校卒業で出て行ったけど、私は中学を卒業するタイミングで輝美さんに拾ってもらったの。里子ってわかる?」
「わかんない」
「里親と里子って言ってね、国や自治体の支援を受けて、私みたいな子を預かるシステム。輝美さんは夫婦で何人も抱えてるの」
「そりゃ立派だ。楽しい?」
「うん、シェアハウスみたいで楽しいよ」
「へえ、いいね。あ、いいねなんて言っちゃダメか」
「いいよ。実際楽しいし幸せだもん。みんないい人だし」
「ねえ、一孝って子はどんな子?」
「一孝?」
意外な名前に私は目を丸めた。
「うん、あなた宛ての手紙にも出てきたし、そういえばあの子がたまに施設のことを話すときにあなたとセットで名前を聞いたのを思い出した」
マコちゃんはどんなふうに私たちのことを語ったのだろう。海の重力に縛られた彼女を、私たちの日々は少しでも繋ぎとめられていたのだろうか。
「一孝はね、施設で唯一私と同い年でね、物心つく前からずっと一緒だったの。限りなく兄弟に近い、それ以外の何かって感じ。小さいころはやんちゃだったけど、いまは女ばっかりの河野家で脇目も振らずに勉強してるおかしなやつだよ」
理名ちゃんは缶ビールを口に含んで言った。
「詩織ちゃんは、よく勉強を教えてあげたって言ってたよ」
「そうだね。マコちゃんが一孝に勉強を教えてるときは、なんか結界みたいなものが張られている気がして声が掛けられなかった。一孝はマコちゃんのことを本当に好きだったと思う。でも恋とか、家族の情とか、施設の仲間とか、いろんな感情が混ざりあってうまく言い表せなかったんだと思う」
「みのりちゃんは? 一孝くんのこと好きじゃないの?」
「恋ではないと思う。もし恋だとしても、いろんな感情に押しつぶされて、小さくなってもう取り出せない。長く近くに居過ぎたんだよ。近親相姦みたいな禁忌を感じる」
「若さでどうにかならない?」
「どうもしないって」
私は笑った。
「そういう理名ちゃんはどうなの? 結婚とかしないの?」
「んー。私これでも充実しちゃってるんだよね。趣味を仕事にした罰なんだろうね、結婚ってものに魅力を感じない」
理名ちゃんは空になった缶を振った。
「そういう意味では詩織ちゃんは理想だった。詩織ちゃんが男だったら私は恋をしていたと思う。それで彼女が危ない思想に染まっていっても泣きわめいて必死に食い止めて、マイホームパパに仕立て上げたと思う。私が男でも良かった。私が同性だから止められなかったって、そう思う」
「だめだよ」
私は言った。
「きっと止められなかったし、理名ちゃんもついていっちゃう」
「かもね。でも手紙にあった通りよ。私は詩織ちゃんが死を向いているのに気付いてた。でもその〝いつか〟なんて来ないものだと思ってた。来ないでくれって祈ってるだけだった。止められなかったかもしれない。でもそう思いたいってだけかもしれない」
彼女の涙を見るのはこれで何度目だろう。お酒の勢いもあってか、彼女はまたしくしくと泣き始めた。
私の瞳は相変わらず乾いていた。
きっとまだマコちゃんの死を実感していないのだ。それは小さな壺に収まった遺灰を素手でさらさらとなでても同じことだろう。
私はまだ帰れない。
彼女の死を胸の底でずっしりと受け止め、持ち帰る準備ができなければ、このやせっぽっちの魂はいつまでもこの港町を彷徨ったままなのだ。




