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第7話飽食の救済


 洞窟を出た俺を待っていたのは、街と呼ぶことさえ躊躇ためらわれる、無惨なむくろの集積であった。

 かつては人々の営みがあった形跡は、ワイスの曼荼羅に削り取られ、シュバルツの飢餓に食い荒らされ、今はただ、泥に沈んだ瓦礫の山として横たわっている。

  俺は、心臓という名の熱き喞筒ポンプが、刻一刻と全身に烈火を送り込むのを感じながら、満身創痍の体を引き摺り、この「残飯の街」を彷徨ほうこうした。

 一歩踏み出すたびに、右腕のオレンジ色の残り火が、チリ、チリと爆ぜては消える。

 漱石が描く、死地へ向かう軍人の如き峻烈しゅんれつな静寂を纏い、俺の視線はただ一点――街の最奥、黒い霧が渦巻く「飢えの本源」だけを見据えていた。

 「……ソラタ。……いかないで」

 背後でフランの細い声が震えたが、俺は振り返らなかった。

 今の俺の肺を満たしているのは、もはや恐怖ではない。

 洞窟で語った、あの「三種の神器」の熱い湯気。

 母ちゃんが焼いた、脂の乗ったノドグロの爆ぜる音。

 それらを汚物のように踏みにじったこの世界への、静かな、しかしマッハ350の初速を秘めた怒りであった。

 瓦礫を越え、崩れた壁を抜け、俺はついに「それ」と対峙した。

 黒く蠢く波の王。

 ブカブカの衣を揺らし、虚空を喰らい続ける孤独な支配者、シュバルツ。

 「……待たせたな、飢えた王様」

 俺は、震える手で最後の一本の煙草……キッシュの遺品に火を点ける真似をした。

 煙は出ない。だが、俺の魂からは、かつてないほどに純度の高い、黄金色の陽光サンビームが溢れ出そうとしていた。

 「最高に美味うめぇ一撃を、持ってきてやったぜ。……さあ、腹一杯、食わせてやるよ」

 「……熱、だ。……その熱を、俺に、くれ……ッ!!」

 シュバルツの絶叫が引き金となった。地平の果てまでを埋め尽くしていた億のバッタが、一斉に羽を震わせ、空を黒い死の色で塗り潰す。それは巨大な津波となって、俺という小さな「点」を圧し潰さんと迫り来る。

 だが、俺の心臓《喞筒》は、もはや恐怖で脈打ってはいない。

 そこにあるのは、炊き立ての白米の湯気と、滴るノドグロの黄金の脂――。

 漱石が描く、春の陽光に酔いしれる隠居人の如き、至福に満ちた静かな「確信」であった。

 「……腹一杯、食えと言ったはずだぜ。シュバルツ」

 俺が右腕を突き出した刹那、世界は「音」を失った。

 放たれたのは、直径数百メートル、射程百キロメートルに及ぶ、純度100パーセントの黄金の熱線サンビームである。

 それは破壊の光ではない。あまりに濃密な「栄養」と「多幸感」を物質化した、魂の飽食。

 シュバルツが放った億のバッタの群れは、その光に触れた瞬間に爆ぜることも、塵になることも許されなかった。黄金の奔流に呑み込まれた端から、一匹残らず「光の粒子」へと昇華し、空を埋め尽くす黒い染みを、瞬く間に一点の曇りもない青穹へと描き変えていく。

 百キロメートル先まで一直線に伸びるその光の柱は、ワイスが編んだ歪な曼荼羅の空さえも焼き切り、そこには漱石が愛した「本当の空」が、呆気ないほどに顔を覗かせていた。

 「……あ、あ、……温かい……」

 黒い衣を脱ぎ捨て、光の渦の中心に佇むシュバルツが、初めて人間らしい涙を零した。

 俺の放った「最強の飯の記憶」は、彼が数千年抱え続けた「孤独な飢え」を、マッハ350の速度で完膚なきまでに満たし尽くしたのである。

(シュバルツ視点)

視界のすべてが、完膚なきまでに「黄金色」に塗り潰されていた。

 それは暴力的な閃光ではない。漱石が描く初夏の昼下がり、縁側に差し込む陽光のような、どこまでも穏やかで、人を芯から腑抜けにする「豊饒の黄金」であった。

 (……ちっ、……脂っこい一撃だ)

 シュバルツは、光の渦の中で、己の輪郭が溶けていくのを感じながら独白した。

 数千年の時をかけても満たせなかった「虚無の胃袋」が、今、たった一人の小僧が放った「日常の残滓」によって、破裂しそうなほどの充足感に満たされている。

 「……おい、空太。……お前の母ちゃんは、……毒殺でも企んでいるのか? こんな……胸が焼けるような熱を、……毎日、喉に流し込んでいたというのか……」

 黒い衣を脱ぎ捨て、光に透けたシュバルツの顔には、初めて皮肉な、しかし晴れやかな笑みが浮かんでいた。億のバッタが黄金の粒子となって舞い散る中、彼は震える指先で、自分の腹をさすってみせる。

 「……くそ、……苦しいほどだ。……もう一口も、……絶望など入りやしない」

 彼は、光の彼方に立つ空太を、その濁りの消えたまなこで見据えた。

 「……満足して、消えてやる。……だが、小僧。……お前のその『熱』は、この地上の残飯どもを温めるには、……少々、過ぎた火力のようだ。……ワイスの曼荼羅を、……その下らないパズルを……。お前の、……その胃もたれするほどの『愛』で、……粉々に、……ぶち抜いてこい……」

 シュバルツの姿が、最後の一粒の黄金の脂となって、空に溶けた。

 残されたのは、ただ悲しいほどに美しい黄金色の残光と、空太の胸を焼く、奇妙なほどに清々しい重圧だけだった。

 孤独な王は、最後に「満腹」という名の武器を空太に託し、この世界から、あまりに綺麗に「御馳走様」を告げて去ったのである

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