第30話
町から戻ったアルカは、その日の報告書を読んでいた。そこには、ヘリクが徐々に記憶を取り戻す様子が書かれていた。あの日、ペストについて思い出したことがきっかけとなって、芋づる式に掘り起こされているだろう。
果たして――記憶を取り戻すことが、ヘリクの暴走を招くのか、それともヘリクが探す大切な人を探す手掛かりとなるのか。
ヘリクが記憶を取り戻すのが先か、毒が完成するのが先か。
アルカは一抹の不安を感じるが、このままなんの問題もなく、毒が完成するのが先であってくれと願うのだった。
◇
日付が変わり、その日の当番であるアルカとシアハは、隔離室に入る。ヘリクは妙に落ち着かないような雰囲気で、こんなことを訊いてきた。
「私は、過去にどんなことをしたんですか?」
明らかに、ヘリクの様子が変だ。まるで、気づいてはいけないことに気づいてしまったかのように、震えながら自らの身体を腕で抱え込んでいた。
「アルカさん、あなたは前に言ってくれましたよね? 私がここにいるのは、私の不死性を狙う者から守るためだと…! でもそれは本当なんですか? 私は守られているのではなく、閉じ込められているんじゃないですか!?」
ヘリクは語気を強め、アルカを睨みつけた。しかし、その瞳には若干の怯えもあった。
アルカはその目にある感情を知っている。無謀と思えても立ち向かおうとする、なけなしの勇気だ。
「本当のことを、教えて下さい……!」
何が、ヘリクをそうさせたのだろうか?
アルカは、ヘリクの目の前に立ち、無言でヘリクを眺めた。おそらく、またなにか自分の過去について思い出したのだろう。自分は保護の対象ではなく、隔離の対象なのだと、そう確信させるなにかを。
だが、ヘリクの過去を教えるわけにはいかない。
今はまだ、ヘリクに暴走の兆候は見られない。であれば、教える必要はないし、そもそも教えるべきではない。
アルカは、ヘリクの質問を適当にはぐらかそうと口を開く。
「僕は醜い存在なんです」
が、言葉を発しようとした瞬間、ヘリクの声が割って入る。ヘリクは縮こまるように俯いていた。
「思い出したことがあるんです。私の――育ての親について」
それから、ヘリクは自らの過去をぽつりぽつりと、話し始めた。アルカとシアハは、黙って聞くことにする。
「私の育ての親は、シリウス教の信者でした。当時、ペストは神の裁きだと考えられていて、彼女もそう考えていました。そんな折、彼女はペストで死んだはずの妊婦から自力で産まれ落ちた――私を見つけたんです」
「彼女は、私を真の救世主だと思い込みました。神の裁きを受けず、死から生まれ落ちた私は格別の存在だと、彼女はいつもそう言っていました。彼女は成長した私を連れ、私こそが真の救世主だと吹聴して回りました」
「ですが、片目と左腕が欠損している私は、到底受け入れられるものではありません。当たり前です。私はただの人間です。ですが、彼女は本当に私が真の救世主だと、そう信じ込んでいました。結局、彼女は周りから頭がオカシイと思われ、離れに追いやられてしまいました」
「私と彼女は、暑さも寒さも凌ぐことのできない、いつ崩れてもおかしくない小屋で暮らしました。そんな生活でしたから、彼女は病にかかり、どんどんと痩せ細っていきました。彼女はずっと嘆いていました」
「どうして誰も真の救世主を信じないのか。どうして真の救世主を育てた自分がこんな目に遭わなければならないのか。自分は真の救世主を育てた聖母として崇拝されるべきなのにと。結局、彼女の動機はそんな軽薄なものだったんです」
「ある日、彼女はのどが渇いたのか、水を求めてきました。ですが、川はずっと遠いところにありました。私は億劫で億劫で仕方がなかった。でもなんとか重い腰を上げて水を汲みに行き、彼女に水を渡そうとしました」
「でも、私はその水を彼女の眼の前に掲げるだけで、渡しませんでした。彼女にはもう、何の施しも与えたくなかった…。全ては自分が崇拝を受けるためだった。そんな貧弱な思考で私を育てた。それがどうしても許せなかった」
「だから私は水を与えなかった。彼女は一向に水を渡さない私に激昂して、飛びかかろうとしてきました。ですが、彼女にそんな余力もなく、床に倒れ、恨めしそうにこちらを見るだけでした」
「そのときの彼女は、こんなことをほざいていました。お前は真の救世主なんかじゃない、お前なんか育てるべきじゃなかったと。そうして彼女は死んでいきました。本当に、愚かな人でした」
「そして、私自身もまた愚かです。見殺しにした。朽ち果てる彼女の遺体を四六時中眺めても、心は何も動かなかった。あのときの私が一体何を考えていたのか、私自身にもわかりません。まるであのころと、今の私は別人のように感じるんです」
「お願いです、アルカさん。本当のことを教えて下さい。私は何をしたんですか!? この隔離されている状況も! この身体に宿る不死性も! どうして私にそれ以前の記憶がないのですか!?」
「私は…育ての親を見殺しにした罪深い人間なんです! きっと私はまた別の罪を犯したのではないのですか? だからこうして隔離されているんだ!」
ヘリクは自分の胸に手を当てながら、アルカの方へ歩み寄ってきた。アルカはつい一歩、後ろに下がってしまう。
「私の知らないところで、何があったんですか!? 私は一体どんなことをしたんですか!? 私はただ、自分のことを知りたいだけなんです!」
こう言うべきなんだろう。お前は何もしていないと。だが、アルカの口から言わせるのはあまりにも酷な話だった。当のアルカは、両肩に縋り付くヘリクを茫然と見下ろすことしかできなかった。
これまでヘリクと接してきているからわかる。彼に記憶がないことも、本当に罪悪感を抱いていることも。今のヘリクは善人に分類されるのだろう。もはや、生まれ変わったと言ってもいい。これまでの過去を忘れ、いい方向へ進もうとしている。
それを認識した今、アルカは自分がどんな顔をしているのか、わからなくなった。この任務に就いてから、アルカは自分が今までどうやって生きてきたのか、ふとわからなくなるときがあった。歩き方、笑い方、それまで体が覚えて自然に行っていた動作すら、記憶から抜け落ちそうになる瞬間があった。
ヘリクが記憶喪失になるという事態を、アルカはまだ完全には納得できていない。悲鳴を上げ続ける感情を置いてけぼりにして、アルカはとにかく進んできた。だから、張り詰めた糸はとうとう限界を迎えた。
アルカの心は、本能的に現実逃避を選んだ。端的に表すなら、忘却。アルカはそれまでの過去を忘れ、無関心でいることを選択した。過去の出来事そのものは覚えている。だがそこにあった感情を忘れることにした。まるで、新聞に羅列された一つのトピックのように、アルカにとってそれは世間話の一つに成り下がった。
「いや、お前は何もしていない」
「……アルカ…?」
平然とした声だった。その平淡さにシアハが心配する声を掛けてくるが、アルカは気にも留めない。
心は、玻璃の向こうに。
ひたすら、冷淡に。
無関心を着こなす。
アルカは、考えるのをやめた。そうすれば、進めてしまえることを覚えてしまった。




