第二章
2
熱を出すのはそれほど嫌ではなかった。
私は慣れっこだった。頭がガンガンすると少しうるさいけれど、ボーっとする浮遊感は私を現世から隔離してくれたし、私が熱を出すとき隣にはマコちゃんがいた。幼稚園や小学校を休んでいるときは、ひたすら彼女の帰りを待っていた。マコちゃんが来てくれる、そう思うだけで灼熱の日中をやり過ごせた。
施設にいるのはみな親のない子供だ。強い子も弱い子もいるが、誰もが多かれ少なかれ母性に飢えていた。
施設で育った私たちにとって多くの場合、その対象は贔屓の職員さんだったり、特定の年長者だったりした。私にとってそれはマコちゃんだった。
園庭やワークスペースに出るとたちまち小さな子供に囲まれる彼女が、私の部屋を訪れ、私に語り掛けてくれるひとときが好きだった。私は熱を出したときだけマコちゃんを独占できた。
彼女は低血圧の冷たい手で、私の燃える手を握り、もう片方の手で、額の髪をかき上げやさしくなでる。彼女の冷たさと私の熱さ、その差こそが私たちのかけがえのない絆だった。
彼女はカーテンを開け、私の枕元に腰掛けると
「みのりちゃんは困った子ね」
と静かにつぶやく。
私は彼女にずっとそこにいてほしくて、そのひんやりとした手をぎゅっと握る。
「もう少し熱が下がったら、絵本を読んであげる」
やさしくささやく面倒見のいい彼女は、なぜか滅多に笑わなかった。いつもおしみない愛情を持って、冷たい水槽の中の他の生物を飼育しているように見えた。
私たちの小さな陽だまり、あるいは海の底。
快く思わない子供も少なからずいた。
大事な絵本を破られたこともあった。
犯人捜しは行われなかったが、実行犯は誰の目にも明らかだった。
いっくん――一孝だ。
一孝は誰よりもマコちゃんに懐いていて、ことあるごとに私につらく当たった。私は彼を恨まなかった。寛容の精神なんていいものじゃない。マコちゃんを独占できる特権に対する後ろめたさ、私はそれを十分理解していた。破れた絵本を前にして泣くことさえ、わがままな気がしてならなかった。
その日の熱はいつもと違った。頭も喉も痛みはなく、頭が二つに開いて何かが飛び出していくような現実味のなさだった。
私はとてもハイで、なんでもできる気分だった。だが、幼い私がそれまで感じてきた死の予感を遥かに超える、根源的なあちら側への手触りがあった。
私は一人で部屋を出て廊下を歩いた。午後だったと思う。あたりには幼稚園から帰ってきた子たちと、未就園児しかいなかった。
幽鬼のように歩く私に、誰も声を掛けなかった。
私は廊下で一孝の姿を見つけた。薄れゆく意識の中で、私は彼にもたれかかり、その胸倉をひねり上げた。
「お前、私の絵本破ったろ。謝れ」
自分でも、どうしてこんなときに怒りを露わにしているのか不思議だった。
一孝は怯える手で私を振り払い、踵を返して走った。間もなくして大人を引き連れ戻ってきた彼は、地面に寝そべる私を見ながらわんわんと泣いた。そこで意識はぷつりと途切れ、気が付くと私は病院にいた。
何日か入院し帰ってきた私のベッドに、破れた絵本が新品になって置かれていた。
私がベッドに入ると、マコちゃんは何も言わずにその絵本を読んだ。
――静岡駅でバスから解放されると、鋭い直射日光が私を刺した。私は明かりに群がる虫のように、我を忘れてその光を真正面から見上げていたが、やがて正気に戻って駅構内に避難した。
スマホのメモを確認すると、沼津駅まではここから50分以上電車に揺られなければならなかった。
私は駅のベンチで着信履歴から警察に連絡をした。
私は担当の警官に電車の到着時刻を伝え、電話を切ると、最後の力を振り絞り切符を買ってホームに上がった。
ホームをものすごい勢いで通過していく電車を眺めながら、こんなことならばケチらずに初めから電車、あるいは新幹線を使えばよかったと猛省した。
生理の痛みを次の生理まで忘れるように、人はつらい体験を健康な毎日で上書きしてすっかり忘れてしまう。私はいつかまたうっかり高速バスに乗ってしまうのだろうか。そんなことを考えながら、到着した電車に乗り込んだ。
バスと比べれば電車内は平和だった。私は強く反発する力もなく、だらしなく口を開けたまま、ただその振動に身をゆだねていた。
電車を降りるころには、まだ正午前だというのに、私は干からびて生きるしかばねのようだった。
以前、同居人の緑ちゃんの背中をさすってあげたことを思い出した。父親を亡くし、河野家に身を寄せることになった彼女はとてもまいっていた。彼女は元いた家に荷物を取りに帰る最中に、激しい車酔いの症状にみまわれた。精神的なパニックの発作だろう。輝美さんはそう言っていた。
私は全然そうじゃなかった。
自分のことが薄情に思えるほど、もっと悲しんだり、泣いたりするべきなのかと考えていた。故人を悼む気持ちよりも、押し寄せてくる嵐をやり過ごすので精一杯だった。
そうして嵐の果て辿り着いた沼津という町。マコちゃんが第二の生を生き、死んだ場所。私を迎えたのはまたも直射日光だった。
私は久しぶりの新鮮な空気を、鼻から大きく吸い込んだ。だが、予想に反し、海の匂いという奴はちっとも感じることができなかった。
私は日陰を選びながら駅の南口を西に回って、担当の警官が待つという隣接する交番に入った。
「葉月さんですか?」
交番に入るとさっそく二人の若い女性警官が私を迎えた。疲れ果てて前かがみになっていると、彼女たちはしゃがみ込んで私を見上げた。
電話でやり取りをしていた土屋さんという女性警官に、保険証で身元を確認してもらうと、すぐにまたパトカーで移動する羽目になった。
私は「もっと休ませてー」と駄々をこねたい気分で、パトカーの後部座席に押し込まれた。
移動また移動。
今後の人生において旅行という一切が嫌いになりそうだった。
幸いだったのは、整備が行き届いたパトカーも、土屋さんの安全運転も、心地良かったことだ。
私は酔い防止も兼ねてずっと窓の外を見ていた。
早く海が見たかった。
私は生まれてこの方、海というものを直接見たことがなかった。
だからマコちゃんが高校生になり、アルバイトの稼ぎのほとんどを海に行くことに費やすようになっても、まるでピンとこなかった。
彼女はバイト代を握りしめ朝早くに起きると、月に一度の巡礼の旅に出かけた。そして門限までには帰ってくると、自室のドアを閉め切った。
私が土産話をねだっても、彼女はその神聖な旅路をよほどハイでもない限り語りたがらなかった。でも時々、本当に時々だが、ベッドに写真を広げて一言一言つぶやくように、その美しさを語った。
彼女は戦火に焼かれた故郷の写真にそうするように、印刷された海に触れた。彼女の指先が写真に触れる瞬間、彼女がこのまま吸い込まれてしまうのではないかと心配だった。
私は海を探した。
マコちゃんが憑りつかれた巨大な、巨大なということしかわからない水たまり。
体の中でまだくすぶっている乗り物酔いの残滓を、その素晴らしい海という存在は吹き飛ばしてくれるのではないかという期待もあった。
だが窓の外は、ありふれた住宅地が流れるばかり。
「海、見えないんですか?」
私は運転席の土屋さんにたずねた。
彼女はまっすぐ進行方向を見たまま答えた。
「いまは海とは逆の方向に向かっているから、残念だけど見えないね」
警察署での手続きを終えると、パトカーは住宅街の奥にある小さな山の麓の斎場に止まった。
そこで、骨壺の入った小さな木箱を受け取った。
木箱は軽く、夜な夜な泣きながら私にのしかかってきたあの生命の重さはそこにはなかった。
ずいぶん小さくなっちゃって。私はありきたりな感想をひとつ浮かべた。
骨まで粉々に崩され、マコちゃんは文字通り灰になった。
「ちゃんと児童養護施設まで届けてくださいね」
土屋さんはそう言うが、私はここに来てまだなんの実感も湧いていなかった。
「今日はホテルを取ってるの? それとも駅まで戻りましょうか?」
駅まで、という言葉に、バスの揺れとホームを通過する電車の轟音がフラッシュバックした。
耳の奥がギュッと詰まって、私は陸の上で溺れかけた。
輝美さんは早く帰れと怒るだろう。だけど、このまままた何かの乗り物に揺られて身も心も削られるのはごめんだ。
それにまだ、私は海を見ていない。
私は
「あの、もし良ければ……」
と前置きして、土屋さんに深く頭を下げた。
「故人の職場までお願いできませんか。送られてきた手紙に来て欲しいって書いてあったんです。職場の人にも挨拶したいし……そこからは自分で帰りますから、無理ならいいんです。でもお願いします」
職場の人への挨拶など実際のところどうでも良かったが、私はマコちゃんの愛した海に触れたかった。それだけがこの体をあの乗り物たちから引き離す唯一の方便だった。
警官たちはずいぶん長いこと困った様子で顔を見合わせていた。乗りたくはないがタクシーでも呼ぼうかと考えていると、やがて土屋さんは無線に連絡を入れてパトカーの後部座席のドアを開けた。
彼女はわずかに微笑んで言った。
「あくまでパトロールのついでですよ。あなたが未成年だから今回は特別ね」
車中、窓の外を眺めていると、家々の隙間に突然キラキラしたものが目に入った。
目を凝らしていると、家並みが途切れて一面のブルーが広がった。
「海だ」
私は小さく声に出していた。
正午の日光を真上から受けて、海は水平線までガラスを散りばめたように輝いていた。輝かしさよりも私はむしろそのスケールに目を取られた。なにもなく、ただただ大きい。それだけで見入ってしまう。引力や重力のようなものを感じた。
「葉月さんは岐阜出身? 岐阜は海ないよね」
運転席から土屋さんが言った。
「はい、だから私、海を見るのも初めてです」
私は興奮して言った。
「そうなんだ」
土屋さんは少しスピードを落とした。
「ここから先はいっぱい見れるよ。このへんは海しかないから」
車は海沿いの道を走り、彼女の言葉通り、右手には絶えず海が揺れていた。
「でも、本当に海しかないからねーこのへん。だから都会に憧れて出ていく若者が後を絶たないけど、でも結局みんな帰ってきちゃうんだ」
私は言った。
「でも、ここの海が好きになって、ここに来ちゃう人もいますよね」
「一応観光地だからね。でもそうだね、たまの観光ならともかく、実際よその土地からここに住み着いちゃう人の気持ちは私にはわからないかな。きっとそういう人は私とは海の見え方が違うんだろうね」
「そうですね。じゃないとここは自殺者だらけになっちゃいますね」
私の無意識な失言に空気が凍った。土屋さんは何事もなかったように赤信号で緩やかにブレーキを踏んだ。規則的なウインカーの音だけが車内に響いていた。
私は海を見た。マコちゃんは白く輝く水平線の向こうに行ったのだろうか、それとも深いところにいるのだろうか。
腕の中で、木箱の蓋が車の振動に合わせてカタカタと揺れた。
マコちゃんの職場のことは、彼女のSNSでよく知っていた。
錆びた倉庫のような建物も、彼女がお茶を飲む小奇麗なテラスも、タイル張りの地面も、並べられたタンクも、干されたスーツも、そこから見る海も、みんな見たことがあった。
海岸沿いのダイビングセンターに現れた、移動でくたくたになった制服姿の場違いな私を、職員たちはいたく歓迎した。
突然のことで葬式もなかったからと、彼らは代わる代わる、私の持つ木箱に手を合わせた。まるで教祖様にでもなった気分だ。
「急に仕事に来なくなって、それで手紙が届いたのよ」
二十代後半くらいの女性が、骨壺の入った箱を撫でながら、涙をこぼして言った。
濡れた髪をパイナップルみたいに結んだ、日に焼けた肌の女性だった。
その健康的な体つきは、イルカを見れば泳ぐのに適しているのだと想像できるように、一目で彼女が海を愛する人だと連想させた。
「最初はなんの冗談かと思ったけど、きっと手遅れだったのね」
そう言うとその女性は、乱暴に涙を拭った。
手遅れという表現が、私の胸に痛みを与えるとともにしっくりと収まった。マコちゃんはもう何年も前からこの道を歩き始めていた。きっとこの土地に来た時点で手遅れだったと言ってもいいのだろう。私は止められなかった。あのやかましくも穏やかな施設で、彼女はすでにその準備を始めていた。その後ろめたさが、私を今日ここまで連れてきたのかもしれない。
「ごめんね。初対面で泣いちゃって、あー恥ずかし」
その女性は、パチンと日に焼けた頬を叩いて気を取り直した。
「あなた、みのりちゃんでしょ?」
彼女は立ち上がると、ほんのり赤くはれた目で、明るく言った。
突然、名前を呼ばれて目玉をひん剥いてしまった。
「私は町田理名。詩織ちゃんの手紙にあなたが来るかもって書いてあったの」
そう言って彼女は、私の手を勝手にとって握手をした。お互いの冷えた手のせいで、熱のない手の感触だけがした。
「それに、たまに育った施設のことを話していたから、あなたの名前もよく聞いたの。岐阜からはるばるようこそ。大変だったね、遠かったでしょ」
「……遺書に名指しで遺灰を取りに来いって言われまして」
私は手にした木箱のサラサラとした触感を確かめながら言った。
「それは勝手ね!」
「ほんと!」
静かな波の音をバックに、私たちはせめてもの反抗に、まるで古くからの親友のように小さく笑いあった。やけくそで喉を引きつらせながら、理名さんとの波長がぴったり重なるのを感じた。私たちはひょっとしたらいい関係を築けるのでは、さみしく広がる空の下でそんな予感がした。
「ねえ! せっかくだから潜っていかない?」
理名さんはいいことを思いついたとばかりに言った。
「せっかく観光地に来て、こんなお使いだけじゃもったいないでしょ? 詩織ちゃんの好きだった海を見ていってよ」
私は慌てて手足をバタバタと振った。
「ええ、そんな、私、海を見るのも初めてで」
「大丈夫大丈夫。足の着くところを潜るだけなら誰でもできるよ。せっかくだし、お金も取らないから」
せっかくだし。
その言葉に私はつい魔が差してしまった。
この夏はボランティア尽くしでたいして遊びにも行けず、かと思えば突然呼び出されてこんな遠くまで乗り物酔いでやってきて、灰を持って帰るだけじゃ確かにバカらしい。
それならまあ、せっかくだし。せっかくだし。
私は講習を受けて、理名さんと海に潜った。
ベストシーズンより少し早いとのことだったが、初めてのダイビング体験に私は夢中になった。ウェットスーツを着ても水が冷たく、ひとたび海に入ると私の体に溜まった不浄が洗い流されていくようだった。
エメラルドグリーンというには少し濁ったその浅いところを、私はハイハイをするように泳いだ。
魚たちは南国のそれより地味な色をしていたが、人懐っこく私の前を旋回し、彼らを追い回しているうちに、予定の時刻はあっという間に過ぎてしまった。
その三十分間、私は遺灰をロッカーに入れ、すっかり手放していた。
着替え終わると、理名さんは水中で撮った写真を見せてくれた。スーツに身を包み、タンクを背負ってピースサインを送る私は、どこからどう見ても間抜けな観光客だった(輝美さんが見たら怒鳴りそうだ)。
私は元気だった。
耳詰まりが嘘のようにリフレッシュしていた。
もっと哲学的な気持ちになると思っていた。生と死について、海の中で向き合うのだと思っていた。
私にはわからなかった。ただ楽しいだけで終わってしまった。私は物珍しさに海に潜ったただの観光客で、ここに住み着いたり、海と心中したりしない。
壺に収まった灰だけを大事に持ち帰り、その妄執や無念までもはすくい取ることはできない。結局のところ、招かれてのこのことやってきたよそ者なのだ。
「今日はどこに泊まるの?」
テラスでまだ少し濡れた髪のままお茶を飲んでいると、Tシャツにデニムのホットパンツ姿の理名さんが話しかけてきた。
「日帰りのつもり……ていうか何も決めてないっす」
「うちに泊っていきなよ」
理名さんはいとも簡単に言った。
「疲れてるだろうし、夏休みでしょ?」
私は思わずお茶を飲む手を止めたが、なんとなくだが私も彼女と離れがたかった。彼女がそうであるように、私も彼女から真琴詩織の死について知りたい、納得したいのだ。私たちは共に真琴詩織に切り裂かれ、無力感を植え付けられた。二人なら、あるいはそう思ったのかもしれない。
「でも、多分、というか確実に怒られる……」
「怒られちゃえばいいじゃん。同じ夏は二度と来ないのよ」
思わず迷った。理名さんのどこかで聞いたような陳腐なせりふは、いちいち私のやわらかい部分に触れてくる。
べつに、ここに残りたい理由は、もうない。
ただ、もうバスには乗りたくないし、鉄道だってまあまあ嫌だ。長い帰り道がとにかく億劫だった。
こんなに遠くまで来てしまった。
いまさらながら心が青ざめていく一方で、海中で冷えたはずの体は妙に熱く、心臓がうるさいくらいにバクバクと鳴っていた。
海を見る。
高く浮かんだ白い太陽が、海上に光の皿を作っていた。
目をぼんやり開いてその光景を眺めた。
太陽は、先のとがったスプーンで熟れた果実をえぐるみたいに容赦なく、火照ったまなこをとろとろになるまで焼いた。
あとはただ波の音がしていた。
私をここまで向かわせた、あの膨大なエネルギーはもうなかった。
一過性の嵐のように過ぎ去って、ぽつんと私だけが残った。
私はまるで炭酸の抜けたコーラだった。
「どうして私にこんなに良くしてくれるの?」
私は理名さんにたずねた。彼女がどんな言葉でそれを説明するのか興味があった。
彼女は答えた。
「それはきっと根拠はないけど私たち三人が似ているからよ。詩織ちゃんを中心に私たちは繋がってる。だから、もう少しあなたとお話したいと思ったの。迷惑だったでしょ?」
私は言った。
「マコちゃんはどうして死んだのかな」
「私にはわからない。あなたは?」
理名さんが首を振ると、濡れた髪から水滴が零れ落ちた。
私も首を横に振った。
「孤児にだって人生にはいろんな楽しみがあるのに、海がきれいだからなんてバカみたい」
「そうだね、本当にそう」
理名さんはタバコに火を点けた。
「海そのものは生でも死でもなくて、こんなに生き物があふれているのに、その暗い側面だけを切り取って美しいなんて言うのは間違ってるよ」
そう言うと、理名さんはまためそめそと涙を流し始めた。
確かに、確かにこういうところはマコちゃんと似ているな、と思った。
結局、私は疲労に勝てず(ダイビングなんてするからだ)理名さんの家に一泊することに決めた。
問題は……スマホの発信画面に映る『河野輝美』の文字だ。
彼女は女傑だ。多くの里子の面倒を見ながら、喫茶店の経営もし、そのうえ旦那さんは単身赴任中という膨大なタスクを、涼しい顔でこなしている。その双肩に掛かる責任は生半可なものではなく、突然の外泊などやすやすと許してくれるものではない。
私は遠方から彼女のご機嫌を窺いながら、息を止めて発信ボタンを押した。
再び息を吸い込む前に、輝美さんはツーコールで電話に出た。
「みのりか? いつ帰ってくる?」
もしもしも言わずに輝美さんは切り出した。彼女にはそういった野生の勘じみたものがある。
「いやいや、聞いてよ、輝美さーん」
私は道化を演じ、朝から私の身に起きた出来事を大袈裟にひとつひとつ話した。もちろん「ダイビングしちゃいましたイエーイ」などとは口が裂けても言えない。
「それで、もうくたくただって言ったら、マコちゃんの職場の人が泊めてくれるって話で」
「まだ間に合うだろ、帰って来い」
冷や汗まみれの私に、輝美さんは取り付く島もなかった。
「いや、本当に、疲れ切ってるんだって。私が乗り物酔い知ってるでしょ? また酔って大変なことになるから、せめて疲れをとってから」
と、言い終わらないうちに、理名さんにひょいっとスマホを取り上げられていた。
「お電話変わりました。私、真琴詩織さんの同僚の町田と申します」
理名さんは余所行きの口調で、私がいかに疲れているか、知人の死にまいっているかということを熱心に輝美さんに訴えかけた。
「ちょっといま一人で帰らせるのは心配です」
どのくらい時間が経っただろう。ほいっとスマホが帰ってくると、輝美さんは
「百歩譲って泊るのはわかったが、絶対明日帰って来いよ」
と言った。
隣で理名さんがピースサインを作った。
私は輝美さんに言った。
「それとお願いなんだけど、一孝にはまだ黙ってて欲しいの。帰ってからすぐ全部私が話すから」
一孝はまだマコちゃんの死を知らない。私は何も言わないで出てきたし、輝美さんにも外出許可を取る際に緘口令を敷いていた。
確信を持って言えるが、一孝はマコちゃんのことが好きだった。小さいころからずっと、ずーっと。
その思いが今も継続しているとは思わないが、心の底に残った小さな恋のかけらは、私が傷を残さず拭き取らなければならない。使命感にも似た思いがあった。
「一孝は怒らないよ。多分、絶対」
「……わかった。あんまり背負いこむなよ」
ああそれと、と輝美さんは電話を切る前に言った。
「ビールに合う土産を買ってきてくれ」
「どっか寄りたいところある? せっかくだから観光しちゃえしちゃえ」
ダイビングセンターの人たちに押し込まれるように乗った理名さんの車で、私たちはあてもなく走っていた。振動の少ない助手席で、窓を開け放ち、喋りながらするドライブは酔う心配なんて全然なかった。
「それよりコンビニとかでもいいから何か食べたい」
私は自分のおなかをさすった。朝から何も食べていなかった。どうせ戻してしまうのが目に見えたからだ。
「オーケイ、ご飯ね。何にする? やっぱり海鮮? 人気のハンバーガーショップとかもあるけど」
「ハンバーガー!」
私は即答した。移動とダイビングで疲れた体は、なんとなくだがお刺身よりもハンバーガーを求めている気がしたのだ。
「詩織ちゃんもよく連れて行ったとこだよ。あの子も刺身とかあんまり食べなかったな。海に魅入られたくせに変な奴」
注文したハンバーガーのセットが届くまでのあいだ、マコちゃんのSNSを見ていた。
手紙が来てから幾度となくチェックしたそこは、更新の頻度こそ少ないものの、職場の風景や、様々な顔をした海でいっぱいだった。
華やかな海での生活に彩られた投稿たちは、これから死せる者のものとは思えなかったが、同時にすごくハイでまぶしく、作り物みたいだった。
最後の投稿は、きれいな海を望む、崖の上の写真だった。何も文面はなく、ただ画像だけが残されていた。湧き上がるおぞましい想像は、おそらく的外れではないだろう。マコちゃんの短い人生の終着地点。
「ここがどこかわかりますか?」
人気店だけあってなかなか届かないハンバーガーにしびれを切らして、理名さんにスマホを見せた。
理名さんは、ああ、と知った顔で
「私も見たよ。名前はわからないけどね、詩織ちゃんの見つかった場所。二人でドライブしているときに見つけたんだ。地元の人がランニングに来るようなさみしい場所だよ」
すると店員さんが巨大なハンバーガーの乗ったトレーを持ってきた。
私は習慣でそれをスマホのカメラで撮影し、SNSに投稿した。もう外泊許可もとっていることだし、輝美さんに見られても問題ないだろう。一孝も夕食時には私がいないとバレるだろうし、あとは輝美さんがうまく言ってくれることを祈ろう。
「行ってみる?」
ハンバーガーを口いっぱいにほおばりながら、理名さんがもごもごと言った。
「でも明日にしよう、今日は遊ぼ」
私は
「うん」
と答えて、ハンバーガーにかじりついた。




