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第9話:護衛者のプライド

 魔王城「パンデモニウム」の朝、それは一羽の使い魔が運んできた「平和の報せ」から始まった。

 人間界と魔界の和親条約締結を祝し、中立地帯にある美しい湖畔の離宮にて、両国の親善を兼ねたささやかな園遊会が催されることになったのである。


「……バルバラ。貴殿も同行せよ。これは公式な行事だ。魔王の盾たる貴殿が傍にいなければ、余は落ち着かぬ」

 玉座に座るルナリスが、柔らかな微笑を浮かべてそう告げたとき、バルバラは胸の内で静かに、しかし熱く燃え上がるものを感じていた。

「はっ! このバルバラ、命に代えても魔王様の御身、お守りいたします!」


 これこそが自分の本来の職務だ。アルベルトにマナーだの美容だのと磨き上げられた今の自分なら、人間界の王族たちの前に出ても、魔王様の品格を貶めることはない。バルバラは、新調された白銀の軽装鎧の感触を確かめ、背筋を伸ばした。


 しかし、その準備段階で、アルベルトの冷徹な声が飛ぶ。

「バルバラ様。本日の貴女の役割は『護衛』ですが、それ以前に『背景』であることを忘れないでください」

「……背景だと?」

 アルベルトは、ルナリスの移動用馬車の点検をしながら、振り返りもせず言った。

「主役はあくまでルナリス様です。護衛が殺気を撒き散らしては、平和を祝う場が台無しになる。武器は目立たぬよう。歩調は私に合わせて。……そして何より、私の指示があるまでは、指一本動かさないこと。いいですね?」


 バルバラは癪に障りながらも、今のアルベルトの実力を認めざるを得ない。彼女は不承不承ながらも頷き、一行は人間界へと出発した。


 湖畔の離宮は、瑞々しい緑とクリスタルのように澄んだ水面に囲まれた、楽園のような場所だった。

 人間界の貴族たちが色とりどりの正装で集まり、和やかな音楽が流れる中、ルナリスはアルベルトのエチケットを受けながら、優雅に談笑の輪へと加わっていく。


 バルバラは、その数歩後ろに控えていた。

 磨き上げられた肌、整えられた所作。周囲の人間たちは、彼女がかつて戦場を蹂躙した「戦鬼」であるとは露ほども思わず、ただ「魔王に仕える、気高き女性騎士」として、憧憬の眼差しを向けていた。

(……悪くない。力で黙らせるのではなく、敬意を持って見られるというのは……)

 バルバラが僅かに頬を緩めた、その時だった。


 アルベルトの視線が、僅かに鋭くなるのをバルバラは見逃さなかった。

(……鼠が紛れ込みましたか。それも、ずいぶんと行儀の悪い)

 アルベルトはルナリスに耳打ちし、彼女を安全なテラスの奥へと誘導した。同時に、視線だけでバルバラに合図を送る。


『――左方、生垣の裏に三人。後方の時計塔に一人。仕掛けてくるのは、次の鐘が鳴る瞬間です』

 声ではない。アルベルトが事前にバルバラの耳飾りに仕込んでおいた、極小の魔導通信機からの指示だ。

『バルバラ様。主人の視界を汚さないよう、音もなく処理しなさい。……できるでしょう?』

「……誰に言っている。俺を、ただ磨かれただけの飾り人形と思うなよ」


 キィィィン、と。

 午後の静寂を切り裂く鐘の音が響いた瞬間、庭園の影から黒装束の刺客たちが飛び出した。和親条約に反対する、人間側の過激派聖騎士団の残党だ。

 その狙いは、無防備にテラスに立つルナリス。


 だが、彼らが剣を振り下ろすよりも早く、白銀の閃光が奔った。

 バルバラは、アルベルトから教わった「無駄を削ぎ落とした予備動作」で、背負った小斧を一閃させた。

 かつての彼女なら、ここで咆哮を上げ、地面を砕いて突進していただろう。だが今の彼女は、まるで舞踏を踊るかのような流麗な足運びで、刺客の死角へと滑り込んだ。


「静かにしろ。主人の耳を汚すなと言われているのでな」

 バルバラの冷徹な一撃が、刺客の武器を叩き折り、そのまま柄で鳩尾を突く。

 悲鳴を上げる暇すら与えない。気絶した刺客が地面に倒れ伏す音を、アルベルトが咄嗟に発動させた「吸音の魔法」が完全に消し去った。


 時計塔から放たれた必殺の魔導矢。

 ルナリスの背後から迫るその矢を、アルベルトは振り返ることもなく、手に持っていた給仕用のシルクトレイで弾き飛ばした。

「……ルナリス様、あちらの白鳥が羽を広げましたよ。実に美しい」

「おお、本当だ。……今、何か音がしなかったか?」

「風が少し、騒がしかったようでございます」


 その間に、バルバラは残りの刺客たちを次々と制圧していた。

 相手の力を利用し、最小限の動きで無力化する。泥に塗れることも、鎧を汚すこともない。アルベルトが彼女に叩き込んだ「執事流の護衛術」だ。


 最後の一人を組み伏せた時、バルバラの心には、かつての破壊による快感とは異なる、深い「充足感」が満ちていた。

 自分の力で、愛する主人を守り抜いた。それも、主人の心を一瞬たりとも不安にさせることなく、完璧な「静寂」の中で。


 事件が終わった後。

 アルベルトは、バルバラの鎧に付いた僅かな埃を、優しく手で払った。

「……合格です、バルバラ様。今の貴女は、間違いなく魔王様の『最高の盾』でした」

「……ふん。貴様の教えが、少しは役に立っただけだ」

 バルバラは顔を背けたが、その口元は僅かに綻んでいた。


 園遊会の帰り道。

 馬車の中で、ルナリスは満足そうにバルバラの肩に頭を預けていた。

「バルバラ……今日の貴殿は、本当に頼もしかった。貴殿が傍にいてくれるからこそ、余は安心して外の世界を見ることができる」

「……魔王様。これからも、私が貴女様の道をお守りいたします」


 バルバラは、隣に座るアルベルトを見た。

 執事は相変わらずの無表情で、夜の街道を監視している。

 だが、バルバラにはわかっていた。この男が自分を磨き、この力を与えてくれたからこそ、自分は今、主人の隣でこれほどまでに誇り高くあれるのだと。


(……認めよう。俺は、貴様に磨かれることが……心地よくなってしまったらしい)

 バルバラの「戦鬼」としての魂は、今や執事という名の飼い主に、完全に手懐けられていたのである。


 しかし。

 二人の距離が近づくのを、暗い書庫の中で、不敵な笑みを浮かべて見つめる瞳があった。


 四天王の参謀、メルヴィ。

 生活能力皆無、ゴミ屋敷の主である「天才」の牙城が、いよいよアルベルトを迎え撃とうとしていた。


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