第三章
3
「とりあえず沼津に来たんならまずは沼津港よね。ちっちゃい水族館とかもあるよ。せっかくだし、行っちゃえ行っちゃえ」
――せっかくだし。
私たちは水族館へ向かうことにした。
理名さんの口癖の「せっかくだし」はもはやこの旅のテーマと化している。
お盆休みの時期は過ぎているのに、駐車場は混み合っていた。なんとか立体駐車場の屋上に車を止めて、遺灰を座席に置いたまま港へ歩き出すと、数多くの水産物を扱う店が並んでいた。海の匂いとも違う、魚の臭いがそこら中からして、嫌でも港にいるのだと思わされた。
「遊覧船あるよ。乗る?」
理名さんが提案した。冗談やめてよ。私は両腕で大きくバツを作った。電車やバスでもダメなのだ。それ以上に揺れるであろう船なんかに乗れるわけがない。
私たちは水族館の列に並んだ。
深海魚を専門に扱うその水族館は、港の中でもいっそう混雑していて、若い観光客も多かった。私たちの手前に並んだ同世代の女子たちは、短いパンツに肩やヘソまで出して、いかにも夏みたいな格好をしていた。
同じく軽装を極めた理名さんに挟まれ、私はよれよれの制服姿でバカみたいだった。思わず河野家にある自室のクローゼットに思考が飛んだ。せっかく海がすぐそこなのだ、とっておきの白くて丈の短いワンピースに着替えたかった。
入場料は当たり前のように理名さんがサッとスマホで支払った。ハンバーガーもそうだが、私に金を使わせる気はさらさらないらしい。理名さんは私の肩越しに、ここにはいない誰かに贖罪をしている。
私たちは行列に押しつぶされながら順路を行った。一つの水槽にあまり長い時間留まれなかったが、深海を生きる生物たちは、奇妙な見た目と鮮やかな色合いで私を飽きさせなかった。
人の多さもあって館内は賑やかだった。私も遠慮なく「かわいー」と声を上げながら順に水槽を回った。
「駿河湾はね。日本で一番深い海なんだよ。だから、こういう変な魚とかが上がったりするの」
理名さんが解説してくれた。
「へー、だからかな。マコちゃんがここを選んだのって」
「どうしてそう思うの?」
「綺麗な海ならここじゃなくてもいっぱいあるじゃん。沖縄とか」
「そうかもね。地元民でもないのに、あの子はここの海が好きだったね。何か惹かれるものがあったのかな」
もっと深くまで潜れば違うのだろうか。
光の届かない闇、凍えるような低水温、おぞましい水圧。
不器用な彼女にとっての人間社会――地上とは、もしかしたらそんな場所だったのかもしれない。
「ね、毎日海で泳ぐのってどんな感じ?」
私たちはシーラカンスの冷凍標本の前のひんやりとした椅子に腰を下ろしていた。何気なく理名さんにたずねる。ふとした瞬間から湧き出た、間を埋める以外の特に意図のない質問だった。
「……やっぱり危険なことなんだと思う」
それは、予想していた反応とぜんぜん違った。
海を愛する人たちがそうするように、理名さんが両手を仰いでその素晴らしさを説いてくれるのを期待していた。
しかし、理名さんの反応は重たく、敬虔な信者のような面持ちだった。
「プロでもそうなの?」
私はたずねた。
「プロっていうかニンゲンなら」
理名さんはガラスケースの中で凍り付くシーラカンスを見つめた。
「深くに行けば行くほど、方角とか、時間も、いろんな流れの感じ方が陸とは違うのよ」
理名さんは言った。
「一度ね、泳ぎ方がわからなくなったことがあるの」
私は彼女の横顔を見た。そのガラスのような目には見覚えがあった。
理名さんは感情の読めない僧侶の顔つきで、静かに話し始めた。
「体をどうしたら前に進むとか、上に上がるとか、泳いでるときってそんなこといちいち考えないでしょ? だけど、そのときはなんていうのかな、こう、急に我に返ったみたいに、自分が陸の上の生物だって思い出して、いままでどうやって泳いでいたのかすごい不思議に思えてきて、そしたらなんかわかんなくなっちゃって、それで考え込んでいたら、自分が息をしてないのに気付いて……。あのときのことを思い出すといまだに身が引き締まるの。私はただ海にお邪魔しているだけのよそ者なんだって」
怖い話だった。
でも同時に救いのある話だと思った。この人は陸の上から海を眺める人だ。決して身も心も海に投げ出したりなんかしない。
私は言った。
「でも、あんなきれいな海で毎日泳げるなんて素敵だね。海なし県の住人からしたら夢のよう」
「うん、ここの海は本当にきれい」
理名さんはひとつひとつうなずきながら言った。
「穏やかで、明るくて、秋になればもっとよく澄んで、遠くまでよく見えて。……でもね、明るさとか、透明度とは別の、もっと本能的な『暗さの訴え』みたいなものがあるのよ。だから複数人で一緒に潜るんだけど、それでも人と人とのあいだには必ず海が存在していて、結局は一人ぼっちの世界。きっとどれだけ深く潜ってもまた上に戻らないといけないって、そういうことなんだと思う。毎日魚を食べても魚にはなれないし」
私は理名さんの大真面目な顔をじっと見ていた。
何ひとつ嘘や大袈裟ではないのだろう。それは波打ち際に生きる彼女の信仰そのものだった。遠い異国の地から聖地に向かって祈りをささげる人たちのように、彼女の双眸には絶えず海が揺れていて、そのかかとはいつだって湿っている。
私は幽霊だ。
ふと思った。
バスを降りてから、ずっと心の奥底に巣くっていたあてのない空虚さや、対象のない執着心……のような何か。
目的のないもの、ここにいてはいけないもの。
この半島の、縫い付けられるような重力に囚われた地縛霊。
私は明日、本当に帰れるだろうか。
私は明日、私がいまもここを離れられずにいる理由を解明し、親愛なる人たちに納得のいく説明をできるだろうか。
嘘をつくのは難しいことじゃない。たとえ相手が愛する人であっても。
でも、ここでの出来事について、この先もしもその場しのぎの嘘をつくようなことがあれば、そのとき私はとても傷つくだろう。
それは間違いない。
自分が自分でなくなってしまうようなショックを覚えると思う。
「だからみのりちゃんも、明日にはちゃんと帰ろうね」
振り向くと、穏やかな瞳が、私を見ていた。
いつから私の話になっていたのか、何がどう繋がっていたのか。
見透かされているみたいで顔が熱くなった。
まったく、何が「だから」なんだか、まったく。
何も言い返すことができなかった私は、ガラスケースに閉じ込められたシーラカンスの凍った瞳を、むっとして睨んでいた。
私たちはソフトクリームを食べながら沼津港をぶらつき、車に戻った。
「さあ、どうする? 適当にドライブでもする?」
理名さんのそんな声が聞こえたが、私はシートベルトを締めた瞬間、急激な眠気に襲われて返事をすることができなかった。
私は思い返した。今日は朝からバスに乗って、電車にも乗って、ああパトカーにも乗った。それから遺灰を受け取って、またパトカーに乗って、ダイビングなんかしちゃって、水族館にも行って、そりゃあ疲れるに決まってる。
薄目を開けて見上げると、フロントガラスの向こうの太陽は、まだずいぶん高い位置にあった。私は最後の力で車の窓を開け、素直に眠気に従った。
懐かしい夢を見た。
中学の制服を着た一孝が施設のワークスペースで参考書を開いていて、子供たちがそれを邪魔する。一孝は植物のような穏やかな微笑で、彼らの相手をいちいちしては、それがすむと勉強に集中し、また邪魔される。やがて彼に群がる子供たちを、マコちゃんが砂をさらう波のようにやさしく集めていく。
マコちゃんは子供たちにそうするように、一孝の頭をなでる。一孝は嫌がるそぶりをするが、マコちゃんは菩薩のように彼を見下ろす。
私は一孝に話しかける。
「こんなところで勉強してるからじゃん」
彼は言う。
「いいだろ。少しくらい賑やかじゃないと落ち着かないんだ」
私は笑う。
「そうだね。私もちょっとくらいうるさいほうがよく眠れる」
すると、マコちゃんの手が今度は私の頭をなでる。
「なに?」
「して欲しいのかと思って」
その手を掴もうと腕を伸ばすと、目が覚めた。
泣いているのかと手でぬぐったが、私の肌は乾いていた。
目を覚ますと理名さんの細いタバコの甘い匂いがして、コンクリートの段差が目の前に見えた。
「あ、起きた? ちょっと連れ回しちゃったかな。でもちょうどいい時間だよ。外に出よう」
言いながら理名さんが車から降りるので、私も太ももの上の木箱を置いて、寝ぼけた頭でそれに続いた。
コンクリートの階段を登ると、見渡す限りの海が広がっていた。
「千本浜。名所はいっぱいあるけど私はここが一番好き。曇ってなければ富士山も見えたんだよ」
首を左右に振って、視界のすべてを横たわる浜辺に目をやった。水平線がはっきりと見え、波の音が巨大なステレオのように左右から聞こえた。
理名さんは防潮堤に腰を下ろして新しいタバコに火を点けた。
トンビが低い位置を飛んで、ぴゅーひょろろーと鳴く。
太陽は雲に隠れて見えなかったが、ややブルーがかったピンクとオレンジが、空を覆っていた。
広い砂浜には点々と人がいた。観光客ばかりではない。釣りをしている人、カップルでギターを弾いている人、家族連れ、石を投げる子供、犬の散歩、ジョギングをする人、振り返ると松林の向こうはすぐ住宅地のようだった。
ダイビングの娯楽性や、先ほどの深海魚の神秘ではなく、人々の生活がダイレクトに息づいた海。
私はじっと眺めた。地平線の向こうをひたすら覗くのも、砂浜に打ち上げる波を見るのも、時間の感覚を忘れてしまう。沈みゆく夕日の位置だけが、正確な時刻を指し示していた。
「飽きないでしょ?」
携帯灰皿にタバコをもみ消しながら、理名さんは言った。
「多分だけど大きいものってそれだけで飽きないんだよ。私は海なんて見慣れてるけど、ここは飽きない。ここに来てる人たちはみんなそうだよ」
私は返事もせず、海を目に映したまま、風に吹かれた。
そう、風。
ここは来てから絶えず風が吹いている。涼しい風が体や心までも冷やしてくれる。瞳の奥だけがただ熱く。風がそれ以外のすべてを冷ましていく。
贅沢な光景だった。ただ日が沈み切るのを、各々の過ごし方で待つ。一人でも、二人でも、家族を連れても、犬がいてもいい。
「ここには詩織ちゃんともよく来たよ。サンドイッチをテイクアウトして、ぼーっと海を見たり散歩したり」
「ねえ、理名さん車開けて。最後に三人で見よう」
「そうだね。そうしよう」
理名さんはその場で振り返って、車のロックを遠隔で解除した。
私はコンクリートの階段を降りて、すぐそこに停めてあった車から遺灰の入った木箱を抱えて戻った。
木箱からは相変わらず、温かさも冷たさも感じなかった。マコちゃんを持つ私の手ばかりが熱く、潮風がやさしくそれを冷ました。
私は言った。
「マコちゃんが死んだのがここなら良かった」
「どこでも一緒だよ。私はこの先、どこでどんな海を見ても、この子のことを思い出すんだ」
そう言って理名さんは、私の膝の上の木箱をなでた。
「それはそうかもね。岐阜に海がなくてよかった」
「だから精々楽しい思い出で上書きしなきゃ」
「でも小さなかけらはどうやっても残るよ」
「呪いだね」
「ホント」
理名さんは立ち上がった。
「ちょっと浜辺を歩こっか。石の感触が気持ちいいよ」
私たちはコンクリートの段差を降りて、浜辺に立った。理名さんの言う通り、丸い石が靴底を通して足つぼマッサージのように刺激し、疲れが取れていくようだった。
そのおかげもあって私たちはどこまでも歩いた。木箱をお腹の前で抱えて、歩いても歩いても、端に届く気配もない。
空のピンクとオレンジが、徐々に灰色に飲み込まれ始めていた。足を止めて水平線を覗き込んだ。空はまだ明るさを保っていたが、わずかにカーブした水平線は漆黒の闇の一筋で、マコちゃんがこちらを覗き込んでいるようだった。
「あそこはもう夜なんだね」
「そうだね。私たちも暗くなる前に戻ろう」
私たちは夕暮れの中、来た道を戻った。
ザクッザクッと足音を立てながら歩いた浜辺は、海の匂いがいっぱいして、生き物の体内のように生臭かった。
私たちは元いた防潮堤に腰を下ろしていた。無言で海を眺めながら、花火が上がるわけでもないのに、ただただ太陽が完全に沈み切るのを待った。
遠くの船が明かりを灯しだした。
暗くなれば暗くなるほど、波の音が大きく聞こえた。
私は理名さんにたずねた。
「理名さんはマコちゃんと付き合ってたの?」
「え?」
と言って、理名さんはかすかに残った夕日のオレンジの中で笑い出した。
「なに? そんな風に見えた?」
「一応、確認までに」
「違うよ。私はレズビアンじゃない。素質があるって言われたことはあるけどね」
「素質って?」
私はたずねた。
「そうだね、例えば――」
そう言うと、彼女は私の前髪を持ち上げ、おでこにキスをした。
「こういうことはできる」
「タバコ臭い」
私は言った。
「それって気安いっていうか、人との距離が近いだけじゃん」
「口にだってできるよ」
「私も別にできるよ、しないけど。一緒だよ」
「私たちやっぱり似てるのかもね。詩織ちゃんはどうだったの? 小さいころから一緒のあなたから見てそっちの気があった?」
「わからない。でも中学のころ、男の人と付き合ってはいたよ」
全然上手くいってなくて、よく私に泣きついてきたけれど。
「まあレズかどうかはともかく、私から見ても恋愛には興味なさそうだったね。コンパにも一緒に行ったけど素っ気なかったし。とにかくいまは海で働けるのが幸せだって、そう言ってたよ」
理名さんはまたタバコに火を点けた。
「これは私の偏見だけど、海を愛する人って孤独な人が多いんだ。うまく立ち回りながらもどこかで人間社会に馴染めないやつ。潜りに来るお客さんを見ててもそう思う。だからみのりちゃんは多分ダイビングにのめり込むタイプじゃないね。明るいし器用そうだもん」
「理名ちゃんは?」
私はたずねた。私は彼女を「ちゃん」と呼んでいた。言ってから気付いたが、そのほうがずっと自然な感じがした。
「私? 私かー。そういうところはあるかもね。よく正論を振りかざして、人に嫌な思いをさせてると思う。だから正論しかない海は好きだね」
「私、理名ちゃんのこと好きだよ。初めて会った気がしない」
理名ちゃんは私の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「会って二十四時間も経ってない人にそんなこと言っちゃだめだよ」
「正論だね」
「そうでしょ?」
日が完全に落ちたあとも、私たちは暗い海に浮かぶ船の明かりを眺めていた。




