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第6話洞窟の聖域


 キッシュが消えた。

 この世に始めから「キッシュ」という名の肉体など存在しなかったかのように、大気は清冽せいれつに澄み渡り、異郷の小風こかぜがただむなしく吹き抜けていた。

 俺の右腕には、まだオレンジ色の残り火がくすぶっている。だが、その熱は、俺を叱り飛ばしてくれたあの老兵の鼓動を何一つ呼び戻してはくれなかった。

 俺は、立ち尽くしていた。

 思考は霧に巻かれ、マッハ350を誇った足は、今や一寸いっすん先へ踏み出すすべさえ忘れたかのようであった。漱石が描く、自己の存在を支えるくいを抜かれた男の如く、俺はただ、透明な絶望の中に直立不動のまま固まっていた。

 「……ぁ、……ソラタ」

 その時、死にゆく蝶の羽ばたきにも似た、かすかな感触が俺の袖を引いた。

 振り返れば、そこには泥と涙にまみれたフランがいた。彼女の瞳もまた、祖父を失った暗いふちたたえてはいたが、その奥には、生きようとする動物的な、切実な光が宿っていた。

 彼女は何も言わず、ただ迷子のように俺の焦げた袖を掴み、一歩、また一歩と、重い泥を刻むようにして歩き出した。

 俺は、引かれるままに歩を進めた。

 自分の意志で歩いているのではない。ただ、彼女の手首に繋がる細い糸に、命の残滓ざんしを引き摺られているに過ぎない。

 やがて、一本道の断崖に、大蛇おろちが口をいたような「洞窟」の闇が姿を現した。

 「……あっち。……あそこに、あなが、あるの」

 彼女に導かれるまま、俺たちは陽光の届かぬ深淵へと足を踏み入れた。

 そこには、ワイスの曼荼羅からも、シュバルツの飢餓からも、そして「人間」という名誉からも見捨てられた、影のような群衆がうずくまっていた。

 湿った土の匂いと、生気のない吐息。

 俺は、そのよどんだ空気の中に、自分自身の「孤独」が静かに沈殿していくのを感じていた。

 「……どうしてだ。どうして、もっと人間らしく生きようとしねぇんだよ」

 俺の絞り出した問いは、洞窟の湿った闇に虚しく響いた。

 母ちゃんの台所、沸き立つ湯気、叱り飛ばす声。俺が「日常」と呼ぶ眩しい記憶に比べれば、この泥を啜る光景はあまりに無惨であった。

 だが、おさは動じない。ただ、濁った眼窩がんかの奥で、哀れな迷い子を見るような薄ら寒い笑みを浮かべた。

 「……小僧。お前さんの言う『人間らしさ』……すなわち文明という名の知恵こそが、この世界では死を招く毒なのだよ」

 老人は、震える手で泥を口に運び、咀嚼そしゃくする音さえ立てずに続けた。

 「天上のワイス様は、知恵を持ち、衣をまとう『猿』を最も嫌悪なさる。だが、我々のように言葉を捨て、泥にまみれた『動物』にまで成り下がれば、あの方の苛烈な審判の範疇はんちゅうからは外れるのだ。視界の隅に映る、ただの土塊つちくれとしてな」

 「……っ、そんな理屈で、こんな地獄を肯定するのかよ」

 「理屈ではない。これは、唯一の『正解』なのだ。……そして、あの飢えた王、シュバルツ様も同じよ。あの方は人間の文明が放つ『熱』に焦がれ、その温もりを根こそぎ破壊して回る。だが、この洞窟で無為に、ただ死を待つように生きる我々は、あの方にとって熱を持たぬ『残飯』に過ぎぬ。……食う価値もない塵芥ちりあくたであればこそ、我々はこの暗闇の中でだけは、誰にも襲われずに済むのだ」

 老人の言葉には、漱石が描く、自己を殺して世に妥協する者の如き、底知れぬ空虚が宿っていた。

 彼らは「猿」から「動物」へ、そして「人間」から「残飯」へと、マッハ350の速度で自らを切り捨ててきたのだ。

 学習性無力感――。

 絶望という名の揺りかごに揺られ、もはや「変えたい」と願うことさえ忘れたその姿は、俺が18年間見てきたビデオの砂嵐よりも、遥かに深い虚無をたたえていた。

 「……これでいいのだ。ずっと、こうしていれば、痛みも、恐怖もない。……小僧、お前さんも、早くその『人間』という重荷を捨てちまいな」

 俺の心臓は、怒りよりも先に、氷のくさびを打ち込まれたように冷え切った。

 「……わしらはもう、これで良いんじゃ。この暗闇こそが、我々に許された終着点なのだよ」

 長の枯れた声が、墓石を撫でる風のように洞窟を這った。周囲の「残飯」と呼ばれた影たちも、一様に顎を落とし、無為な静寂へと沈んでいく。

 だが、その停滞した空気を、俺の右腕から溢れ出したオレンジ色の火花が真っ向から焼き切った。

 「……ふざけんじゃねぇ!!」

 俺の絶叫は、洞窟の隅々にまで反響し、数千の影を戦慄させた。俺は立ち上がり、泥にまみれた右手を高く掲げ、この地獄の底で初めて「個」としての重みを大気に刻みつけた。

 「いいか、全員よく聞け! 俺は『残飯』じゃねぇ! ましてやワイスに飼われる『猿』でもねぇ! 俺の名は空太ソラタだ! ……山陰の小さな台所で、母ちゃんの小言を食らって、皿を割って生きてきた、ただの人間だ!」

 影たちが、初めて「恐怖」ではない「驚愕」の眼差しを俺に向けた。俺は構わず、彼らが忘却し、シュバルツが焦がれ、ワイスが切り捨てた「真実の熱」を言葉の弾丸として放ち続けた。

 「俺のいた場所にはな、三つの神器じんぎがあったんだ! 

 一つ、炊きたての真っ白な米だ。それは雪よりも清らかで、噛みしめるたびに命の甘みが喉を焼く!

 二つ、母ちゃんが焼いたノドグロだ。滴り落ちる脂の一滴一滴に、海の怒涛と太陽の熱が詰まってやがる! 皮はパリッと、身は驚くほどにふっくらとしていて、その熱い脂を白米に染み込ませて食うのが、この世で一番の『至福』なんだよ!

 そして三つ、出汁の効いた味噌汁だ! それは冷え切った内臓を隅々まで解きほぐし、『ああ、生きてて良かった』と魂に教え込む、ぬるま湯よりも温かい救済なんだよ!」

 俺の声は、マッハ350の初速で、洞窟の住人たちの「学習性無力感」という分厚い岩戸をぶち抜いた。

 「俺はそれを、腹一杯食ってから死ぬ! 泥なんかじゃねぇ、熱い飯を囲む食卓……それこそが俺の、そして人間の『日常』なんだ!」

 静まり返った洞窟の中で、誰かの喉が「ゴクリ」と鳴る音が聞こえた。

 それは、退化した動物が、再び「飢え」という名の人間性を思い出した瞬間であった。

 漱石が描く、長い眠りから覚めた病人の如き瑞々《みずみず》しい憧憬どうけいが、闇の中に一筋の光として走り抜けた。

 「……ソラタ。……ソラタ、さま」

 誰かが呟いたその名は、やがて洞窟の壁を越え、時を超え、永遠に語り継がれる「伝説サーガ」の第一章となった。

 俺はこの時、まだ知らなかった。

 この「台所の話」をしたことが、俺自身が夜空に輝く星になるための、最後にして最大の条件であったことを。

 「……三種の神器、か」

 俺の咆哮が止んだ後、洞窟を支配したのは、耳が痛くなるほどの静寂であった。

 だが、それは先刻さっきまでの死を待つ「残飯」たちの停滞ではない。

 暗闇の中に、火打ち石で火を灯した直後のような、瑞々《みずみず》しくも危うい、生命のざわめきが満ちていた。

 影の一人が、震える手で自分の腹をさすった。

 別の誰かが、泥にまみれた顔を上げ、今は見えぬ「天上の白米」を夢想するように目を細めた。

 彼らは「猿」でも「残飯」でもなく、ただの「飢えた人間」へと、マッハ350の速度で先祖返りを果たしたのである。

 「……行くぞ、フラン」

 俺は彼女の手を引き、再び歩き出した。

 出口の向こうには、俺たちの熱を喰らおうと待ち構えるシュバルツと、冷徹な曼荼羅を編み続けるワイスが居座っている。

 だが、今の俺の胸中には、母ちゃんが焼いたノドグロの脂よりも熱い、得体の知れない「使命」が宿っていた。

 俺は、星になる。

 この暗闇の中に、二度と消えない「食卓の灯」を遺すために。

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