第一章
みのりちゃんへ
お元気ですか?
施設を出たと聞いたときは少し心配もしたけれど、あなたならどんなところでもうまくやっていけると信じています。
さっきニュースで見ましたが、相変わらず岐阜はうだるような暑さみたいですね。
太陽を、卵を割ったように落とした岐阜の夏が嫌いでした。
こちらの夏も暑いですが、幸い潮の混じった磯臭い風が、山へと吹き抜け、私を攫います。風の海岸を歩いていると、少しだけ泳いでいる気になるのです。
あの怪獣たちであふれた施設で、熱を出して寝込んでいた幼いあなたを、いまでも時々思い出します。
狭いベッドに腰掛け、あなたに絵本を読んだあのひとときは、私の人生の中でもことさらまっとうな瞬間でした。
みのりちゃん。熱にうなされながら見つめる、ガラス玉のような瞳は、いまも私を見張っています。
やせっぽっちで、かわいそうなあなた。
世界を恨まない、限りなく透明なあなた。
あなたは、私の知る人間のなかで、もっとも正しく、もっともまぶしい人です。
五つも年下なのに、私はあなたの放つ無垢な光に何度もハッとさせられました。
本当にありがとう。
あなたは私の誇りです。
この手紙を書いているのは20××年の8月24日です。
あなたに届くのはいつになるでしょうか。
ここに書かれているのは、時を経ても決して変わらぬ私の思いです。
だから、差し迫った状況下ではなく、コーヒーを相棒にクールでちょっぴりハイな私のまま、いずれ来るそのときに向けて、前もって筆を取ろうと思ったのです。
暗い引き出しの中で、いつ投函されるかもわからない、あるいは投函されることなどないのかもしれない、この手紙はそういう手紙です。
私は死のうと思います。
でも勘違いしないでほしいの。
人生がつらいのでも、行き詰ったのでもありません。
迫りくる死の予感を前にしても、心は不気味なほど静かです。
初めて伊豆の海を見たとき「死ぬのならこんな場所がいい」と思いました。
しかしです。実際に沼津での生活を始め、毎日海を眺めているうちに、心から、いたって前向きに「ここで死にたい」そう願うようになったのです。
青い海とはよく言いますが、そのブルーがどれほどの顔を持つのか、私は知らなかった。
その意味を知ったとき、そんな願望を持つようになりました。
それに気付いてからは「それがいつなのか」それだけが私の人生でした。
そして、そのときが来ました。
時計の針が十二時を指し示すように、おそらくなんのきっかけもなく、はたと、そう思ったのです。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、そういうことです。
もし機会があったら一度私の職場を訪れてみてください。あの美しい海に触れれば、この気持ちの一端を理解してもらえるかもしれません。
最後に一つ、あなたに迷惑をかけてしまうと思います。
天涯孤独の私には、あなたにしか頼めないことです。
そのときが来たら、最後はあなたに託したい。
不思議とそう思えたのです。
さようなら。私の大切な妹。一孝と仲良く。
早起きした朝、ゴキゲンなカフェテラスで
ベーグルを食べながら
真琴詩織
1
「みのり、お前に手紙」
階段を上がって二階のリビングに現れた輝美さんが言った。その声に、ソファーで寝転がっておでこでエアコンの冷気を堪能していた私は、むくりと体を起こした。
輝美さんは「ん」と私に封筒を差し出した。
彼女の手からそれを受け取ると、カサッと中で何か硬いものが滑る音がした。飾り気のない白い洋封筒だった。封筒には「配達日指定」と書かれた赤字のシールが貼ってあって、その日付は今日のものだった。
輝美さんはもう用は済んだと、かすかにコーヒーの匂いがするエプロンを脱いで、洗濯機に向かった。
封筒を裏返し、差出人に目を凝らすと「真琴詩織」とあった。
マコちゃんからだ。SNSでも繋がっているのに、わざわざ手紙というのが彼女らしくて、私は胸をくすぐられた気分だった。しかし配達日指定とは、今日は何かの記念日だっただろうか。
小さく首をかしげながら、ダイニングテーブルで勉強していた一孝にヒラヒラと手紙を見せた。
「マコちゃんからだって。一孝気になる?」
一孝はその名にピクリと反応してペンを止め、手紙のほうを覗き見たが
「別に。お前宛なんだろ」
とすぐに参考書に向き合った。
私は素直じゃないやつだと鼻を鳴らしながら、そのまま廊下を歩いていった。つるつるとした封筒の感触を手に、細くて暗い三階への階段を登ると、右手にある自室に入った。
座椅子にドスンと腰掛け、手紙の封を切る。
封筒を開けた瞬間、ふわっと少しだけ魚の匂いがした気がした。
中には二枚の便箋の他に鍵が一本入っていた。剥き身の冷たいその物体は、宝箱の鍵のようでもあり、暗い牢獄の鍵のようでもあった。
私は机の上に便箋を広げた。
読み終えると、澄み切った鮮やかなブルーが脳内を満たしていた。
消印は十日前だが、手紙の中にあった日付はちょうど一年前だった。
夕食の時間になっても、私はダイニングテーブルに座っていながら、その意識は冷たい水底に沈んでいた。
食卓に大皿が置かれると、河野家の子供たちはいっせいに手を伸ばした。苗字も、生まれ育った場所も違う彼らは、まるで本当の家族のように料理を分け合った。
「みのり食べないのか?」
輝美さんに指摘される。大皿のチンジャオロースはもう半分近くまで減っていた。
「あはは……」
私は慌てて小皿に料理を運んだ。
「どうかしたのか? マコちゃんが何か言ってた?」
箸を動かしながら、一孝は私のことを一瞥すると、痛いところをついてきた。
「別にー?」
言えるわけがなかった。少なくともいまはまだ。
私は気取られぬよう慎重に嘘をついた。
「まためそめそしてるだけだよ。いつものビョーキ」
そうであって欲しいと祈っていた。
「なんだ、結婚でもするのかと思ったけど、ふーん、困った人だ」
一孝はさして気にした様子もなくチンジャオロースを頬張った。
私もそうした。
私はピーマンの青臭さで、むせかえる海の匂いに蓋をした。
翌日、私は育った児童養護施設に向かった。
私はこの夏、施設のボランティアに精力的に参加していた。燃える空と焼けた大地の中を、汗だくで子供たちと走り回る。容赦のない彼らの好奇心に追いかけられていると、空と地面が視界を行ったり来たりして目の前がくらくらした。
職員の人がお茶を持ってきてくれて、追いかけっこは一時中断となった。
「いつもありがとうね。でも無理して来なくていいのよ」
冷たい麦茶に生き返っていると、ご年配の職員さんは昔のように私の頭をなでた。
「無理なんかしてないですよ。ちゃんと遊びにも行ってます」
「ならいいのだけれど。それよりみのりちゃん。園長がお呼びになってたわよ」
「園長が? なんで?」
「さあ、なんでしょう」
例の手紙のことが脳裏を過ぎった。私は彼女に手紙のことを口にしようとして、便箋の乾いた手触りを思い出し、言葉を飲み込んだ。
「わかりました! 少し抜けますね!」
敬礼のポーズを取り、高鳴る心臓を抑えながら、園長室のある建物へと向かった。
園長室の木製のドアをノックすると
「どうぞ」
といつも明るい園長の重苦しい声がした。
「失礼します」
空調の効いた部屋におずおずと入ると、彼は黒縁眼鏡の奥で目を細めた。
「葉月みのりさん。いつもボランティアに来ていただいてありがとうございます。職員も助かっていますし、子供たちも喜んでいます」
静かなクーラーの音の中で、礼を言うわりには園長の声は苦渋に満ちていた。
「はい、好きでやってますから。……なにか用があるって聞いたんですけど」
園長は大きく二回咳き込んでから言った。
「真琴詩織という卒園生を覚えていますか?」
その名前が耳に入った瞬間、体中から血の気が引いていき、頭が寒くなった。パニックになる一方で、汗だけが冷たく、体をまっすぐと流れ落ちていった。
私はなんとか
「はい」
とだけ答えた。
園長はあくまで淡々と話した。
「落ち着いて聞いて下さい。……数日前、沼津で彼女の遺体が崖下から見つかったそうです。警察に遺書も届いており、事件性はないと判断されました。自殺で間違いないとのことです」
私は手紙の内容を思い出しながら、また
「はい」
と答えた。
「施設が身元を引受けて、火葬ももう済んでいます。それで遺灰を供養するために、現地の沼津まで受け取りに行きたいんですが、警察宛の遺書に妙なことが書いてありましてね。遺灰は葉月みのりに引き取りに来てほしいとのことなんです。もちろんきみは未成年だし、職員の誰かが行くのが妥当だと思うのですが……」
〝迷惑〟とはこれか。カチッと頭の中でピースがはまった音がした。
「行きます!」
気付けば園長の机に両手を着いていた。
「しかしね」
顔をしかめる園長に、私は駆り立てられるようにまくしたてた。
「大丈夫です。私、大人じゃないですけど子供じゃないです。そのくらいのお使いなんてことないです。それに施設は夏休みで大忙しじゃないですか。子供たちのためにもそのほうがいいです」
私の啖呵に、園長はもの言いたげに自身の白髪の混じった頭をなでた。
「……私にも手紙が届いたんです。これを読んでいただけますか? 二ページあります」
誰にも触れられぬよう、引き出しの奥深くにしまい込んだその手紙を、私はスマホで撮影し持ち歩いていた。それを画面に映し出し、園長に見せた。
園長は眼鏡を外し、画面に顔を近づけて、手紙を読み始めた。
最初のうちは気難しい顔をしていた彼だったが、私がスマホの画面をスライドして二ページ目に入ると、ひきつった顔でじっと息を凝らし、言葉を失っている様子だった。
私は園長の震えるその手からスマホを受け取った。
返ってきたスマホは、手汗にまみれてぬるく熱を持っていた。
「正直に言ってきみを向かわせることに私は賛成しかねます。でもそれが彼女の最後の望みならそうしてやりたい。差し出がましいかもしれないけれど親心です」
沈黙の末、園長は掛け直した眼鏡のふちを押さえながら言った。
「わかります。あの人は私の姉も同然です」
私の言葉に園長は大きなため息をつくと、紙のメモ帳を見ながら、机の電話に手を伸ばした。
しばらくして受話器は私に回ってきた。
「もしもし、代わりました、葉月です」
「もしもし、私は沼津警察署の――」
穏やかで事務的なその声は、遠くで聞こえるチビたちの騒ぎ声に時々かき消されそうになりながら、断片的に私の耳に入ってきた。
私はおざなりに返事をしながら、彼女と最後に会った日を思い出していた。
あれは二年半前、彼女が児童養護施設を卒園する日だった。
施設のホールではささやかなパーティーが開かれ、彼女を含む三名を送り出していた。三人とも目に涙を浮かべ、彼らに懐いていた子供たちに囲まれていた。
中学二年生だった私は、年少組にその席を譲って、ジュースを片手に遠巻きにマコちゃんを眺めていた。彼女は順番に子供らを抱き上げ、頭には彼らの作った折り紙の髪飾りをつけていた。
彼女は不思議な人間だった。
小さな子供たちとまったく同じ目線で遊んでみれば、ちょっとしたいじわるで簡単に泣いてしまい、夜な夜な私の布団に潜り込んできた。
赤ん坊を泣き止ますのが得意で、どんなに泣きわめいていた子でも、マコちゃんに抱きかかえられ、顔を覗き込まれるとすぐに泣き止んでしまった。
そう、彼女は赤ん坊とまるで同じ目をしていた。
磨いた皿のような、見るものをそのまま映し返す魔法の鏡。
そのまっさらなレンズで覗き込まれると、私がどれだけ腹を立てていても、砂地に水を垂らしたように、怒りもなにもかも吸い込まれてしまう。
だからだろうか、マコちゃんが嵐のような恋をしていても、大声で笑ったりしていても、彼女の双眸は常に凪いだ海のようなどこかをみつめているように見えた。マコちゃんがぼーっとしているとき、私は底知れぬ不安に駆られて、よく彼女の袖を握りしめていた。
彼女は子供たちの波をかき分け、私の元にやってきた。
彼女は私と、隣で涙をこらえていた一孝をまとめて抱き締めた。
泣き虫な彼女が泣き出すと、一孝も、私も、三人でわんわんと泣いた。
泣きながらマコちゃんの目を覗き込んだ。彼女がダイビングセンターに就職を決めていたことを知っていたからだろうか。涙を流すその瞳が、一瞬魚の目玉のように見えた。私は反射的に身を引きかけたが、しなやかな冷たい指が首の後ろにめり込んでいた。彼女は深海魚のように目を頼らない。だからいつも私に触れるとき、腕や、肩や、頭で、私がそこにいるかを確かめるように強く抱き締めるのだ。
「私、行ってきますね!」
河野家の一階にある喫茶店。現在の保護者であるところの輝美さんに事情を説明すると、私は有無を言わさず宣言した。
事情が事情だけに、輝美さんも返答に困っている様子だった。
「話はわかったけど、お前が遺灰なんてもらってきてどうするんだ?」
グラスを拭く手を休めて輝美さんは言った。
「施設で供養したいって」
「じゃあ、別にお前が行かなくてもいいんじゃないか? 未成年がなにもそんな遠くまで」
「だから遺書に『葉月みのりに引き取りに来て欲しい』って書いてあったんだって、ほら故人の遺志には従わないと」
とにかく、と勢いに任せて言った。そうでもしないと、そろそろ輝美さんが自分も一緒に行くと言い出しかねないからだ。
「もうバスも取れちゃったから。盆明けだから余裕余裕。私、行ってくるから」
私がスマホを取り出し、翌朝発の高速バスの予約完了画面を、輝美さんの目の前に押し付けるように見せた。
「それにそれに、夏の施設の忙しさは輝美さんならわかるでしょ? こんなお使い私がちゃちゃっと済ませちゃえばいいんだよ。さっと行ってさっと帰ってくるからさ、ね、お願い。大事な人なんだ」
彼女は低くうなりながらもしぶしぶ許可を出した。
「あんまり遅くなる前に帰って来いよ。スマホの電源も切らないように」
「はーい。でも、せっかくだから二、三泊してきちゃったりして」
私は笑った。
早朝の高速バスでの三時間四十分は地獄だった。
あの、熱した釘を耳に打ち付けられているかのような激痛。
痛みが目尻からひび割れのように広がって、顔中が干からびていく感覚。
息の吸いすぎで白くなる頭
手足のしびれ
めまい
吐き気
エトセトラ。
気休めに飲んだ頭痛薬のよこす中途半端な眠気のなか、私はちっとも眠れない頭をブランケットで覆い、その小さな隙間から、走るバスの窓をにらみつける元気もなくただ見ていた。
たったの三時間半の道のりを無限に感じながら見た景色は、いつも退屈な青空ばかりを映していて、絶好の行楽日和という言葉を連想させた。
嵐ならいーのに。
と思った。
風で車体がぐあんぐあんと上下して、雨がだんだん窓を叩いて、雷鳴轟く。子供の泣く声が聞こえて、大人たちは胃を痛くして、もう誰もうかうか寝てなんかいられない。
いっそそんな車内だったらいい。
自分だけつらい思いをしているのは腹立たしい。だから誰かに八つ当たりをしたいけど、いまはその元気がない。
だから嵐よ! 私の代わりに吹き荒れろ!
SF映画で、生身のまま火星に放り出された人間が目玉をむき出しにしてもだえ苦しむシーンを見たが、窓に映る自分の顔がまさにそれだった。
確かに、私は小さいころから乗り物酔いしやすい女の子だった。
小学校の遠足のバスで盛大に戻した覚えもある。
思えば、名古屋へ向かう電車のつり革に掴まった瞬間から、胃のダムには決壊を予兆するヒビが入りかけていた。
狭い視界に広がる、真っ青な空のスクリーン。
きっとこの先、どれだけ科学が発達しようと、巨大隕石が地球へ急接近していようと、私は宇宙ロケットには乗らないだろう。
――とかなんとか。ひたすら突拍子のないことを考えながらうめいている自分がおかしくて、からっからに乾いた喉で「ひひひ」と笑った。
そして
「二度と高速バスなんかに乗るものか」
と寝ぼけた頭で幾度となく繰り返し、その矛先を魚になった亡き友人へと向けた。




