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第56話:執事の起源と、語られざる規律

 魔王城「パンデモニウム」の最奥、アルベルトの私室。

 成婚後、ルナリスにとってこの部屋は「主従の境界が溶け合う聖域」となっていたが、今日、彼女がその一角にある重厚な黒檀の棚から見つけ出したのは、一冊の古びた、しかし執拗なまでに手入れされた革綴じの日誌であった。


 それは、アルベルトがこの城に赴任する遥か以前、人間界の宮廷で筆頭執事の座に就いていた頃の「業務記録」……いや、彼という一個人を形作った「規律の原典」と呼ぶべき代物であった。


「……アルベルト。貴殿の過去を暴くつもりはないが、余は知らねばならぬのだ。貴殿がいかにして、これほどまでに無慈悲で、そして美しい『完璧』へと至ったのかを」


 ルナリスは震える指先で、その頁を捲った。

 そこに記されていたのは、あまりに凄絶で、あまりに機能的な「自己の抹殺」の記録であった。


 幼少期より執事としての英才教育を受けたアルベルト。彼の日誌には、喜怒哀楽といった感情の機微を「管理不全の原因となる不純物」として一つずつ削ぎ落としていく過程が、冷徹な筆致で綴られていた。

 『〇月〇日:主人の気まぐれによる理不尽な叱責に対し、心拍数の変動を三秒以内に抑制することに成功。……感情は、家政の効率を著しく低下させるシミに過ぎない。』

 『〇月〇日:睡眠時間を三時間に固定し、残りの二十一時間を主人の環境維持に投下。……自己の休息を優先するのは、執事としての死と同義である。』


 読み進めるにつれ、ルナリスの心には、激しい憤怒と、締め付けられるような悲愛が渦巻いた。

 アルベルトの「完璧」は、天賦の才だけで成ったものではない。人間界という、不完全で身勝手な主人たちの欲望を支えるために、自らを「意思を持たぬ最高級の装置」へと作り変え続けた、孤独な闘いの産物だったのだ。


 さらに、日誌の後半には、彼が人間界を去るきっかけとなった「不潔な記憶」が記されていた。

 当時の主君――人間界のある公爵は、アルベルトのあまりに完璧な管理能力に、救いではなく「恐怖」を感じ始めていた。

 『主人は私の目を見ることを避けるようになった。……私が彼の失態を無言で修正するたび、彼は自らの無能さを突きつけられ、私を「人間」ではなく、自分の地位を脅かす「不気味な怪物」として忌避する。……完璧であることは、無能な者にとっては暴力となり得る。』


 そして、ついに綴られた最後の一行。

 『私は、不当な解雇を受けた。……理由は「完璧すぎて不気味である」から。……もはや、私を使いこなせる主人など、この地上には存在しないのだろうか。』


 ルナリスは、日誌を閉じ、強く胸に抱きしめた。

 人間たちは、彼という至高の宝石を、自分たちの「鏡」として直視する勇気がなかったのだ。彼の差し出す究極の安らぎ(お世話)を、支配という名の暴力だと勘違いし、彼を闇へと葬り去ろうとした。


「……許さぬ。貴殿を道具と呼び、貴殿の規律を化け物扱いしたあの無能どもを……余は、決して許さぬぞ、アルベルト……」


「……おや。ルナリス様。私の私物を勝手に閲覧するのは、マナーに反しますよ」


 背後から響く、聞き慣れた、しかしどこまでも揺らぎのない低い声。

 振り返ると、そこには一点の曇りもない燕尾服を纏い、モノクルの奥で平然と瞳を光らせるアルベルトが立っていた。


「……アルベルト。……貴殿、これほどまでに……独りで戦ってきたのか」

「戦ってなどおりません。私はただ、執事としての規律を守り、不浄を排してきただけです。……その日誌にあるのは、私が『不適格な部品』として捨てられた、単なる過去の清算記録に過ぎませんよ」


 アルベルトは、ルナリスの手から日誌を優雅に奪い取ると、それを塵一つない棚へと戻した。

「……さあ、ルナリス様。不潔な過去の話はここまでです。……主人の瞳に涙の汚れが溜まっている。……今すぐ、私の指先で、その歪んだ感情を『調律』し直して差し上げましょう」


 アルベルトの不敵な微笑。

 だがルナリスは、今夜ばかりは、彼の指先に平伏すだけでは終わらなかった。

「……待て、アルベルト。……貴殿が余を磨くというのなら、余もまた、貴殿を『磨き直して』やる。……貴殿を独りにしたあの過去を、余の……余だけの、絶対的な『愛(支配)』で、跡形もなく塗り潰してやるのだ!」


 主従の絆は、ついに「過去」という名の最後のシミを洗浄するために、かつてないほどに深く、激しい共鳴を始めようとしていた。


 アルベルトの「起源」を記した日誌を閉じ、ルナリスは迷いなく彼の胸に飛び込んだ。

 普段ならばアルベルトが「主人の姿勢が乱れます」と優雅に嗜めるところだが、今夜のルナリスが放つ魔力は、拒絶を許さぬほどに苛烈で、執着に満ちていた。


「アルベルト……貴殿を『気味が悪い』などと評した者たちは、自らの心の濁りに眼を焼かれた盲目に過ぎぬ。貴殿の完璧さは、余にとっては救いそのものだ。貴殿に管理される悦びを知らぬ無能どもの記憶など、今ここで余がすべて焼き尽くしてやる!」


「……ルナリス様。感情の昂ぶりは、至高の調律メンテナンスを妨げます。……ですが、主人がそこまで仰るなら、私の過去という名の『汚れ』、貴女様の御手で、お好きなように再編エディットなさい」


 アルベルトは上着を脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを自ら外した。

 露わになった彼の胸元。そこには、幼少期からの過酷な自己規律によって鍛え上げられた、一点の無駄もない鋼の肉体があった。ルナリスはその肌に直接掌を当て、自身の魔力を、慈しむように、そして支配的に流し込んだ。


「あ、あああああッ……! ルナリス様、これは……」

「黙れ、アルベルト。今は余が、貴殿を『お世話』する番だ。貴殿の魂にこびり付いた、あの冷たい人間たちの視線を、余のこの熱で上書きしてやる」


 ルナリスの魔力は、アルベルトの魔力回路の深部まで侵食し、彼の記憶の澱みを一つずつ「洗浄」していった。

 アルベルトを「道具」として扱った者たちの冷酷な声が、ルナリスの「愛している、余には貴殿が必要だ」という情熱的な囁きに塗り替えられていく。

 完璧であることが罪だった過去。それが、今この瞬間、魔王城における「至高の正解」へと昇華されたのである。


 アルベルトのモノクルの奥で、初めて、規律ではない「人間としての情動」が僅かに揺らめいた。

「……はぁ、はぁ……っ。……ルナリス……様。……これでは、私が……私自身の規律プライドさえも、貴女様に預けてしまうことになります……」


「それで良い。貴殿の規律は、余が管理する。貴殿の孤独は、余が共有する。……貴殿はもう、独りで完璧である必要はないのだ。余と共に、この完璧な世界を支配し続ければよい」


 アルベルトは、自分を「執事」としてではなく、一人の「男」として、そして「唯一無二の伴侶」として包み込むルナリスの腕の中で、初めて真の意味での安息を知った。

 彼の指先がルナリスの背中を抱き寄せ、その項に深く顔を埋める。

「……御意のままに、ルナリス。……私の過去を洗い流してくれた、愛しき主人レディ。……これよりは、私の規律のすべてを、貴女様を輝かせるためだけに再構築いたしましょう」


 翌朝。

 アルベルトの立ち姿は、以前にも増して神々しいまでの「完成」を見せていた。

 彼の過去を知ったルナリスは、もはや一点の不安もなく、彼に身も心も預けきっている。そして、それを見守る最高幹部たちもまた、アルベルトが「人間界に捨てられた宝石」であったことを知り、彼への依存と忠誠をより一層深めていた。


「……バルバラ、メルヴィ、ゼノビア、カサンドラ。……そしてセレレス。……今日からのアルベルトの管理は、以前よりもさらに『徹底的』になる。……あやつはもはや、過去のしがらみを捨て、この城のすべてを完璧に調律することに魂を捧げたと決めたからな」


 ルナリスの言葉通り、アルベルトの指先は、もはや一国の枠を超え、世界全体の「不全」を感知し始めていた。

 一人の執事による、永劫に続く世界調律。

 その壮大なる計画が、今、魔王城「パンデモニウム」から静かに、しかし確実に出撃を開始しようとしていた。


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