第25話 ミラ
世闇の中、アルカはひっそりと息を潜め、路地裏の地べたに座っていた。正確な時間はわからないが、もう日付は跨いでいるだろう。アルカは浅い睡眠を繰り返し、船を漕ぐ。
そのとき、アルカがいる路地裏の奥から人の足音が聞こえた。アルカはそこへ視線を移し、警戒する。ぺたぺたと、小さな足音が響く。こんな真夜中に一体誰だと思うが、闇から現れたのは一人の少女だった。
「そこで何してるんですか? 風邪、引いちゃいますよ」
少女に話しかけられる。新月で曇り空のため、月明かりに乏しく、少女の容姿はあまり見えない。だが、すぐにわかったことがあった。
「君こそ、なんで服を着ていないんだ?」
少女は全裸だった。そして、全身ずぶ濡れになっており、髪からは水滴が滴り落ちている。風邪を引く心配をしなければならないのは、明らかに少女のほうだ。
「大丈夫です、慣れてますから」
そう言って、少女はアルカの前を通り過ぎて、どこかへ行こうとする。
「ま、待てって」
アルカは少女の背に声をかける。少女はどうしたのか? と言った様子でこちらに振り向く。
「そっちのほうが心配だ。これ、使ってくれ。あげるから」
と、アルカは持っていた羽織を少女に渡す。
「………」
少女は渡した羽織を受け取るが、アルカの意図がわからないようにそれを眺めていた。
「これを…わたしに?」
「君以外に誰がいるんだ?」
少女は信じられないように、こちらを見つめてきた。そして、少しだけ時間を置いて、アルカにありがとうございますと言い、少女は羽織を肩に掛ける。
「お兄さんは、なんでここにいるんですか? 見たところ、孤児とかじゃなさそうですし。お家に帰らないんですか?」
何を思ったのか、少女はアルカの横に座ってきた。そして、アルカの服の裾を掴み、隣に座らされる。
「あ、わたしの名前、まだ言ってなかったですね。ミラです」
「…ああ。俺は…アルカ」
少女は今、薄皮一枚の衣服しか着ていないのに、それでもアルカのほうに密着してくる。そこからじわじわと人肌の温もりが伝わってくる。だが、今日は冷えるため、その温もりは僅かばかりだった。人肌で暖を取ろうとしているのか、とアルカは思い、少女の好きなようにさせる。
こんな夜更けに一切の服もなく、歩いていたことを考えると、何か事情があるのだろうと。人に頼れない状況にあるのだろうと。そんなことを考える。
「それで、さっきの質問なんですけど、なんでお家に帰らないんですか? 帰るお家があるなら、帰ったほうがいいですよ」
「それは…」
アルカは理由をうまく言語化できなかった。ただ、あそこへ戻りたくなかった。それだけなのだから。
「色々、事情がありそうですね」
「……」
「なら、何があったのかだけでも話してください。人に話せば、どうしたいのかが見えてきたりするんですよ」
そういうものなのかと思い、アルカは自分のことを話した。
親を殺されたこと。その仇が記憶喪失になったこと。そして、仇と一時的に協力しなければならないこと。もちろん、人物名はぼかして、隣に座るミラに打ち明けた。
「なるほど。それは難しい状況ですね」
そう言って、ミラはさらに寄りかかって来る。
「ミラだったら、どうする?」
アルカは、不思議な少女――ミラがその状況にどう立ち向かうのか、興味があった。
「自分の声に従います」
「自分の声?」
「ええ。自分がそのときどう思ったのか、どうしたいのか、それに従うのが最も正しい道です。自分が報われる――いえ、自分を救い出すには自分しかいないのですから」
ミラはそう断言する。
「でも、その選択のせいで仲間に迷惑がかかったりするんじゃないのか?」
「はい、もちろんです。そして、その逆もありますよね。まさに今のお兄さんのように。お兄さんの意見は蔑ろにされ、そのまま物語が進行しようとしている。あなたの人生の主人公は誰ですか?」
ミラと目が合う。まるで心の奥底を覗き込まれているようだった。
「もちろんお兄さん自身です。さあ――主人公のお兄さんは、望みを叶えるため邁進しています。でも、別の人生を歩む主人公があなたの望みを邪魔して来ます! そうしてあなたは蹴落とされ、勝者だけが望みを叶えます」
ミラは両手の人差し指と中指をてくてくと並んで歩かせる。その二つが向かう方向は同じだったが、片方の腕が、もう片方を蹴落とした。
「人生は目的を達成することの積み重ねです。大金持ちになりたいという大きな目的から、饐えた食事にありつけるだけでいいという小さな目的まで」
「大きな目的は必ず誰かと衝突してしまいます。別の主人公との蹴落とし合いは避けられません。しかし、小さな目的は誰かと衝突することはほとんどなく、平穏とも言えるでしょう」
「ですが、お兄さんは大きな目的を選びました。仇を殺すという目的を。衝突は免れません。勝者と敗者、その線引きはもう始まっているのです。――お兄さん。お兄さんは今、どうしたいんですか? あなたの声を、聞かせてください」
両の頬に、ミラの手が添えられる。優しい抱擁のように思えたが、逃げられないという恐ろしさも同居しているようだった。
「お……俺は…あいつが記憶喪失になっても、罪が消えるなんて思ってない。だから、許せないんだ」
「ええ。そんなお兄さんの、心の声を聞きたいんです」
アルカはミラから目を逸らそうとする。だが、ミラはさらに顔を近づけてきた。
「俺は――――」
アルカの脳裏に、自分の思うままにヘリクに刀を振るう光景が浮かんだ。殺されたシュドーの分を、これまで殺された人たちの分を。そして、アルカ自身の怒りを込め、理由もなくヘリクを拷問にかける。そして、そこから得た肉片で、毒を調合し、ついに殺す。そういうストーリーが。
「見えて来たんじゃないですか? お兄さんの理想が…」
ミラはアルカの足の上に跨り、腰を下ろす。そして、首に腕を回され、幼い顔がさらに近づく。
そのとき、アルカはヒオリの顔を思い浮かべた。
「!」
「お兄さん?」
アルカは、ミラの肩を掴み、引き剥がす。
「そう――お兄さんは自分を偽るんだね」
そう言って、ミラは立ち上がり、アルカから離れる。――と思ったらいきなり、首筋あたりに接近してくる。そして、くんくんと匂いを嗅いできた。
「お兄さん、いい匂いするのにな…。でも覚えておくね。アルカ……アルカ…アルカ。うん、忘れない。またね」
そう言って、ミラは路地裏の奥へと歩き、夜闇へ溶けてゆく。
「……」
アルカは再び、俯いて地面を眺める。
ヘリクへ刀を振るう、自分の理想を想ったとき、振り返ると仲間たちの死体があった。そこにはヒオリの姿も。
自分の願いに忠実になった代償に、仲間が犠牲になる。ヘリクが記憶を取り戻してしまい、仲間を死なせる。そんなもしもを考えたとき、アルカは酷い喪失感を味わった。
それはなぜか? アルカは結論の出ない問いを考え続けるが、やがて瞼が重くなり、そのまま眠りにつくのだった。
◇
誰もが寝静まった深夜。シリウス教の教会堂近くにある司祭館。そこには、教会に属する司祭が生活している。
「自分の心に正直に、心の声に寄り添う」
しかし、そこには司祭ではなく、先ほどアルカと別れたミラの姿があった。
ミラは、司祭の首を書斎の机の上に置いた。首の断面からは血が流れ出し、机の上に置いてある書類を真っ赤に染め上げる。
そして、ミラの小さな手には不釣り合いなほど大きな鎌が握られている。
「この地にあなたが降臨される日を、心待ちにしております。《《ヘリク様》》」
ミラはそう言い、司祭館を後にする。そして、司祭館は一人でに崩れ、倒壊する。
「お兄さんの、汚れちゃった」
通りを歩き、街灯に照らされたミラは、アルカから貰った羽織に血がついていることに気づく。ミラは川へと向かい、その羽織を洗う。
「お兄さんならわかってくれるよね。なによりも、自分の願いを叶えることの大切さが」
ミラは、かじかんで赤く腫れる指先も気にせず、汚れを落とすことに専念する。日常の中にあった、ふとした嬉しさ。それを何度も、愛おしむように。




