第4話陽光(サンビーム) ――旭日昇天のざわめき
「……動かねぇ。熱が、熱すぎて、右腕が俺の言うことを聞かねぇんだ」
奈落の底、満月の冷光を浴びながら、俺は自分の震える拳を凝視していた。
マッハ350。日常を焼き切るその初速は、今や俺自身を飲み込もうとする怪物の口に見えた。俺の身体という、古⦅いにしえ⦆より閉ざされた『岩戸』を、内側から強引に抉⦅こじ⦆開けんとする暴力的な熱が、今や遅しと蠢⦅うごめ⦆き出している。それは、あたかも『旭日昇天』の勢いをもって、この肉体という名の矮小⦅わいしょう⦆な牢獄を、一瞬にして焼き尽くさんとする劫火⦅ごうか⦆の如きざわめきであった。
「……チッ。……皿洗い一つできねぇ腕が、勝手に『太陽』になろうとしてやがる」
掌⦅てのひら⦆に滲む汗が、その異常な高熱に触れて蒸発し、微かな白煙となって闇に消える。
母ちゃんの焼くノドグロの脂よりも、もっとずっと濃密で、逃れようのない「生」の匂いが、奈落の冷気をじりじりと焦がしていた。
「……何を震えてやがる、ドジっ子」
闇の底から、冷え切った井戸を揺らすような声が響いた。ナッシュだ。
彼は岩壁に預けていた身体を不機嫌そうに起こすと、煤けた手の甲で口を拭い、そのまま乱暴に袖を捲り上げた。浮き出た血管と、幾多の戦場を潜り抜けてきた古傷が、焚き火の残光に赤黒く浮かび上がる。
熱が、抑えられねぇんだ。……このままじゃ、俺自身が焼けちまう」
「当たり前だ。……お前は今まで、その熱を『逃がす』ことばかり考えて生きてきた。洗剤の泡を蒸発させ、大理石を溶かし、ただ無闇に虚空を殴りつける。それはただの猿の癇癪⦅かんしゃく⦆だ」
ナッシュが、空太の震える右腕を、その不潔な、しかし鉄のように堅固な掌で掴み取った。
「あ、熱ぃぞ、爺さん! 火傷する!」
「……黙れ。いいか、空太。……熱を『散らす』な。『一点』に、針の穴を通すように、全神経を殺して絞り込め。……お前が十八年間、台所でやってきたあの『皿洗い』の、ミリ単位の慎ましさを思い出せ」
皿洗い。
その言葉が、マッハ350で逆流する空太の意識を、あの窮屈で、けれど温かかった台所へと引き戻した。
そうだ。あの陶器の薄氷を割らぬよう、指先の震えを極限まで抑え込み、一滴の雫に全神経を注いだ、あの不器用な日々。
「……芯を、焼け」
老兵の低い命令が、俺の『岩戸』の奥深くまで徹った。
暴れ狂っていた劫火⦅ごうか⦆が、指先の一点へと凝縮されていく。
血管を焼き切らんとしていた赤は、不意に、満月の夜を優しく溶かすようなオレンジ色の輝きへと変質し始めた
「……いけっ!」
刹那、俺の右指の先で、凝縮されたオレンジ色の焔が限界を超えて爆ぜた。
それは最早、熱という言葉では形容し得ぬ、剥き出しの「生の咆哮」であった。指先の一点に事籠っていた劫火が、マッハ350の初速を伴って虚空を貫く。
ズドォォォォォン――!
轟音という名の衝撃波が、奈落の静寂を無慈悲に粉砕した。
放たれた一筋の陽光は、暗闇を焼き切り、あの忌まわしいワイスが織り成した歪な空間の「しわ」を、一瞬にして蒸発させた。
光の軌跡が、網膜を焼くほどの鮮烈なオレンジの残像を夜空に刻みつける。それは、母ちゃんが焼くノドグロの脂が、台所の灯りに照らされた瞬間に似た、懐かしくも苛烈な色彩であった。
「……ぁ」
傍らでその光を見つめていたフランの瞳に、初めて「驚愕」という名の火が灯る。彼女の漆黒の双眸は、今や空太が放った太陽の残光を反射し、オレンジ色に輝いていた。
「……見たか、爺さん。……これが、俺の『皿洗い』の成果だ」
熱に焼かれ、煙を上げる右腕を赤いジャージの袖で拭いながら、俺は不敵に笑った。
指先に残っていたぬるま湯の幻影は、今、本物の「最強」という名の熱へと、マッハの速度で作り替えられたのだ。




