第1話世界最強の少年
「ガシャーン!」
無粋な破砕音が台所に響き、掌⦅てのひら⦆の中にあったはずの陶器は無惨な破片と化して散った。
「やべぇ」
思わず漏れた呟きを追いかけるように、リビングからは焼き魚の骨を分ける小気味よい音、そしてそれを凌駕する母ちゃんの怒号が飛んでくる。
「こらー! 空太! またお皿を割ったわね! いつもビデオばかり見ているから、その手元の不注意を招くのよ。このドジっ子!」
「……わりぃ。次からは気をつけるよ、母ちゃん」
泡だらけの手で頬を掻きつつ、俺は横目でブラウン管を盗み見る。ノイズという名の砂嵐に埋もれながら、画面の中の「彼」は、右の掌を傲然⦅ごうぜん⦆と前に突き出し、何かを絶叫していた。それは、孤独な夜の俺にとって、唯一無二の、そして不変の決めの型であった。
砕け散った日常の残骸を脇へ退け、俺は次の食器を手に取る。
正直に言えば、百メートルの峻烈⦅しゅんれつ⦆な山を拳一つでぶち抜くよりも、この薄氷のような陶器を洗う方が、俺には遥かに難事であった。指先の神経をミリ単位で研ぎ澄ませ、息を潜める。この「普通」を装うための皿洗いが、俺の精神を最も疲弊させるのである。
その時であった。
ザザー、ザー、と。両の耳の奥で、不可解な雑音が鳴り響いた。数秒の後、篭った少女の声が、霧の向こうから届くように震える。
「……たす……」「……だれ……けて…ら…」
奇妙なことだ。何かしらの疾患が発症したわけでもあるまい。俺はまだ、齢十八の若造である。
幻聴か。いや、違う。指先の感度を極限まで高めて生きてきた俺には分かる。この響きは、この地球の空気から生まれたものではない。
突如、足元の古びたクッションフロアから、ビデオの砂嵐よりも眩い青白い光が奔流⦅ほんりゅう⦆となって溢れ出し、おれを包み込んだ。
「……っ、おい、母ちゃん!?」
返事はない。手に持っていた二枚目の食器が滑り落ちたが、今度はその割れる音さえ、俺の網膜⦅もうまく⦆を侵食する異常な光の中に霧散していった。
次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは、家の台所とは似ても似つかぬ純白の大理石であった。その床は、鏡のように滑らかで、それでいて心臓を素手で掴むような冷徹さを湛⦅たた⦆えていた。
あまりの事態に、ポツリと言葉が漏れる。
「……どこだ? ここ」
大理石の床は、鏡のように滑らかで、それでいて心臓を素手で掴むような冷徹さを湛えていた。俺の右手から、一筋の洗剤の泡が、音もなくその白き鏡面へと滴り落ちる。
ポツリ。
日常の残骸であるその一滴は、神聖な静寂を汚す不純物として、無機質な石の肌を滑った。「……ちっ、汚しちまったか」独り言は、高すぎるドリス式の円柱に反響し、虚しく霧散する。
視線を上げれば、そこには曼荼羅の如き均等な静寂が、どこまでも事籠っていた。その最奥。白き衣を纏い、蜘蛛の糸を紡ぐような優雅さで指先を遊ばせる男――ワイスが、ゴミを見るような、あるいは未知の猿を観察するような、温度のない瞳で俺を射抜いた。「……穢らわしいな。猿の泡か」
ワイスの声は、耳に届く前に空間そのものを凍らせるようだった。その傍ら、冷徹な静寂の影に、一人、地面に伏し、泣き崩れる少女の姿があった。
ふと、目が合う。
肩まで流れる漆黒の髪。その奥にある、吸い込まれるような夜空の色をした瞳。
彼女の目元は恐怖に濡れ、震える双眸は、場違いな俺に向かって言葉にならない救いを求めていた。
その瞬間、俺の赤いジャージの内側では、血管を焼き切らんとするほどの「赤」が吠えていた。マッハ350。日常という岩戸を蹴破った俺の熱が、大理石に落ちた泡の一滴を、一瞬で蒸発させた。
蒸発する直前、俺の右手の指先には、まだ洗いかけの皿のぬるま湯の温もりが、幽⦅かす⦆かな幻のように残っていた。




