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第5話蠢く群衆


 空太の放った陽光サンビーム)が、奈落の闇に鮮烈なオレンジの残像を刻みつけた、その直後だった。

 地平の彼方、ワイスの曼荼羅さえも塗り潰すような、不浄なる「黒」の津波が押し寄せた。

 ザザ、ザザザ、ザザ――。

 それは、数億の羽音が生み出す、呪われた鎮魂歌⦅レクイエム⦆。

 「……群衆だ。黒い、バッタの群衆が来るぞ」

 ナッシュが、苦虫を噛み潰したような顔で、腰の剣を抜き放った。

 蠢く黒い波の頂点。そこに、ただ一人。

 虚空を睨み、何もかもを食らい尽くそうとする「飢餓の王」が、死んだ魚のような瞳でこちらを見下ろしていた。

 だが、その「王」の実像を網膜が捉えた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 黒い津波の頂⦅いただき⦆に立つのは、俺の腰の高さほども無い、十歳⦅とお⦆に満たぬわらしであった。

 その身にまとうた豪華な礼服は、主⦅あるじ⦆の肉体を拒絶するかのように不釣り合いに大きく、細い肩からはずるりと滑り落ち、裾は無惨に泥を噛んでいる。まるで、死んだ巨人の衣を着せられた操り人形の如き、そのあまりの「幼さ」と、それを覆い隠す「虚飾」の重圧。

 王冠にさえ見捨てられたような乱れた髪の下で、彼が一つ、喉を鳴らす。

 「……はら、へった」

 そのかすれた幼声おさなごえが響くたび、背後の黒い群衆が、呼応するように呪われた翅⦅はね⦆を震わせた。

 「……あれは、俺が捨てた、俺の過去の『群衆』だ」

 不意に、ナッシュが重い口を開いた。その声は、冬の枯れ野を渡る風の如くに乾き、聞き手の胸の奥底へ、鉛のようなよどみを沈めていく。

 彼は剣を握る指を白く震わせ、地平を埋め尽くす黒い奔流⦅ほんりゅう⦆――かつて自分が慈しみ、そして絶望と共に切り捨てたはずの「愛」の残骸を、幽霊でも見るかのような眼差しで射抜いていた。

 「……名も無き王の孤独が、あのような異形の『数』を呼んだ。あれは俺の罪そのものだ。……小僧、お前には分かるまい。一国の重みを捨てた男の、その背後に残った屍⦅しかばね⦆の冷たさなど」

 ナッシュの告白は、暗澹あんたんたる空間を滴る一滴の劇薬の如く、俺の耳にとおった。

 だが、俺は、その重圧に満ちた過去の残光を撥⦅は⦆ね退けるように、ただ一人、黒い頂に立つわらしを凝視し続けていた。

 豪華な礼服に溺れ、虚無をむさぼるその細い肩。

 「……いや、爺さん。俺に分かるのは、もっと単純なことだ」

 俺は、熱に浮かされる右腕を、赤いジャージの袖で乱暴に拭った。

 「……あいつ、俺が台所で割ったあの皿より、ずっともろそうだ。……放っておけば、勝手に粉々になっちまいそうなほどに、ひどく、冷たく透き通ってやがる」

 ナッシュが目を見開き、絶句する。

 俺の言葉は、神話の論理をも、老兵の罪悪感をもマッハ350で置き去りにし、ただ「生活の手触り」という名の刃となって、シュバルツの孤独の芯を真っ向から捉えていた。

「……くるぞ、ソラタ! その光を絶やすな!」

 ナッシュの怒号が、数億の羽音に掻き消される。

 シュバルツがその細い指先をこちらへ向けた刹那、黒い群衆が、飢えた波濤はとうとなって押し寄せた。それは空間そのものを食らい尽くす、アバドンの化身。

 「……はら、へった」

 わらしの呟きが、俺の耳元で直接囁かれたように錯覚した。

 俺は、熱に焼かれる右腕を、あの台所の蛇口を捻るような「慎ましさ」で突き出した。

 「……俺の皿洗いはな、そんじょそこらの飢えじゃ、止まらねぇんだよ!」

 ドォォォォォン――! 

 放たれたオレンジ色の陽光サンビームが、黒い津波を真っ向から迎え撃つ。

 漱石の写生文の如く、一糸乱れぬ直線の光が、蠢くバッタの群れを次々と蒸発させていく。

 だが、群衆は無限だ。一億を焼いても、二億の闇が、その「熱」を喰らおうと牙を剥く。

 「……あいつ、本当に泣いてやがる」

 光の向こう。ブカブカの礼服を振り乱し、黒い波の頂で立ち尽くすシュバルツ。

 その瞳に映っているのは、俺の放つ破壊の光ではない。

 あいつは、この光の中に、自分が一度も得られなかった『誰かと囲む食卓』の温もりを、マッハの速度で見出していたのだ。

 だが、俺のオレンジ色の炎は、飢えた獣を癒やす滋味じみにはなり得ず、ただ虚空を焦がす不純な熱として霧散した。

 刹那の爆光が、奈落の底を昼間のように照らし出し、そして――次の瞬間、世界からは一切の喧騒が剥落はくらくした。

 シュバルツの軍勢も、俺たちの絶叫も、すべては夢の跡のように掻き消えている。

 ただ、そこには、一幅いっぷくの絵画のような静止した時間が横たわっていた。

 ナッシュ――いや、キッシュは、そこにいた。

 老兵はただ、端然たんぜんと岩壁に背を預けて座している。捲り上げた袖の下の剛腕も、深い皺を刻んだそのかたちも、驚くほどに清冽せいれつなまま、生前の威厳を保っていた。

 ただ、その唇から、最後の一本の煙草が、音もなく土の上へと転がり落ちた。

 紫煙しえんはもはや立ち昇らず、彼の胸中を満たしていたはずの熱い執着は、どこか遠い成層圏の彼方へと、綺麗に洗い流されたかのようであった。

 その完璧な静寂を、一筋の鋭い悲鳴が引き裂いた。

 「……きっしゅ、じいじ……ッ!!」

 フランだった。

 彼女は、泥にまみれた膝を突くのも構わず、事切れた老兵の足元へ縋り付いた。

 先刻さっきまで絶望という名の彫刻であった少女が、今はただ、行き場を失った一人の子供として、その冷えゆく胸に顔を埋めている。

 「おいていかないで、キッシュ……っ! いっしょに、いっしょに、ごはん、たべるって……!」

 「……爺さん」

 俺の震える声さえも、この完璧な静寂を乱すことは叶わない。

 老兵の死体は、そこにある。

 だが、そこにはもう、俺を叱り飛ばした「日常」はない。

 あるのは、孤独という名の永劫えいごうな安らぎと、俺たちがこれから背負うべき、あまりに重い「記憶」の残骸だけであった。

 シュバルツのまなこは、俺たちを路傍ろぼう石塊いしくれつゆほども違わぬものとして眺めていた。その無慈悲な一瞥いちべつが過ぎ去った刹那、黒くうごめく飢餓の波も、ぶかぶかの衣に身を包んだ孤独な王も、そして――

 先刻さっきまでそこにあったはずの、キッシュの端正な亡骸なきがらさえもが、あらかじめこの世に存在しなかったかの如く、忽然こつぜんとして大気の中に溶け失せていた。

 後には、ただ悲しいまでに澄み渡った、透明な静寂しじまだけが残された。

 あまりに急激な「死」の不在に、俺の鼓膜は麻痺したかのように震えている。

 やがて、その虚無の裂け目から、どこか遠い異界の小風こかぜが吹き抜けた。

 サワサワと、名もなき木々の葉がかすかな音を立てて揺れている。

 「……ナッシュ。あんた、最後までその偽名で通すつもりだったのかよ。……キッシュ。それが、あんたの本物の熱だったんだな」

 「……じいじ」

 空太のポツリと漏れた息遣いとフランの力ない呟きさえ、その木の葉の音に吸い込まれ、形を失っていく。

 世界は何事もなかったかのように、ただ残酷なまでに美しく、再び動き始めていた。

 老兵は、一筋の煙草の煙にさえなれず、この静かな風の中に溶けて消えたのである。

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