第39話 神に寝取られた男
シリウス教に身をやつす妻を、忘れることにした。
変わり果てた彼女は、シアハにとって死んだようなものだった。だから、変わってしまった後の記憶だけ捨てて、一番幸せだったあの頃を宝物のように胸にしまっておこうと思った。
だが、忘却は一括りだった。次第に、幸せだった日々さえも薄れていった。生と死は表裏一体。死を忘れると言うことは、生すらも忘却するということ。人を愛するとは、人生そのものを愛するということ。
シアハにはそれができなかった。これは、そんな他愛のない話。
◇
シアハの矢を受け、ミラが仰向けに倒れる。そして、発動していた古今統一も止む。
「どうして……わたしだけがこんな目に……」
倒れたミラは譫言のような独白を呟き、てのひらを空へと伸ばしていた。そんな頼りのない姿に、シアハは気づく。その姿が、古今統一を喰らった中で見たある場面と一致していることに。
「そうか、お前はあのときの……」
シアハは過去にミラと会ったことがある。
数年前、野党を確保したときのことだ。その荷にミラがいた。そのときのミラは両親を殺された出来事の直後で、自らの人生に絶望していた。そして、今と同じように嘆き、泣いていた。
宛てのないミラは、事務的に孤児院へ預けられた。そして、数年を経て、ミラはこうして魔道に堕ちた。
シアハは考える。もしあのとき、ミラに手を差し伸べていればと。もはや痛覚もない身体と、うつらうつらとする思考で、シアハはそんなタラレバを浮かべる。
そのとき、古今統一を喰らって倒れていたアルカが起き上がる。アルカはまだ意識が定かではなく、ぼうっとしている。だが、手にはしっかりと刀が握られている。
アルカは、空に手を伸ばすミラへゆらゆらと近づく。本能的に、野性的に、獲物にとどめを刺すように――
アルカは、刀を薙ぐ。空に伸ばしたミラの手を断ち斬る。
「――いいよ……もう。全部…どうでもいい」
ミラはアルカから視線を逸らし、自ら首を差し出した。アルカは躊躇せず、その首を斬り払った。短い命だった。
ミラの死体は瞼を閉じていた。死してもなお、この醜い現実を見ようとしなかった。
ミラを殺したアルカは、糸が切れたように刀を落とし、崩れ落ちる。そのとき、ヘリクがゆらりと身を起こした。視界に入ったのは、倒れ伏すミラの姿。遂に決着がついたのかと、ヘリクは全身の力が抜けるように安堵の息を吐く。
同じように、シアハも大きく息を吐いた。しかし、安堵からではない。これからアルカとヒオリに待ち受ける運命を憂慮してのことだった。
「ヘリク……」
「? シアハさん、大丈夫ですか…?」
シアハのか細い声に、ヘリクは心配するように寄り添う。そして、シアハの身体に触れると、ぎょっとした表情を浮かべる。
「…シアハさん……」
「自分のことは……よくわかってる…。死ぬ覚悟は…ある…」
「そんな……!」
シアハには、ヘリクの表情から言わんとすることはわかっていた。シアハ自身も自分の体が恐ろしいほど冷たくなるのを感じていた。
「肩を…貸してくれ……アルカの、もとまで……」
シアハはヘリクの肩を借り、アルカのそばに座り込む。
「こんなこと、お前に言うべきじゃないだろうが…ヘリク。お前に、アルカとヒオリのことを頼みたい」
「それは、どういう……」
「……アルカとヒオリは今、ほとんど死んでいるに近い。些細なきっかけですぐに死んでしまうだろう。その脅威から二人を護ってほしい。今の…お前にしか、頼めないことなんだ……」
シアハは、ヘリクの服の胸の部分を力強く掴む。最後の力を振り絞るように。
「俺は…二人を死なせたくない……」
その言葉にヘリクの表情が変わる。そして、シアハの手をヘリクが握った。
「一つ、確認したいことがあります。彼女が話した、私の所業は全て真実ですか?」
「……ああ、本当のことだ」
死体のミラに視線を移したヘリクに、シアハは頷く。
「じゃあ、アルカさんの親を殺したというのも?」
「ああ…。アルカはずっと…葛藤していた。親の仇に手を下せないことに……。だけどあいつは……騎士としての道を選んだ」
シアハは薄れゆく意識に抗う。二人のことを託すまでは死ねない。
「そうですか…。私が本当にやるべきことが、見つかりました。二人のことは任せてください。私が絶対に守ります」
「……そうか…」
その言葉に、シアハは眠るように瞼を閉じる。これで心置きなく死ねる。
死後の世界はどうなっているのだろうか? しかし、きっと孤独な世界だろうと、シアハは確信していた。大切な人を忘却した人生、死後に持ち込めるものはきっと少ないだろう。
◇
シアハの死後、ヘリクはアルカを背に担ぎ、人の気配のするほうへ歩く。
空は曇天模様で、これからの未来が暗いものであるかのように指し示しているようだった。しかし、ヘリクは心に決めていた。
「たとえ死んでも――二人を守る」
それがシアハから託された願い。そして、ヘリク自身もまた、そうすべきと望んでいたのだった。




