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第10話:主従の絆、執事の報酬

 魔王城「パンデモニウム」の最上階。そこには魔界の冷たい風を遮断し、常に人間界の春のような温かな微風が流れる、魔王ルナリスのプライベート・テラスがある。かつては冷え冷えとした石造りの展望台に過ぎなかったその場所は、今やアルベルトの手によって、王侯貴族すら嫉妬する至高の休息所へと変貌を遂げていた。


 夜空には紫がかった魔界の月が二つ浮かび、テラスに置かれた魔法灯が、柔らかな琥珀色の光を投げかけている。

「……ふぅ。アルベルト、バルバラ。今日の茶は、一段と体に染みるな」

 ルナリスは、最高級のカシミアをアルベルトが魔法洗浄で極限まで柔らかく仕上げたローブを纏い、ゆったりと背もたれに身を預けていた。その手にあるのは、彼女の体調に合わせてアルベルトが特別にブレンドした「静寂の香茶」。一口含めば、脳裏に直接安らぎが届くような逸品だ。


 その隣には、数日前までの野蛮な面影を完全に払拭した、将軍バルバラの姿があった。

 かつては手掴みで肉を食らっていた彼女が、今や指先の角度一つにまで気を配り、銀のティースプーンを音もなく操っている。磨き上げられた彼女の肌は、月の光を反射して真珠のような光沢を放ち、アルベルトが用意した機能美溢れる騎士服が、彼女の逞しくも美しい曲線美を際立たせていた。


「魔王様、お疲れではございませんか? 今日の園遊会では、多くの人間が貴女様の御心に触れ、感銘を受けておりました。……護衛として、これほど誇らしいことはありません」

 バルバラの声は、かつての荒々しい咆哮ではなく、落ち着いた、知性すら感じさせる響きを帯びていた。

「案ずるな、バルバラ。貴殿があれほど優雅に、かつ完璧に余を守ってくれたのだ。余は一瞬たりとも、身の危険を感じることはなかった。……貴殿は、余の自慢の騎士だ」


 ルナリスの慈愛に満ちた言葉。それを聞いたバルバラの胸には、熱いものが込み上げた。武人として、ただ「強い」と言われることには慣れていた。だが、このように「品格ある守護者」として認められたことは、彼女の長い人生で一度もなかったのだ。

 彼女は思わず、傍らに直立不動で控えるアルベルトを盗み見た。

 彼がいなければ。彼が自分を強引に解体し、磨き上げ、あの過酷なまでのマナー特訓を施してくれなければ、自分は今、この幸せな時間を過ごすことはできていなかった。


 アルベルトは、二人の会話を邪魔しない絶妙な距離を保ちながら、微かな微笑みを浮かべていた。

「バルバラ様。本日の護衛任務、実に見事な立ち振る舞いでした。……ですが、最後に一つだけ、修正すべき点がございます」

「……あ、あん? まだ何かあるのか、アルベルト。俺は一滴の返り血も浴びず、主人のドレスに埃一つ付けなかったはずだぞ」

 バルバラは少し緊張し、背筋を伸ばした。今や彼女にとって、アルベルトの指摘は魔王の勅令にも勝る重みを持っている。


「緊張のあまり、奥歯を噛み締めすぎです。そのせいで、顎のラインに僅かな硬直が見られます。それでは、ルナリス様の隣で咲く一輪の『盾』として、余裕が足りません」

 アルベルトは無作法を承知で、バルバラの美しい顎に指先を添えた。

「ひ……っ!?」

 指先から伝わる微かな魔力の振動が、バルバラの顔の筋肉を解きほぐしていく。あまりにも自然で、かつ親密な接触。数日前なら剣を抜いて跳ね除けていただろうその指先を、今のバルバラは、抗い難い甘い熱と共に受け入れていた。


「……アルベルト。貴殿は本当に、隅々まで目が届くのだな。余のバルバラをこれほどまでに愛でてくれるとは、執事としての報酬が足りぬのではないか?」

 ルナリスが、悪戯っぽく微笑みながら問いかける。

「報酬なら、既にいただいております。主人が健やかに眠り、騎士が誇り高く剣を振るう。それ以上の喜びが執事にあるはずもございません」


 アルベルトは優雅に一礼したが、ルナリスはその答えに満足しなかった。

「いや。今夜は特別だ。……アルベルト、貴殿もここに座れ。余と、バルバラの隣にな。今宵は主従ではなく、この城を守る三人の語らいとしよう」

「……恐れながら、執事が主人と同じテーブルに着くなどは――」

「これは王命だ。執事は王命よりも、己の古臭いマナーを優先するのか?」


 ルナリスの瞳は本気だった。アルベルトは苦笑を漏らし、静かに席に着いた。

 三人の距離が縮まる。右には慈愛に満ちた魔王、左には信頼と微かな熱を帯びた瞳を向ける将軍。アルベルトという「毒」は、魔王城の二大巨頭を完全に無力化し、自らへの依存へと変えていた。


 人間界の市場で買った高級ショコラを囲み、魔法灯の灯火の下で過ごす時間は、種族も身分も超えた、奇跡のような「家族」の光景であった。バルバラは、アルベルトが淹れた二杯目のコーヒーを啜りながら、心の底から充足感を感じていた。戦いの中にしか居場所がなかった自分が、これほど穏やかな気持ちで夜を過ごせる日が来るとは。


「アルベルト……ありがとな。俺に、『強さ』以外の価値があるって教えてくれて」

 やがて、ルナリスがバルバラの肩に頭を預けて寝息を立て始めた頃。バルバラは消え入りそうな声で、隣のアルベルトに囁いた。

「……これからも、俺を磨き続けてくれ。魔王様の隣で、誰よりも美しく、誰よりも強い盾であり続けられるように。……貴様の言うことなら、どんなことでも聞くから」


 バルバラの手が、アルベルトの指先をギュッと握りしめる。その握力は、かつての敵を砕くためのものではなく、自分の拠り所を離すまいとする、一人の恋する乙女の熱量であった。

「……心得ております、バルバラ様。貴女は私が手掛けた、最高傑作の一つですから」


 夜が更け、二人の主人が深い眠りについた後。

 アルベルトは二人を優しく寝室へと運び、再び冷徹な「掃除屋」の顔に戻った。

 彼は懐から、次なる標的の報告書を取り出した。

「……さて。将軍の次は、あの知恵に溺れた引きこもりですか。参謀メルヴィ……魔力の計算は天才、生活能力は壊滅的。部屋は三百年分のガラクタとゴミに埋もれた魔窟……」

 アルベルトの瞳に、執事としての「掃除魂」が静かに、しかし激しく燃え上がる。

「……ふふ、やりがいがありますね。どのような迷宮だろうと、私の洗剤とほうきから逃げられる場所など存在しませんよ」


 その頃。

 山のような魔導書と、食べかけの食器、用途不明のガラクタに埋もれた時計塔の私室で、参謀メルヴィは大きくくしゃみをした。

「……んん。……誰かが僕の計算を邪魔しようとしてるのかなぁ。……ま、いいや。……執事さん、僕の『混沌』の迷宮で、君が絶望する顔を楽しみにしてるよぉ……」


 将軍バルバラ、完全攻略。

 そして物語は、魔王城最大のゴミ屋敷――知の迷宮を巡る。


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