第11話:深淵の時計塔
魔王城「パンデモニウム」の北端に位置する、天を衝くような黒石の時計塔。
そこは、城内で最も「知」が集中し、かつ最も「不浄」が放置された聖域にして魔窟――四天王の参謀、メルヴィの私室兼研究室である。
アルベルトは今、その巨大な扉の前に立っていた。
手には、使い込まれたが一点の曇りもない掃除用具一式。そして、人間界の最高級洗剤と、あらゆる細菌を根絶する殺菌魔法を封じたスプレーが、彼の腰に装備されている。
「……さて。将軍の『肉体』を磨き上げた次は、この国の『知能』を整理整頓するとしましょうか」
アルベルトは無表情に、しかしその瞳には掃除屋としての激しい情熱を宿し、ノックもなしにその扉へと手をかけた。
本来、四天王の私室に許可なく入ることは不敬とされるが、今のアルベルトには魔王ルナリスから授かった『全権委任状』がある。
ギィィィ……。
重厚な扉が開かれた瞬間、アルベルトを襲ったのは、物理的な衝撃だった。
「……ッ!?」
ドサドサッ! という雪崩のような音と共に、扉の隙間から数百年分の「ガラクタ」と「未整理の書類」が溢れ出したのである。
アルベルトは電光石火の身のこなしでそれを回避したが、目の前に広がる光景には、流石の彼も僅かに頬を痙攣させた。
そこには、床が見えないどころか、壁すらも見えない「堆積物」の山があった。
食べかけのまま石化した魔獣の干し肉、用途不明の壊れた魔導具、埃を被った数万冊の魔導書、そして、それらの隙間を縫うように張り巡らされた、怪しく光る魔導回路のケーブル。
部屋の奥からは、カチカチと時計の針が刻む音と、何かが沸騰するような不気味な音が響いている。
「……素晴らしい。これはもはや、部屋ではなく『遺跡』ですね。執事として、やりがいがありすぎて吐き気がいたします」
アルベルトは白い手袋をきつく締め直すと、ゴミの山を掻き分けて奥へと進んだ。
山積みの古文書の上に、一人の少年のような風貌の人物が、胡坐をかいて座っていた。
乱れた薄紫色の髪、隈のひどい眠たげな瞳。彼こそが、魔界一の知能を持ちながら、自分の靴下の場所すら把握していない男――参謀メルヴィである。
「あはは。……誰かと思えば、噂の執事さんじゃないかぁ。……勝手に入ってきちゃダメだよぉ。僕の計算、あと三百年くらいで終わるところだったんだからぁ」
メルヴィは手元の巨大な羊皮紙に、常人には理解不能な数式を書きなぐりながら、顔を上げずに言った。
「メルヴィ様。三百年待つ必要はありません。私が三十秒で、この惨状を『無』に帰して差し上げます」
「えぇ……。掃除なんて無駄だよぉ。僕の頭の中は整理されてるし、どこに何があるかは……えーっと、たぶん、その足元のゴミの下にあるはずだしぃ……」
「……メルヴィ様。貴方の仰る『整理』とは、この腐敗した悪臭や、今にも発火しそうな魔導ケーブルの束も含まれているのですか?」
アルベルトは、足元に落ちていた「百年前に賞味期限が切れたジャムの瓶」を摘み上げた。
「これは不衛生極まりない。主人の知能を司る貴方の脳が、このようなカビと埃の温床で正しく機能しているとは到底思えません。……ルナリス様も、貴方の健康状態をひどく案じておいでです」
「ルナリス様がぁ? ……あはは、優しいねぇ。でも、僕はここが好きだよぉ。……知恵は混沌から生まれるんだよ、執事さん」
メルヴィは不敵に微笑むと、指先を軽く振った。
瞬間、部屋中のガラクタが意思を持ったように動き出し、アルベルトを囲むように「ゴミの壁」を形成した。
「ここから先は、僕の迷宮だよぉ。……掃除したいなら、僕の魔法計算を邪魔せずに、この山を一つずつ紐解いてみせてよぉ。……できないなら、一生そこで埃と一緒に眠っててねぇ」
アルベルトの周囲を、重力無視で浮遊するゴミと魔導書が埋め尽くす。
それは、メルヴィが自身の私室に施した、最高位の防御魔法――『知識の回廊』。
侵入者の精神を情報の濁流で押し潰し、物理的な接近を拒む、知の要塞である。
しかし、アルベルトは冷徹な笑みを浮かべた。
「……なるほど。整理整頓を、知恵の対決と勘違いされているようですね。……よろしい。ならば、執事の『分類学』が、貴方の混沌をいかに美しく解体するか、その目に焼き付けるがいい」
アルベルトは懐から、人間界の伝説的な掃除用具――『万物を吸い込む魔導箒』を取り出した。
「メルヴィ様。貴方の迷宮は、私に言わせれば『捨てられない人の言い訳』でしかありません。……さあ、断捨離を始めましょう」
アルベルトが箒を一閃させた瞬間、部屋中に猛烈な真空の渦が巻き起こった。
それはただの突風ではない。アルベルトの魔力によって「不要なもの」だけを識別し、物理的に消去・圧縮する、掃除の極致。
「な……っ!? 僕の、僕の貴重なガラクタたちがぁ!?」
メルヴィが初めて驚愕の表情を見せた。
アルベルトの「掃除」は、メルヴィの計算式を一切乱すことなく、その周囲の不浄だけを、外科手術のような正確さで切り取っていく。
「埃は肺を汚し、カビは思考を鈍らせます。……貴方の知能は、私の管理下でこそ、真の輝きを放つのです」
アルベルトの冷たく、しかし情熱的な瞳が、ゴミの山の向こう側にいるメルヴィを捉えた。
魔王城最大のゴミ屋敷。
知恵の化身と、完璧な執事。
二人の「整理整頓」を巡る、奇妙で壮絶な戦いが、今ここに幕を開けたのである。




