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第8話:戦場のマナーと銀の食器

 魔王城「パンデモニウム」の朝食。それはかつて、この世の地獄を具現化したような光景であった。

 巨大な円卓の上には、毛がついたままの魔獣の腿肉が山積みにされ、配下の魔族たちはそれを各々が自慢の牙や爪で引きちぎり、血の滴るままに咀嚼する。骨を砕く不快な音と、獣じみた唸り声。それが、この城における「力」の証明であり、唯一の食作法であった。


 だが、その野蛮な伝統は、一人の男の登場によって無残にも粉砕されることとなる。


「……バルバラ様。四度目です。その汚れた指を、二度とテーブルクロスで拭わないでいただけますか?」

 アルベルトの冷徹な声が、食堂の喧騒を瞬時に凍りつかせた。


 現在の食堂は、アルベルトの手によって劇的な変化を遂げていた。

 埃一つない大理石の床、天井から吊るされたクリスタルのシャンデリア。そしてテーブルには、人間界の最高級の織りで作られた白一色のクロスが敷かれ、磨き上げられた銀の食器が、まるで儀式用具のように整然と並んでいる。


 その優雅な空間の真ん中で、将軍バルバラは、皿に盛られた最高級のローストビーフを前に、借りてきた猫のように固まっていた。

「あ、あん? 何がだ、アルベルト。食事は戦いだ。一番効率よく腹に入れ、戦場へ向かう。これが魔族の、俺のやり方だ!」

 バルバラは虚勢を張るが、その右手は無意識に肉を掴もうとして、アルベルトの鋭い視線に射抜かれ、空中で止まっている。


「バルバラ様。貴女は今、魔王ルナリス様の正面に座っておいでです」

 アルベルトは無言で歩み寄ると、バルバラの手を優雅に、しかし逃げ場を許さない力強さで押さえつけた。

「主人が、手間暇かけて調理された繊細な料理を、一滴のスープもこぼさず優雅に楽しんでおられるその前で。……貴女は、野生のオークのように肉を食らい、ソースを飛び散らせ、その美しい軽装鎧を油塗れにする。それが、忠義を誓った者のすることですか?」


「うっ……それは……」

 バルバラが視線を向けると、ルナリスは困ったように、しかしどこか楽しげに微笑みながら、小鳥のような仕草でフォークを操っていた。

「バルバラ、余は気にしておらぬと言えば嘘になるが……。アルベルトが丹精込めて作った料理だ。もう少し、敬意を払ってやってもよいのではないか?」


「……っ!!」

 魔王からの「遠回しな落胆」。それはバルバラにとって、心臓を直接握り潰されるよりも苦痛な言葉だった。

「わ、わかった! やればいいんだろう、やれば! アルベルト、その……道具の使い方を教えろ!」


 その日の午後、練武場での訓練は中止された。

 代わりにバルバラが連れて行かれたのは、一面に鏡が張られた「マナー訓練室」である。


「いいですか、バルバラ様。マナーとは、自分を縛る鎖ではありません。相手に『私は貴方を害する意志はなく、貴方との時間を尊重している』と伝えるための、最も静かな武器なのです」

 アルベルトはバルバラの背後に立ち、彼女の逞しくも美しい両腕を、背後から包み込むようにして操り始めた。


「ひ……っ! おい、密着しすぎだ、不敬だぞ!」

「集中してください。ナイフは力で押し切るものではありません。引くのです。貴女が敵の喉元を掻き切る時のように、冷徹に、かつ繊細に」

 アルベルトの吐息が耳元にかかり、バルバラの首筋に鳥肌が立つ。

 鎧を脱いだ彼女の肌は、アルベルトの連日のケアによって、驚くほど過敏になっていた。指先が少し触れるだけで、脳を揺らすような熱が全身を駆け巡る。


「肘を上げない。肩の力を抜いて。……そうです、その角度です。バルバラ様、貴女の指先は、本来はこれほどまでに美しい旋律を奏でられるはずなのです」

 アルベルトの細く長い指が、バルバラの指に重なり、銀のフォークを誘導する。

 戦場での死闘よりも張り詰めた緊張感。バルバラは額に汗を浮かべ、自分の怪力を「ミリ単位」で制御する苦行に挑んでいた。


「……どうだ。これで、文句はないだろう」

 数時間の格闘の末、バルバラは皿の上の模造料理を、一度も音を立てずに、完璧なサイズに切り分けた。

「……及第点です。では、本番といたしましょう」


 その夜、魔王城の中庭、月光が降り注ぐテラス。

 アルベルトは、ルナリスとバルバラ、そして自分を含めた「三人」での晩餐を演出した。


 運ばれてきたのは、魔界の海で獲れた希少な白身魚のポワレ、焦がしバターのソースを添えたもの。

 バルバラは、昼間の特訓を思い出しながら、慎重に、かつ優雅に食器を動かした。彼女の動作は、かつての荒々しさが嘘のように洗練され、月の光を浴びる白銀の鎧と相まって、一人の高潔な「騎士」としての美しさを完成させていた。


「素晴らしい……! バルバラ、貴殿はいつの間にこれほどまでの所作を身につけたのだ。まるで、光の国の近衛騎士長を見ているようだぞ」

 ルナリスの感嘆の声。

「魔王様……。俺は、貴女様の傍らに立つ者として、恥じぬ姿でありたいと思ったまでです」

 バルバラは、頬を微かに赤らめ、静かにワイングラスを傾けた。その所作には、アルベルトが教え込んだ「余裕」という名の気品が宿っていた。


 ルナリスは満足げに、アルベルトに視線を送った。

「アルベルト。貴殿は、余の荒ぶる将軍を、これほどまでの名玉に磨き上げたか。……貴殿をこの城に招いたことは、余の人生で最大の英断であったな」

「もったいなきお言葉でございます、ルナリス様」


 バルバラは、ルナリスの心からの笑顔を見て、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 自分を磨くことが、これほどまでに主人を喜ばせ、そして自分自身の誇りに繋がるとは。その扉を開けたのは、今、背後で完璧な姿勢で控えている、この不遜で有能な執事なのだ。


(……認めざるを得ないな。こいつの言う通りに動けば、俺はもっと、魔王様のお役に立てる……)

 バルバラは、アルベルトが淹れた食後のコーヒーの香りに包まれながら、密かに決意を新たにした。


 しかし。

 その和やかな風景を、城の最上階、時計塔の影から見つめる者がいた。

 四天王が一人、参謀メルヴィ。


「……あはは。武力バルバラが、あんなに『お行儀よく』されちゃって。執事さん、君は本当に面白いね。……でも、次は『知識』の迷宮だよ。僕の部屋のゴミの山を、君はどう料理してくれるのかな?」


 次なる標的、生活能力皆無の天才参謀メルヴィの不敵な笑みが、夜の闇に溶けていった。


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