第十九話
そのノートはだいぶ使い古されているらしく、色々な箇所が破れており、泥や雨で汚れた跡も点々とある。
買った覚えのまるでないノートで、薄気味悪く、すぐにでも捨ててしまおうとノートを持った時、そこに書かれていたものが目に留まり、手が止まった。
『畏怖羅 怜』
ノートの表紙の罫線の間には、だいぶ薄くなっていたが、しかし確かにその四文字が書かれていた。
畏怖羅という言葉の後に少しスペースを空けて書かれている、怜という文字から考えるに、恐らくこのノートの持ち主の名前なのだろう。
俺は聞いたことがない。少なくとも、俺の親族にこんな苗字の人はいないし、学校の名簿にも載っていないはず。
なのに、聞いたことがないはずなのに、知らないはずなのに、なぜだか聞き覚えも、更には口に出して呼んだ覚えもあった。
その時、また、頭の中で誰かが俺を呼んだ。その声は、今までの何よりもはっきりと聞こえた。
俺は、その声に従うように、ほぼ無意識のうちに、ノートの表紙をめくった。
そこには、畏怖羅怜という少女が、知らない場所に放り出される、という、なんとも非現実的な奇病を患い、その上、夏から脱出できなくなってしまい、それでも、元の状態に戻ろうと奮闘する旨の話が、淡々と書かれていた。
不思議な感覚を覚えた。デジャブのような感覚だ。
俺はこの話を聞いたことがある、そう思った。
いつどこで誰に聞いたのか、まるで思い出せないが、確かに聞いたことがあった。
その確証のない思いは、ページをめくるごとに、一文字を頭に入れるごとに、強まっていった。
心臓が、やけにうるさく鳴り始めた。
興奮とも恐怖とも取れるような感情が、重くのしかかり始めた。
それでも、ページをめくる手は止まることがなかった。
ずっと頭の中で燻っていたいろんな違和感、不安、そして、それの根本であるはずの、思い出せないが、確かに存在する記憶。
その全てが段々と鮮明になっていき、そして、次の五文字を読んだ時、一気に色がついた。
『秘密売り場』
その時、初めて手が止まった。
気づいた時には、なぜだか、涙が流れていた。
全てを思い出した。
……そうだ、俺は、夏の始まりに、あの廃ビルで怜に出会った。
夏の間、ずっと、時間を共に過ごして、俺は人生で初めて恋に落ちた。
夏の終わりに、怜は、跡形もなく消えてしまった。
なんで忘れてしまっていたのだろう。
なんで忘れたままで平気だったのだろう。
気がついたら、家を飛び出していた。
慣れない全力疾走で、ただひたすらにあの場所目掛けて走った。
太陽はまだ天高くで輝いていたが、雲で今にも隠れそうになっていた。
廃ビルに辿り着いた。
何か怜に関するものがあればいいと思った。
しかし、そう上手くはいかないようで、夏の始まりまでずっと放置されていた廃ビルは、しばらく見ないうちに取り壊され、空き地となっていた。
恐らく、怜がいなくなった後、すぐ壊されてしまったのだろう。
しばらく放心状態のまま動けなかった。
しかし、その時、朧げながらもとあることを思い出した。
確か、祖父が面倒を見ている人たちが、怜の罹患していた病気の特効薬を作ったのだということを。
スマホを取り出し、一も二もなく祖父に電話をかけた。祖父ならその研究チームと関わりがあるはず。なら、怜の居場所も知っているはずだと。
電話は、なかなか繋がらなかった。呼び出し音が何度も何度も鳴り響き、焦れったいことこの上なかった。
しかし、五度目の呼び出し音の最中、この手も不可能であることを悟った。
俺は怜のことを思い出した。でも、それは、怜の残した手記のおかげであり、決して自分の力ではない。
じゃあ、怜は果たして俺のことを思い出しているだろうか?
答えは、明らかにNOだった。浩介やクラスメイトの反応を見るに、怜だけでなく、祖父も、怜や怜と俺の関係に関して、微かには覚えているかもしれないが、殆どのことを忘れてしまっているだろう。
ならば、今俺が電話をかけ、祖父に聞いたところで、教えてくれるわけがない。
その時、祖父が電話に出た。
『もしもし、慎也か?どうした?』
「あーおじいちゃん、なんでもない、間違えただけ」
『そうか、ならいいが、もし何かあったら、すぐにかけるんだぞ』
「うん、ありがとう、じゃあ」
電話を切る。
八方塞がりになってしまった。
怜の居場所の知りようがなくなってしまった。
胸が締め付けられるのを感じる。
それと同時に、雨が降り始めた。
俺は何もせず、廃ビルの前で、携帯片手に、ただただ立ち尽くした。
濡れることも、通行人に異常者扱いされることも、何もかもどうでも良い。
初めて他人に恋をして、その瞬間突き放される。
こんなことってあるかよ。
ひたすらに怜を願った。しかし、叶える方法を持ち合わせていなかった。悲しみのどん底を味わうには、十分だった。
暫くそのままでいたせいか、身体が冷え切ってしまった。風邪をひきたくはないので、重い足取りで家に向かう。
家に着いた。大した距離ではないはずなのに、随分と長く歩いた気がする。
くしゃみを何度かし、体を温めるため、無気力のまま風呂に入る。
夕飯は……要らないや。もう寝てしまおう。
幸いなことに、俺の通う高校は始業式が大抵週末に設定される。そのおかげで明日は休日だし。もういいだろ。なんか、疲れたな。
布団に潜り込もうと、寝室の扉を開ける。
その時、眼にあのノートが飛び込んでくる。
……そういえば、秘密売り場が登場した後を読んでいなかったな。折角だし、読んでから寝るか。
怜が俺に初めて出会った何度目かの夏から、ついこの前の夏休み最終日前日までのことが、怜を感じさせる文体でつらつらと書かれていた。
夏休み最終日は、怜の消えた日なのだから、これが日記なのだとしたら、書かれていないのは自然なこと。だが、花火大会のことが書いてないのは、日記として物足りないな。まあ、もう二度と会えないんだろうし、勝手に書き足してもいいだろ。
そんなことを考えながら、記憶にある通りに、涙を堪えながら、夏休み最終日に起こったことを書き連ねていく。
その時、天啓を得た。ありきたりで、誰でも思いつくような、凡庸な方法。だが、怜の正体も居場所も連絡先も何もわからない、知る術もないこの状況下では、最適解に思えた方法。
俺は怜の残したノートのおかげで記憶を取り戻せた。なら、俺も同じようなものを用意してやればいい。
つまり、俺もあの夏の出来事を日記のようにまとめたものを作り、それを怜に見せればいい。怜の残したこの日記をそのまま載せるには、あまりに赤裸々に書かれているから、俺の手で作り直す必要はあるだろうが。
ありがたいことに、この世界は殆どの場所がインターネットでつながっている。その上、怜はいわゆるデジタルネイティブだ。だから、俺の作る手記を怜が見る可能性は、ゼロではない。
もちろん、どう考えても俺は才覚に恵まれていないから、たとえ公開したとしても、怜はそれを読まないかもしれない。し、そもそも俺が途中で投げ出してしまうかもしれない。
しかし、それ以外の道がほとんど塞がれている俺に撮って、その僅かな可能性にかける価値は十二分にあった。
幸いなことに、書くべき内容は全てこの古いノートにまとめられている。
これを元に、つまりは物語を作ればいいだけ。
タイトルは……そうだな、怜が気付きうるタイトルがいい。タイトルだけでも引っ掛かるようなもの。
だからといって、怜の本名はダメだ。
じゃあ、俺が怜を思い出した秘密売り場にしようか。
いや、違うな、これから作るものは、あくまで怜の話。秘密売り場だけでは少し足りない。
ならば、『秘密売り場の少女』にしよう。
そうと決め、俺は、スマホでメモ帳を開き、文字を打ち始める。
『俺は慎也。最上慎也。高校1年生。』




