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第3話老兵の食卓


 意識が浮上した瞬間、俺が最初にしたのは、頭上に広がる天を睨みつけることだった。

 「……なんだよ、ありゃあ」

 奈落の底、湿った土の匂いに包まれながら見上げた空は、あまりに醜く、そして絶望的だった。

 大理石の祭壇でワイスに弾き飛ばされてから、この湿った暗闇の中で、一体どれほどの時間が腐ったのだろうか。てのひらにこびり付いていたはずの洗剤の泡は、もはや跡形もなく乾き果て、代わりに一日分の泥と、見知らぬ世界の夜露よつゆが、赤いジャージの芯まで冷たくとおっている。指先をかすかに動かせば、こわばった皮膚が異郷の土に擦れ、時が残酷に経過したことを、鈍い痛みと共に俺に教えた。

 ワイスが織りなした空間の「しわ」が、成層圏の端々までを無機質な曼荼羅で覆い尽くしている。そこに見える青は、俺が18年間、母ちゃんの洗濯物の向こう側に見ていたあの突き抜けるような蒼⦅あお⦆ではない。

 光は歪み、雲は断絶し、星々の瞬きさえもが幾何学的な格子状に裁断されている。まるで、巨大な擦り切れたビデオのノイズを、そのまま空に貼り付けたような、そんな偽物の天蓋⦅てんがい⦆だ。

 この世界の人々は、この檻を空と呼んで生きているのか。

 「……反吐が出るぜ。あんな空の下じゃ、飯の味も分からなくなりそうだ」

 俺は、泡の消えた汚れた右手で、網膜に焼き付く歪な曼荼羅を遮るように顔を覆った。

 本当の空を、俺だけが知っている。

 その傲慢なほどの確信が、今の俺を、かろうじて人間として繋ぎ止めていた。

「……あの、大丈夫、ですか?」

 震える声が、俺の網膜に張り付いた歪な空を遮った。

 視線を落とせば、そこには泥にまみれた白いドレスを纏った少女がいた。彼女の瞳は、頭上の曼荼羅を映してなお、夜空のような深い黒を失っていない。

「……生きてる。ドジっ子の意地ってやつでな。あんたは?」

「……はい。あなた様に、助けていただいたから」

 彼女は、祈るように胸元で両手を組み、深々と頭を下げた。

 「ありがとうございます。絶望の底で、私を見つけてくださって。……私の名前は、フラン。この歪んだ空の下で、ただ生贄になるのを待っていただけの、臆病な巫女です」

 その謙虚すぎる言葉に、俺は少しだけ眉を寄せた。

「……俺は空太ソラタ。いや、空太そらただ。漢字で書くのは無理だろうが……母ちゃんが、空みたいに太々《ふてぶて》しく生きろってつけた名前だ。……勇者様だなんて、呼ぶなよ。俺はただ、皿を洗う途中に攫われてきただけの、しがない十八歳だ」

「……ソラタ、様」

 彼女は、その響きを噛み締めるように繰り返した。

「……いいえ、私にとっては、あなたが私の空です。……ソラタ様」

 その言葉に含まれた熱量に、俺の赤いジャージの内側が、わずかに、けれど確かに、新しい「赤」を灯した。

 俺たちがそんな不器用な言葉を交わしていた、その刹那だった。

 背後の闇――光の一条も届かぬ底知れぬ漆黒が、あたかも粘り気を持つ生き物の如く、不意に震えた。

 「……チッ。ガキ共が二人して、いつまで湿っぽい名乗りを上げてやがる」

 闇の向こう側から、火打ち石の鋭い音と共に、ひどく掠れた、それでいて底冷えするような声が飛んできた。

 爆ぜる焚き火の光に照らし出されたのは、岩壁に背を預け、不機嫌そうに目を細める一人の老兵だった。

「……誰だよ、あんた」

「誰でもいいだろ。……死に損ないの掃除屋だよ」

 彼は、着古した鎧の下の袖を乱暴に捲り上げ、浮き出た血管だらけの腕を晒した。その動作一つに、数えきれないほどの戦場を渡り歩いてきた男の、隠しきれない倦怠⦅けんたい⦆が滲んでいる。

 老兵は、串に刺した不味そうな干し肉を無造作に引きちぎると、咀嚼もそこそこに手の甲で口を拭った。

 「……お前みたいな泡だらけの小僧が、召喚の奇跡か。笑わせるな。……聖女様も、こんな得体の知れない猿に縋⦅すが⦆るとは、この国もいよいよ年貢の納め時だな」

 「……おじいちゃん、そんな言い方……!」

 フランの抗議を、彼は深く被ったフードの奥で鼻で笑い飛ばす。

 「お前のような出来損ないの孫など、俺は知らん。……おい小僧、腹が減ってるならこれを食え。……死にたくなければ、な」

 放り投げられたのは、石のように硬い黒パンだった。

 それは、空太が18年間受けてきた「母の愛」とは対極にある、「生き延びるためだけの、乾いた配給」だった。

 放り投げられた石のように硬い黒パンを、俺は泥の付いた手で受け止めた。

 「……固ぇよ、爺さん。歯が折れるぞ、これ」

 「文句があるなら食うな。……そのまま餓えて、ワイスの糧にでもなるがいい」

 老兵は吐き捨て、手の甲で乱暴に口を拭う。

  俺は、仕方なくそのパンを口に運び、奥歯を軋ませながら噛み締めた。

 味なんて、しやしない。ただ乾いた小麦の粉が喉を詰まらせ、虚無感だけが腹の中に溜まっていく。

 ふと、鼻腔の奥に、あるはずのない香りが蘇った。

  山陰の荒波で育った、あのノドグロの焼ける匂いだ。

 母ちゃんが「ドジっ子なんだから、骨に気をつけなさいよ」と怒鳴りながら、皿の上に置いた一匹の魚。

 箸を入れれば、白身のトロと謳われるその純白の身から、熱い脂が溢れ出し、醤油の香ばしさと混じり合って、台所の空気を幸せで満たしていた。

 「ッ。……不味すぎるだろ、これ」

  目元が熱いのは、焚き火の煙のせいじゃない。

 山陰の海の恵み、あの豊かな脂の甘みを、今の俺はマッハ350の初速度をもってしても、決して掴み取ることができない。

 その残酷なまでの欠乏が、俺を、昨日までとは違う別の生き物へと作り替えていく。

 「……待ってろよ、母ちゃん。……皿洗いの続き、ノドグロの骨を片付けるところから、また始めてやるからな」

 不味いパンを無理やり飲み込み、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

 奈落の底、焚き火の煙が目に染みて、一瞬だけ視界が「ノイズ」のように歪む。

 だが、俺の胸の奥でくすぶる「赤」は、もう消えることはない。

 一糸乱れぬ曼荼羅を焼き切り、あの山陰の空よりも突き抜ける蒼を、必ず取り戻してやる。

 「……おい小僧。死にたくなければ、寝る前にその腕を休めておけ。明日は、もっと地獄だぞ」

 ナッシュが、乱暴に捲り上げた袖で口を拭いながら、焚き火を蹴って消した。

 二日目の夜が、静かに更けていく。

 俺と、フランと、老兵。

 不揃いな三人の、これが新しい「日常」の始まりだった。

  三日目の朝、俺の意識を闇の底から引き摺り出したのは、慈悲のない冷気の刃であった。

 瞼を押し上げれば、真っ先に飛び込んでくるのは、あの忌まわしいワイスの手によって織り成された、いびつ曼荼羅まんだらの天蓋である。成層圏を縫い潰す無機質な秩序は、今日もまた、俺の知る蒼穹そうきゅうを嘲笑うかのように頭上に居座っていた。

 「……くそ。体が痛え」

 身動みじろぎをするたび、身体中の節々に至るまで、徹夜で冷え切った鉛のような重圧が走る。

 俺は呻きを漏らしながら立ち上がり、固まった肉体をほぐすべく腕を回した。コキリ、と内側で乾いた音が鳴り響く。その微かな衝撃さえもが、遠い故郷の清潔なベッドの温もりを、残酷なまでの鮮烈さで思い出させた。

 髪を撫でれば土くれが零れ、爪の間には昨日分の絶望が黒くこびり付いている。

 何よりも先に、この身に纏わりつく異郷の泥を、あの台所の蛇口から出るぬるま湯で洗い流したかった。

「……洗いたいだと?」

 焚き火の煙に目を細め、ナッシュが鼻で笑う。彼は立ち上がり、袖をさらに捲り上げ、煤と返り血の混じった不潔な腕を空太に突きつける。

「小僧、その泥こそがお前の鎧だ。……異郷の土に汚れ、拒絶の冷気に焼かれる。その痛みが分からぬほど心が乾いたら、その時こそお前はワイスの曼荼羅の一部になるだけだ」

 空太は、震える右手を握りしめる。

 指先に残っていたぬるま湯の幻影は、もうどこにもない。あるのは、内側から血管を焼き切らんとする、暴力的なまでの「赤」の胎動だ。

 「……やってやろうじゃねぇか。……皿洗いのついでに、その曼荼羅ごと焼き尽くしてやるよ」

  強気の言葉とは裏腹に、空太の右腕は、熱に焼かれる痛覚で微かに震えていた。

 その震えを誰よりも先に感じ取ったのは、傍らで泥にまみれた膝を抱えていたフランであった。彼女は夜空の色をした瞳を潤ませ、祈るように両手を胸元で組む。

「……ソラタ、様。……どうか、そのお身体を、これ以上焼かないでください」

 震える声は、焚き火の爆ぜる音にかき消されそうなほどにはかない。けれどその慈悲深い視線は、荒れ狂う空太の「赤」を、一瞬だけ優しい「日常」の色へと呼び戻した。

 それを見たナッシュは、深く被ったフードの奥で、冬の井戸底がほころぶような、残酷で、けれどどこか慈悲深い笑みを浮かべた。

 「……フン。不味いパンを食って、少しは血が巡ったようだな」

  老兵は再び、手の甲で乱暴に口を拭い、腰の剣を地面に突き立てた。

 「立て、小僧。……三日目の修行は、その泥が乾く前に終わらせるぞ。――聖女様、あんたも目を背けるな。こいつの泥臭い生き様を、その目に焼き付けておけ」

 奈落の底、焚き火の煙が、歪な空へと立ち上っていく。

 マッハ350の初速。その制御不能な暴力が、この瞬間、一人の老兵の手によって「研ぎ澄まされたブレイブ」へと作り替えられようとしていた。

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