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第8話成層圏の曼荼羅


 「……行ってくるぜ、食いしん坊の王様」

 黄金色一面に染まった廃墟の底で、俺は独りごちた。

 シュバルツが最期に遺した、あの胃もたれするほどに熱い激励。それは今、俺の胸中に「満腹」という名の、何物にも代えがたい「重り」となって鎮座している。

 かつてあの摩天楼で、ワイスの無機質な一瞥いちべつと共に放り出された、あの奈落の底。

 俺は今、その重力をマッハ350の初速で踏みつけ、一筋の黄金の光となって「天」へと逆流を始めていた。

 「……ソラタ。……待ってる。あたしの、ヒーロー」

 遥か階下かいかから、フランの細い、しかし岩をも貫くような切実な祈りが届いた気がした。

 彼女は今、泥にまみれた膝を突き、消えゆく俺の残光を、ただひたすらに見上げている。その祈りは、漱石が描く、自己を殺して神仏にすがる者の如き純粋な熱を持って、俺の背中を成層圏の果てへと押し上げていく。

 ……風を切り、雲を裂き、俺は再びその場所に辿り着いた。

 そこには、万物の流転るてんさえも凍りつかせるような、圧倒的な「静止」が鎮座していた。

 ワイス――秩序の権化たるその存在は、幾何学的な法陣の結節点に、漱石が描く非人情な彫像の如く端然たんぜんと浮遊している。

 その双眸そうぼうには、怒りも、驚きも、ましてや慈悲の一滴さえも宿っていない。ただ、宇宙のバグを修正する冷徹な数式のように、無機質な光をたたえて俺を見下ろしている。

 「不浄な熱だ、猿よ。その執着こそが、私の編み上げた曼荼羅を乱す毒なのだ」

 ワイスの声は、空気を震わせることなく、直接俺の脳髄を氷の針で刺すように響いた。

 この神殿の主にとって、俺の抱える「日常の記憶」は、美しい秩序を汚す単なるノイズに過ぎない。

 だが、俺の胸の中には、シュバルツの飢餓を救った「飽食の熱」が渦巻いている。

 俺は今、母ちゃんの台所の「ぬるま湯」と、シュバルツの「孤独な飢え」を両肩に背負い、一人の「息子」としてここに立っていた。

 「ワイス。……待たせたな。……お前の曼荼羅、俺の『三種の神器』で、完食してやるよ」

(フラン視点)

地上では、フランが泥の中に両膝を突き、その身を灼くような熱に浮かされていた。

 彼女が胸中で燃やしているのは、恋い慕う男を案ずる女の情念でもなければ、ただ救世主の奇跡を乞う巫女の信心でもなかった。

 それは、もっと無邪気で、もっと残酷なまでに清らかな、子供の憧憬しょうけいであった。

 かつて空太や、今この刹那を共にする「読者」たちが、すすけたテレビ画面の向こう側で絶体絶命の危機に陥ったヒーローを、喉を枯らして応援した、あの「絶対の確信」。理屈も損得もなく、ただ「勝ってほしい」と叫ぶ心の震え。

 漱石が描く、童心の奥底に眠る一点の曇りもない真実が、フランの小さな身体を突き動かし、成層圏へと続く唯一の絆となっていた。

 「……負けないで、ヒーロー」

 彼女の唇から漏れたその呟きが、泥にまみれた地表を叩いた刹那、世界は物理法則を置き去りにした。

 フランの細い身体を起点として、地底から湧き上がるような咆哮と共に、一筋の「青白い光」が天空へと射出された。

 それは台所において、空太を奈落へと引き摺り下ろしたあの残酷な「召喚」の光とは、似て非なるもの。

 かつて「読者」たちがテレビの前で握り締めた拳の数ほどに熱く、漱石が描く「真の至誠」の如く一点の迷いもない。その光の柱は、マッハ350の初速で重力を嘲笑い、暗澹たる成層圏を一閃した。

 パキリ、と――。

 氷の薄膜を叩き割るような乾いた音が、静寂を切り裂いた。

 天を覆っていたワイスの無機質な曼荼羅、その完璧すぎる秩序の幾何学に、地上から放たれた「子供の憧憬」という名のくさびが突き刺さる。

 中心から走る、無数の亀裂。

 冷徹な銀灰色の法陣が、フランの祈りの熱に耐えかねて、ガラス細工のように無惨に、しかし神々しく剥落はくらくし始めた。

 そのひび割れた「偽物の空」の向こう側で、太陽の中心に立つ空太の影が、青白い光の熱量を孕んで膨張していくのを、彼女は眩しそうに見つめていた。

(空太視点)

パキリ、と――。

 頭上の曼荼羅が割れた。地上から射出されたフランの青白い祈りが、ワイスの編み上げた「冷徹な正解」を物理的に粉砕したのだ

 冷たくも煌々⦅こうこう⦆たる星の海。一切合切を置き去りにして、今、1柱⦅はしら⦆の神と、一人の勇者が、宇宙の深淵⦅しんえん⦆にて真っ向から激突する。

 かつて、この異界へ堕とされたあの日、俺はこの幾何学の檻に閉じ込められ、ただ無力に、漱石が描く「運命に弄ばれる哀れな迷い子」として奈落へ突き落とされた。あの時のワイスの眼差しは、顕微鏡で塵を眺めるような、徹底した無関心であった。

 だが、今は違う。

 俺を取り囲む法陣は、奈落の底へと引き摺り下ろされた時と同じように鋭利な秩序を剥き出しにしているが、今の俺にはそれを「不浄なノイズ」と切り捨てる神の理屈が通用しない。

 俺の心臓《喞筒》が送り出すのは、もはや俺一人のための熱ではなかった。

 泥を啜りながら「人間」であることを思い出した洞窟の人々。

 最後に「満腹」を知って笑った、孤独な王シュバルツ。

 そして、今も地上でテレビの向こうのヒーローを信じる子供のように叫んでいるフラン。

 俺の背負っているものは、ワイス、お前が切り捨てた「汚れ」や「無駄」の集積だ。だが、その汚れこそが、母ちゃんの台所で爆ぜるノドグロの脂のように、この世界で最も尊く、最も熱い「真実」なんだよ!

 「ワイス……お前が編み損ねたこの『余白』で、俺は「太陽」になってやる」

 台所の蛇口から零れた、あの頼りない「泡」のようだった俺はもういない。

 俺の右腕より放たれる、マッハ350、百キロメートルの「陽光サンビーム」は、冷徹なる星空の深淵へ、空前絶後の熱を齎⦅もたら⦆す。俺とワイスを八百万⦅やおよろず⦆の光となって包囲し、湾曲しつつ膨張する青白き輝きを中心点として、万物をも焦がさんとする膨大なる情熱が、今、全宇宙へと解き放たれたのである。

 マッハ350の熱狂⦅ねっきょう⦆は、最早⦅もはや⦆物質の理⦅ことわり⦆を焼き切り、空太とワイスを隔てていた一切の虚飾を灰燼⦅かいじん⦆に帰せしめた。

 ワイスが矜持⦅きょうじ⦆として纏⦅まと⦆っていた、あの不可侵なる「拒絶の衣」は、太陽の如き猛威の前に見る影もなく溶け落ち、同時に、空太を「息子」として繋ぎ止めていた卑俗なる衣類もまた、青白き炎の中に霧散した。

 露⦅あらわ⦆になったのは、鍛え上げられた肉体ではない。

 皮膜⦅ひまく⦆の奥に隠された、剥き出しの「心」である。

 俺は見た。ワイスという冷徹な幾何学の深淵に、凍てついたまま震えている孤独な魂を。

 ワイスもまた見たであろう。俺の胸の内に渦巻く、皿を割り、脂を拭⦅ぬぐ⦆えぬ自分を恥じながらも、なお誰かを温めたいと願う、救い難き「人情」の奔流⦅ほんりゅう⦆を。

 「……これが、お前の『心』か。……冷てぇな、ワイス。だが、もう一人で凍える必要はねぇ」

 成層圏をも超えたの静寂⦅しじま⦆の中、裸体のまま対峙⦅たいじ⦆する二人の間に、言葉はもはや不要であった。

 熱が心を溶かし、心が熱を導く。

 八百万の光に包まれた中心点にて、俺の「いばしょ」を求める熱量は、ワイスの「きょぜつ」の綻⦅ほこ⦆びから、その凍土⦅しょうど⦆の如き芯へと、音もなく浸透していったのである。

 何⦅なに⦆も纏⦅まと⦆わぬ、剥⦅むき⦆き出しの肉体。

 青白き光のみが遍⦅あまね⦆く世界を支配する、静寂⦅しじま⦆のひととき。

 その刹那⦅せつな⦆、不意にワイスの声が、俺の耳朶⦅じだ⦆を打った。

 「……猿。いや、熱き「火」を胸に宿す者よ。それでこそ、人間だ」

 その言⦅ことば⦆は、冷徹なる秩序の彼方より届いた、初めての「肯定」であった。俺は、自らの内に脈打つ喞筒⦅ポンプ⦆の音を聴きながら、静かに、しかし確かな響きを以て、これに応⦅こた⦆えた。

 「お前こそ、幾億星霜⦅いくおくせいそう⦆の深淵⦅しんえん⦆に、秘めたる熱⦅ひ⦆を隠し持っているじゃないか」

 そこには、言⦅ことば⦆という矮小⦅わいしょう⦆な器には到底⦅とうてい⦆盛り切れぬ、魂の深き交わりがあった。

 神と人、冷徹と情熱――その隔たりを焼き切り、俺とワイスは、今、成層圏⦅せいそうけん⦆に何もかもを捨てた孤独な星空の下で、互いの「心」という名の真実に、掌⦅てのひら⦆を重ねたのである。

 その刹那、俺の胸裏⦅きょうり⦆を過⦅よぎ⦆ったのは、もう戻れない母の待つ「台所」の、あの救いようのないほどに生々⦅なまなま⦆しい湯気の記憶であった。言⦅ことば⦆にならぬ情念が泥の如く駆け巡り、俺の心に「未練」という名の暗き灯⦅ともしび⦆を点⦅とも⦆そうとする。

 だが、それと同時に、この異世界の荒野に投げ出され、一介⦅いっかい⦆の人間として、マッハ350の純粋なる全力を以て戦い抜けたことへの、深き感謝の念が湧き上がった。その光は、暗き灯を忽⦅たちま⦆ちに飲み込み、俺の魂を隅々まで白銀⦅はくぎん⦆の如き充足で満たしてゆく。

 「……ああ、満腹」

 ワイスの耳にも届かぬほど、微⦅かす⦆かな呟きが唇より溢れ落ちた。

 それは、空腹なる王シュバルツが最後に得た安らぎと同じ、一切の葛藤⦅かっとう⦆を脱ぎ捨てた者の、真実の響きであった。俺は、もはや「迷い子」ではない。

 万象⦅ばんしょう⦆を照らす「星の軌跡」となる準備は、ここに整ったのである。

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