第57話:世界調律(ワールド・マネジメント) 〜不変の秩序〜
魔王城「パンデモニウム」の最上層に新設された「世界調律室」。そこは、かつての作戦会議室とは一線を画す、幾何学的な魔力回路が床一面に張り巡らされた、巨大な情報処理の聖域となっていた。
中央の制御座に座るアルベルトは、モノクルの奥で、大陸全土から吸い上げられる膨大な「不全」の数値を、瞬き一つせず見据えていた。
「……アルベルト。貴殿、今朝から一度も椅子を立っていないのではないか? 余との『朝の散策』を、通信魔術による代理視察で済ませるなど、規律違反も甚だしいぞ」
ルナリスは不機嫌そうに、しかしその瞳には深い信頼を宿して、アルベルトの肩に手を置いた。
「ルナリス様、ご容赦を。今、西方の小国で干ばつによる農業管理不全が起きております。……原因は水源の魔力汚染。……今ここで私が、遠隔にて土壌の『洗浄』を執り行わねば、数万人分の労働力が不毛な死によって損なわれることになります」
アルベルトの指先が空中を舞う。彼が空中に描いた魔導数式が、城の増幅炉を経て、数千キロ彼方の小国へと不可視の「管理の光」として射出された。
その瞬間、画面越しの視察映像では、濁っていた水源が一瞬にしてクリスタルのように透き通り、枯れかけていた大地が瑞々しさを取り戻していく様が映し出された。
「……終わりました。次は北方の紛争地帯における、感情的対立による『ノイズ』の排除ですね。……バルバラ様、準備は?」
「おう! いつでもいけるぜ、アルベルト!」
別室に控えるバルバラの声が響く。
「俺たちの軍勢は今や、戦う必要すらない。……貴様の描いた『最短の進軍ルート』で現地に現れ、貴様の構築した『圧倒的威圧の結界』を張るだけで、奴らは戦意という名の不潔な闘争心を失って、その場に跪くんだからな」
アルベルトの管理は、もはや「家事」の域を完全に超越し、世界の物理法則と社会構造そのものを「至高の執事の規律」へと書き換え始めていた。
彼は魔王城から一歩も動くことなく、大陸全土の飢饉を「栄養管理不全」として、紛争を「対人マナーの欠如」として、そして疫病を「広域衛生管理の怠慢」として、次々と修正していく。
「あはは……。アルベルトさんの頭脳と僕の演算回路が直結してから、世界の正解を出すのが、あくびが出るほど簡単になっちゃったよぉ……」
メルヴィは、アルベルトの足元で、彼の魔力供給を補助する装置に身を委ねていた。
「……あたいも。……影を通じて、世界の隅々まで『監視の目』を張り巡らせておいたよ。……不潔な陰謀の芽は、育つ前にあたいの短剣で摘み取ってある」
ゼノビアの影が、大陸全域の情報網として機能し、アルベルトの管理精度を絶対的なものにしていた。
聖教国の管理を任されたセレレスからも、定期的に「最適化完了」の報告が届く。
一人の執事が、一国の主人のためだけに磨き上げた技術。それが今、世界を一つの「巨大な家」として認識し、完璧なまでの清潔さと平穏を強いているのだ。
「……アルベルトよ。貴殿のその指先が動くたびに、世界が……余たちの城と同じ、一点の曇りもない美しさに塗り替えられていくな」
ルナリスは、全感覚を大陸に同期させているアルベルトの頬を、そっと撫でた。
「……だが、これでは貴殿が、世界中の主人のものになってしまったようで、少し癪に障るぞ」
「……滅相もございません、ルナリス様。……私が世界を整えるのは、貴女様という唯一の主人が、この世界のどこへ旅をなされても、一粒の塵すらそのドレスを汚さぬようにするため。……この大陸すべては、貴女様の『庭』に過ぎないのですから」
アルベルトの不敵な微笑が、大陸全土に張り巡らされた魔導ネットワークを通じて、無意識下の全人類に「絶対的安寧」の予感を植え付けていく。
だが、その完璧な「管理社会」の完成を目前にして、最後の、そして最大級の『不潔な反発』が、世界の極北で胎動していた。
世界の極北、「忘却の氷原」。そこは理性が届かぬ混沌の掃き溜めであり、アルベルトが構築した「至高の規律」に対する、世界最後の拒絶反応が渦巻く場所であった。
突如として噴出したのは、実体を持たぬ黒い霧――人々の「無能でいたい」「不潔でありたい」「自堕落でありたい」という、負の欲望が凝集した古の魔神『カオス・シミ』であった。
「……あはは。あれは僕の演算でも『定義不能な汚れ』だよぉ。世界中の不満が、一つの巨大なカビになっちゃったみたいだねぇ」
魔王城のモニター越しに、メルヴィが戦慄の声を上げる。黒い霧は触れるものすべてを腐食させ、アルベルトが整えた石畳を砕き、清浄な空気をドロドロとした毒気に変えていく。
「……不潔極まりない。主人の庭に、これほど大規模な『害虫』の発生を許すとは。執事として、末代までの恥辱です」
制御座に座るアルベルトの瞳が、かつてないほど冷徹な、殺気にも似た「義務感」で燃え上がった。
「アルベルト! 余も出陣するぞ! あの不快な霧、余の魔力で根こそぎ焼き払ってやる!」
「ルナリス様、お控えください。主人が自ら害虫駆除に手を染める必要はありません。……これは、清掃の範疇です」
アルベルトは立ち上がり、燕尾服の襟を正すと、右手をゆっくりと虚空へ伸ばした。
「大陸全土に配置した『調律杭』、全基稼働。……焦点、極北カオス・シミ。……これより、世界規模の『大洗浄』を執行します」
アルベルトが指をパチンと鳴らした瞬間、大陸各地に打ち込まれていた魔力中継地点から、天を貫く白銀の光柱が立ち上がった。それらは網の目のように連結し、世界全体を一つの巨大な「洗濯機」のごとき魔力循環回路へと変貌させたのである。
「……バルバラ様、メルヴィ様、ゼノビア様、カサンドラ様、そしてセレレス。……貴女たちの魔力を私に預けなさい。……汚れを落とすには、一点の曇りもない『純粋な愛(規律)』が必要です」
最高幹部五人と聖女、そしてアルベルトの意志が一つに重なった。
極北で暴れる黒い霧。それに対し、アルベルトは城から放たれた「究極の洗浄魔力」を、まるで一枚の白い布を操るかのように精密に制御し、霧の核心を捉えた。
「……消えなさい。私の規律を乱す、不必要な『汚れ』よ」
白銀の閃光が極北を包み込んだ。
それは破壊の光ではなく、あらゆる不純物を分解し、元の清浄な魔力へと還元する「至高の家政魔術」。『カオス・シミ』は、アルベルトの放つ圧倒的な規律の前に、叫び声を上げることすら許されず、一瞬にして漂白され、消滅した。
光が収まった後、モニターに映し出されたのは、不毛の地であったはずの極北に咲き誇る、一点の穢れもない純白の花畑であった。
「……ふぅ。……少々、洗剤(魔力)の濃度が強すぎたでしょうか。……ですが、これで世界から『目に見える汚れ』は一掃されました」
アルベルトは再び座に就き、乱れた髪を一撫でで整えた。
世界全土が、魔王城と同じ静謐な秩序に包まれた。
もはや紛争も、飢饉も、そしてアルベルトに反旗を翻す「不潔な意志」も存在しない。
人々は一人の執事がもたらした「管理される多幸感」の中に沈み、世界は一つの巨大な、そして完璧な「魔王城の庭」へと昇華されたのである。
「……終わったのだな、アルベルト。……貴殿は、本当の意味で世界を『手に入れた』のだ」
ルナリスが、安堵と、そして誇らしさを込めてアルベルトの肩を抱いた。
「いいえ、ルナリス様。……私は何も手に入れてなどおりません。……私はただ、貴女様という唯一の主人が、永遠に美しく、快適に過ごせるための『環境』を整え終えただけに過ぎないのですから」
アルベルトの視線は、大陸の果てではなく、目の前のルナリスへと注がれていた。




