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【間話】月下美人と真夜中の水上ピクニック

 将軍バルバラが、見違えるような気品を纏った騎士として魔王城に再誕してから数日が過ぎた。

 魔王城「パンデモニウム」の空気は、以前の刺々しい殺伐としたものから、どこか洗練された、静かな熱を帯びたものへと変わりつつあった。しかし、その劇的な変化の源である執事アルベルトに対し、密かな、そして誰よりも深い「不満」を抱いている者がいた。


 魔王、ルナリス・ヴォル・ゼーレである。


 彼女は今、執務室の豪奢な椅子に深く腰掛け、目の前に積まれた書類の山を眺めていた。アルベルトによって整理され、かつての三倍の速度で処理できるようになったはずの政務だが、彼女のペン先は一向に進まない。


(……また、バルバラの話か)

 ルナリスは、心の中で小さく、誰にも聞こえない溜息をついた。

 ここ数日、アルベルトとの会話の半分は、バルバラの体調管理や、彼女の騎士としての訓練進捗に関するものだった。もちろん、自分の片腕である将軍が有能かつ美しくなるのは、魔王としてこの上ない喜びだ。だが、一人の女性としてのルナリスの心には、泥のように重く、暗い感情が沈殿していた。


 それは、自分に向けられていたはずの「完璧な献身」が、ほんの僅かであっても他の誰かに分配されていることへの、形容し難い寂寥感――即ち、嫉妬であった。


 コンコン、と。

 心を見透かしたような、完璧なリズムのノックが響く。

「ルナリス様。本日の午後の執務、少しばかりペースが落ちているようでございますね。……少々、集中力を欠いておいでではありませんか?」


 扉を開けて現れたアルベルトは、いつものようにシワ一つない燕尾服に身を包み、銀のトレイに琥珀色の紅茶を乗せていた。その瞳は、ルナリスの隠そうとしていた心の揺らぎを、モノクル越しに冷徹に、しかし慈しむように捉えている。


「べ、別にそのようなことはない。ただ、少し考え事をしていただけだ」

「左様でございますか。……ですが、主人の瞳に陰りがあるのは、執事にとっては何よりも重大な不手際。……ルナリス様、今夜は少し、城の地下にある『星の涙』を見に行きませんか?」


「『星の涙』? ……余の城に、そのような場所があったか?」

 ルナリスは怪訝そうに眉を寄せた。この城で生まれ育った彼女ですら、聞いたことのない名前だ。

「最近、私が清掃と整備を終えたばかりの場所でございます。……今夜は、公式な行事も、将軍の立ち合いもございません。ただのルナリス様と、私だけの時間にさせていただきたく存じます」


 アルベルトは深々と頭を下げ、ルナリスの前に手を差し出した。

「貴女様を、この世界で一番の幸福な主人にすること。それが私の、本日の最優先事項でございます」


 その言葉に、ルナリスの凍りついていた心が、春の陽だまりに触れたように解けていった。

「……ふん。貴殿がそこまで言うのなら、付き合ってやらんでもない。……あくまで、視察だぞ?」

「もちろんでございます。……最高の『視察』にいたしましょう」


 夜が訪れた。

 魔界の二つの月が天頂に並び、城全体が淡い紫色に包まれる頃。アルベルトはランタンを一つ手にし、ルナリスを城の最深部、通常は誰も立ち入らないはずの地下迷宮の奥へと導いた。


 そこは、かつて先代の魔王たちが、武具の保管庫や罪人の牢獄として使っていた、暗く湿った場所だったはずだ。しかし、アルベルトに連れられて降りていった先には、想像を絶する光景が広がっていた。


「……っ、これは……!?」

 ルナリスは思わず息を呑んだ。

 そこは巨大な鍾乳洞だった。天井からは無数のクリスタルが滴り落ちるように垂れ下がり、それらすべてが、淡い青や銀色の魔力を帯びて発光している。

 足元に広がるのは、底が見えるほど透明な、しかしどこまでも深い地下湖。天井の光が水面に反射し、まるで水の中にまで星空が閉じ込められているかのようだった。


「発光鍾乳洞……。放置されていたこの場所を、私が少々整えさせていただきました。この場所の結晶が放つ光は、魔王の魔力を安定させる効果がございます」

 湖畔の桟橋には、アルベルトが用意した一艘の銀のゴンドラが係留されていた。

 アルベルトは優雅にルナリスの手を取り、ゴンドラへとエスコートした。


「さあ、参りましょうか。真夜中の水上ピクニックへ」


 ゴンドラは、アルベルトが操る一本の竿によって、音もなく滑り出した。

 水面を裂く波紋が、天井の光を拡散させ、幻想的な模様を洞窟の壁に描き出す。ルナリスは、ゴンドラの中に敷き詰められた極上の毛布に身を沈め、隣で櫂を操るアルベルトをじっと見つめた。


「アルベルト……。貴殿は、いつの間にこのような場所を見つけたのだ。余は、この城の主でありながら、何も知らなかった」

「執事とは、主人の家を誰よりも熟知していなければならない職種ですから。……それに、この場所は、いつかルナリス様が疲れ果てた時に、二人きりで訪れたいと、着任初日から決めていた場所でもあります」


 さらりと言ってのけるアルベルトの横顔に、ルナリスは心臓が高鳴るのを禁じ得なかった。

 洞窟の奥へと進むにつれ、周囲の静寂は深まり、聞こえてくるのは水滴が水面に落ちるピチャンという微かな音だけになる。


「……なあ、アルベルト」

 ルナリスは、意を決したように、燕尾服の裾を小さく掴んだ。

「……はい、ルナリス様」

「貴殿は……バルバラのことを、どう思っているのだ? あやつは……その、貴殿のおかげで、随分と……女らしくなっただろう?」


 ついに出てしまった、自分の弱さ。

 魔王としてあるまじき、嫉妬の言葉。

 ルナリスは顔を伏せ、自嘲的な笑みを浮かべた。だが、アルベルトは櫂を止め、ゴンドラを水上の中央に静止させると、ゆっくりとルナリスの正面に座り直した。


「バルバラ様は、魔王軍の誇り高き将。磨き上げた結果、彼女が本来持っていた美しさが開花したことは、私の誇りでもあります」

 アルベルトの声は、どこまでも穏やかで、揺るぎない。

「ですが、ルナリス様。……勘違いしてはいけません」


 彼はルナリスの両手を、優しく、しかし有無を言わせぬ独占欲を込めて包み込んだ。

「バルバラ様は、貴女様を美しく彩るための『装飾品』。四天王はすべて、貴女様という唯一無二の主君を輝かせるための、輝石に過ぎません」


 アルベルトは、ルナリスの瞳をまっすぐに見つめ、一文字一文字を刻み込むように続けた。

「私のすべての奉仕は、私のすべての技術は、ただ貴女様一人のために存在します。……世界がどれほど多くの光で溢れようとも、私にとって、この世界を照らす唯一の『太陽』は、目の前にいる貴女様、ただお一人でございます」


 ルナリスの視界が、不意に潤んだ。

 自分が一番でありたかった。自分だけを見てほしかった。

 そんな子供じみた願いを、この男は、これ以上ないほど完璧な形で叶えてくれる。


「……アルベルト。貴殿は、本当に……悪い男だ」

 ルナリスは、彼の胸に顔を埋めた。

 洞窟の青い光の中で、二人の影は一つに溶け合い、水面を渡る風が、甘い密会を祝福するようにルナリスの髪を揺らした。


 だが、この甘やかな時間は、まだ始まったばかりである。

 アルベルトが用意した、この夜の「メインディッシュ」は、まだその姿を見せていなかった。


 地下湖の中央、静止した銀のゴンドラの上で、ルナリスはアルベルトの胸に顔を埋めたまま、震えるような吐息を漏らしていた。青く光る鍾乳石の群れが、水面に揺れる二人の影を幻想的に縁取っている。


「……アルベルト。貴殿の言葉は、時として魔王の威厳すらも溶かしてしまう。余を、これほどまでに無力な娘に戻して……どう責任を取るつもりだ」

「責任、でございますか」

 アルベルトは、彼女の柔らかな背中に腕を回し、慈しむように引き寄せた。

「その答えの一つとして、今夜のメインディッシュをご用意させていただきました。ルナリス様、お顔を上げてください。……世界を統治される貴女様に、相応しい光景を」


 アルベルトが空いた手で指を鳴らす。その刹那、鍾乳洞の静寂が、無数の光の粒によって塗り替えられた。

 彼が事前に仕掛けていた魔導具が起動し、洞窟の荒々しい岩肌に、かつて二人で見た「人間界の夜景」の幻影が投影されたのである。


 暗い湖面の上に、黄金色に輝く王都の灯火が浮かび上がり、天井のクリスタルには、魔界には存在しない「満天の星空」が映し出された。まるで、湖そのものが星の海へと変わり、二人が宇宙の真ん中で漂っているかのような錯覚。

「……あぁ、なんて……なんて美しいのだ」

 ルナリスは驚きに目を見開き、潤んだ瞳でその光景を見上げた。


「人間界の美しさを、魔界の技術で再現いたしました。……ですが、この輝きですら、今の貴女様の瞳には及びません」

 アルベルトは、ゴンドラの端に置かれたピクニックバスケットを開いた。中から現れたのは、凍らせた魔力結晶で冷やされたシャンパンと、真夜中にのみ花開く希少な『月下美人』を象った特製の繊細なスイーツだ。


「さあ、星空を眺めながら、しばしの休息を。今夜、この場所には、貴女を縛る義務も、貴女を狙う刺客も、そして……貴女の時間を奪う四天王もおりません」

 アルベルトは、ルナリスの口元へ、瑞々しい果実を添えた。

「あ……」

 ルナリスは吸い寄せられるように、その果実を食む。甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、それと同時に、アルベルトの指先が彼女の唇に、確信犯的なまでの長さで触れた。


 ルナリスの体温が、一気に跳ね上がる。

「……アルベルト。貴殿は、余を甘やかす天才だな。……だが、先ほど言ったはずだ。バルバラは『装飾品』だと。……ならば、あやつにもこのような事をするのか?」

 ルナリスの問いは、もはや嫉妬ではなく、執事への甘え、そして「自分だけの特別」を確認するための、切実な願いだった。


 アルベルトは、彼女の問いに答える代わりに、彼女の腰を引き寄せ、至近距離でその瞳を覗き込んだ。

「バルバラ様には、騎士としての『誇り』を与えました。ですが、ルナリス様、貴女様にだけは、私の『魂』を捧げております。……これほどの手間と時間を、一人の女性のために費やすなど、執事としては失格、一人の男としては本望でございますよ」


 アルベルトの大きな掌が、ルナリスの頬を包み込む。親指で彼女の唇を優しくなぞり、そのまま逃げ場を奪うように、彼女の額へとゆっくりと顔を近づけた。

「ルナリス様。……これは、契約以上の、私個人の独占欲です」


 吸い込まれるような沈黙の後、アルベルトはルナリスの白い額に、深く、刻印を刻むような熱いキスを落とした。

「…………っ!!」

 ルナリスは、その衝撃に指先まで痺れ、声にならない声を漏らした。

 魔王の体に触れるのは万死に値する禁忌。ましてや、これほどまでに親愛を込めた接吻など、歴史のどこを探しても存在しない不敬。

 だが、ルナリスはその不敬を、どんな宝石よりも愛おしく、そして誇らしく感じていた。


「……あ、アルベルト……。もう、逃がさぬぞ。貴殿を、誰の手にも、渡さぬ。……たとえ、この世界すべてを敵に回しても、貴殿は余の……余だけの、執事だ」

「御意のままに、マイ・レディ。……私の忠誠も、私の愛情も、すべては貴女という太陽の影の中にございます」


 投影された星空がゆっくりと瞬き、二人の時間を祝福するように水面に波紋が広がっていく。

 ルナリスは、アルベルトの腕の中で、完全に一人の恋する少女として、幸福な眠りへと誘われていった。

 魔王の孤独は、今この瞬間、完璧に癒やされたのである。


 しかし。

 そんな至高のロマンスを、遠く時計塔の影から「観測」している者がいた。

 四天王の参謀、メルヴィ。

 彼は、自らの水晶体に映し出された湖上の光景を眺めながら、不敵に、そしてどこか期待に満ちた笑みを浮かべていた。


「……あはは。魔王様、すっかり骨抜きにされちゃって。……でも、執事さん。恋の甘さは、時として『知恵』を狂わせる毒になるんだよぉ」

 メルヴィは、手元のガラクタの中に埋もれた、巨大な魔法計算機を叩いた。

「さて……。僕の部屋の『ゴミの迷宮』を、君がどう掃除しに来るか。……楽しみに、待ってるからねぇ」


 魔王との絆を深め、確固たる地位を築いたアルベルト。

 だが、次なる試練は、肉体のケアやマナーでは通用しない、「知の混沌」との戦い。

 一人の執事が、世界最高知能のゴミ屋敷を前に、いかにして「断捨離」を敢行するのか。


 物語は、魔王城最大の魔窟、参謀室へと突き進む。



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