第2話拒絶の衣
指先に残っていた幽かな幻は、一瞬にして凍りついた。
蒸発した泡の代わりに、俺の視界を埋め尽くしたのは、無限に引き延ばされた『白』の絶望だった。
届かない。マッハ350の初速をもってしても、ワイスの指先一つに触れることすら叶わなかった。泰然自若たる静寂が、俺の焦燥をあざ笑うかのように祭壇を満たしている。俺が18年間必死に抑え込んできた「赤」は、この完璧な秩序の前では、単なる猿の叫びにも等しかった。
「……ああ、そうかよ。綺麗すぎて、反吐が出るぜ」
俺は、震える右手を無理やり握りしめた。脳裏をよぎったのは、あの擦り切れたビデオの砂嵐だ。
画面の中の「彼」は、どんなに格上の怪物を前にしても、決してその掌を引かなかった。不格好に叫び、泥にまみれ、それでも最後には、理不尽な闇をその「光」で焼き切ってみせた。
俺は、マッハ350の計算を捨てた。
身体が、内側から爆発せんばかりに沸騰する。血管を流れるのは血液ではなく、どす黒いほどの執着と、一握りの「憧れ」だった。
「皿の一枚も洗えねぇドジっ子だけどな。……あんたのその澄ました面⦅つら⦆だけは、一発殴らねぇと気が済まねぇんだよ」
一歩。
大理石の床が、爆圧に耐えかねて蜘蛛の巣状に弾け飛ぶ。
蒸発した泡の跡が、俺の「赤」に焼かれて青白く発火した。
放つ術を知らぬ熱が、俺自身を弾丸に変える。
ワイスの指先が、初めて、微かに揺れた。
(フラン視点)
私はもう駄目かと思っていた。ワイスの聖常に抗う術などなく、ただ冷たい大理石に身を任せ、先に逝ったあの人達の冷たい懐⦅ふところ⦆へ行く。そう、諦めていた。
けれど、目の前で弾けたのは、この世の理⦅ことわり⦆を塗り潰すような、あまりに場違いな「赤」だった。
「……え?」
震える声が漏れた。視線の先、ボロボロの赤い衣を纏った少年が、白き神の拒絶を真っ向から食い破ろうとしている。
熱い。頬を焼くようなその熱気は、かつて古い伝承で聞いた、砂嵐の向こう側にいた英雄が放つ「陽光」そのものではないか。
泡だらけの手。ドジっ子という名の自虐。
そんな滑稽な姿をしているのに、彼の背中から溢れ出すのは、誰にも侵させない絶対的な救済の意志だった。
ワイスの指先が、初めて、微かに揺れた。
それは、私の絶望にヒビが入った音でもあった。
(空太視点)
思考が、音速を置き去りにした。
俺の視界の中で、世界は完全に静止する。泣き崩れる彼女の涙の一粒が、琥珀⦅こはく⦆の中に閉じ込められた宝石のように空中で止まっていた。
対して、ワイスの指先だけが、呪わしいほど優雅に、スローモーションで空間を「織って」いる。
「……届かせてやるよ。その、澄ました面まで」
一歩。
踏み込んだ右足が大理石を粉砕し、その反動が赤いジャージを裂かんばかりに膨れ上がる。
視界の端から端までを埋め尽くすのは、ワイスの指先から紡がれた、あまりに無機質な空間の織物だ。
それは、一糸乱れぬ均衡を保ち、寸分の狂いもなく編み上げられた幾何学の極致――絶対の秩序を宿した「曼荼羅」であった。
非人情なまでの静謐⦅せいひつ⦆を湛えたその白き衣に対し、俺の赤いジャージの綻⦅ほころ⦆びや、右手にこびり付いた洗剤の泡の残滓⦅ざんし⦆が、不浄なノイズとして捻じ込まれる。この世の何物にも染まらぬ神のキャンバスを、俺という泥臭い「生」の色彩が、無作法に汚していく。
激突。
そこには音も、感触もなかった。
ただ、俺の拳がワイスの喉元を捉える寸前、虚空に凄まじい「しわ」が寄った。曼荼羅の如き均等な空間が、俺の熱に耐えかねて、悲鳴を上げるように歪⦅ゆが⦆んでいる。
「……猿が、理⦅ことわり⦆に触れるか」
ワイスの瞳に、初めて氷のような不快感が宿った。
俺の拳と、ワイスの喉元の間にある、わずか数センチの「無限」。
マッハ350の摩擦熱が、その透明な衣をジリジリと焦がし、青白い火花を散らす。
「――あ、あ」
少女の、掠れた声が聞こえた気がした。
放出できない熱が、俺の右腕を内側から焼き、骨を軋ませる。
だが、俺は止まらない。
ビデオの砂嵐の向こう側で、彼が突き出した右手の熱が、今、俺の血管を流れているからだ。
パリン、と。
静寂を裂いて、ワイスの織りなした一糸乱れぬ曼荼羅に、一筋の亀裂が走った。
「……小癪な」
ワイスが空間を指で弾く。
刹那、亀裂の入った空間が爆ぜ、俺の身体はマッハ350の衝撃をそのまま反射するように後方へと吹き飛ばされた。
大理石の床を転がり、意識が遠のく中、俺の耳にビデオのノイズよりも冷たい声が届く。
「猿には、この衣を纏う資格さえない。……奈落へ落ちろ」
刹那、床が消失し、俺の視界から白き曼荼羅が消え、底知れぬ闇が口を開けた。
重力に引かれ、意識が遠のく中。
「……ぁ」
すぐ傍らで、白いドレスの裾が舞うのが見えた。それは、先刻まで銀の涙を双眸に湛え、その一滴さえもが絶望という名の彫刻のように凍りついていた少女であった。
ワイスは、生贄としての価値を失った彼女さえも、一顧だにせず、路傍の塵の如くに打ち捨てたのだ。
俺は、内側から焼ける右腕を無理やり伸ばし、宙を舞う彼女の細い手首を掴み寄せた。
「……離さねぇよ。……ドジっ子の、意地だ」
泡だらけだったはずの俺の手は、今は彼女を火傷させそうなほどに熱い。
俺たちは重なり合ったまま、ビデオのノイズ一つ届かない深い闇へと、真っ逆さまに堕ちていった。




