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最終話:永劫なる調律と、至高の主従

 魔王城「パンデモニウム」の最上階。外界から隔絶されたその空間には、数百年という歳月の概念が、アルベルトという一人の執事によって「停止」させられていた。


 午前五時五十九分。

 一点の曇りもない漆黒の燕尾服を纏ったアルベルトは、静寂が支配する回廊を、一ミリの狂いもない歩調で進んでいた。彼の足音が響くたび、床に敷き詰められた白大理石は鏡のように磨き上げられ、微細な塵さえも排除された絶対的な清潔さが、その歩みの後ろに跡付けられていく。

 アルベルトが右手を僅かに上げ、白手袋のシワをミリ単位で整える。その動作一つで、城全体の魔力回路が、冬眠から覚める大蛇のように拍動を始めた。壁面を流れる魔力灯の明度は、主人の目覚めに最適な「月光に近い淡い暖色」へと自動的に調整され、室温は湿度の変化に合わせて、皮膚が最も安らぎを感じる二十四.八度へと固定される。


 アルベルトは、主人の寝室の扉の前に立つと、一度だけ深く、規律に満ちた一礼を捧げた。

「……おはようございます。ルナリス様。……いえ、私の愛しき、唯一の管理者(主人)」


 音もなく開かれた扉の先。そこには、数世紀前と変わらぬ瑞々しさを保った魔王ルナリスが、シルクの天蓋の下で眠りに就いていた。

 アルベルトは、彼女を包む空気の層から「不浄」を徹底的に排除するため、窓のカーテンをゆっくりと開いた。だが、それは単なる起床の合図ではない。彼は窓の外から差し込む鋭い朝日を、自身の魔力で濾過し、網膜に負担をかけない柔らかな「黄金の霧」へと変質させて室内へ招き入れた。


「ん……、あ……」

 ルナリスの真紅の瞳が、ゆっくりと、しかしどこか虚ろに開かれた。

 数百年という時を経て、彼女の肉体はアルベルトの調律メンテナンスにより、全盛期の美しさで凍結されている。細胞の一つ一つにまでアルベルトの規律が染み込み、老化という名の「汚れ」を寄せ付けない。だが、その代償として、彼女の精神はアルベルトの指先に触れられていなければ、自分自身の存在すら確信できないほどの深い依存の海に沈んでいた。


「……アルベルトか。……あぁ、やはり……貴殿の声が、余の魂を……呼び戻してくれる」

 ルナリスは、力なく手を伸ばした。彼女には、もはや自力でベッドから立ち上がる意思さえ必要なかった。アルベルトが、彼女の腕を取り、まるでおもちゃの精密機械を扱うかのように丁寧に、慈しむように引き起こす。


「ルナリス様。今朝は僅かに魔力核の回転が早すぎるようです。昨夜、私を想うあまり、思考の澱みが溜まったのではありませんか?」

 アルベルトは、体温と同じ温度に温められた特製の蒸しタオルを手に取った。それは魔界の深淵にのみ咲く「安息の花」を蒸留した水で浸されたもので、ルナリスの項から背中にかけて、吸い付くような手つきで滑らせていく。


「ひ……っ、あぁ…………ッ!!」

 ルナリスの身体が、電流を流されたように跳ねる。タオル越しに伝わるアルベルトの魔力が、彼女の皮膚から分泌された微細な老廃物を一瞬で中和し、同時に精神を蕩けるような多幸感で満たしていく。

「……反則だ。……貴殿の指先は、なぜ……数百年経っても、これほどまでに……余を、支配するのだ」


「私は執事。主人の資産を最高価値に保つのが義務ですから。……さあ、目を開けて。……口を、開けてください」

 アルベルトが差し出したのは、クリスタルのグラスに注がれた「目覚めの薬湯」。

 ルナリスは、雛鳥のように無垢な表情でその杯を受け入れ、アルベルトの手によって流し込まれる規律の味を享受した。彼女の胃腸の動きが完璧に正常化され、全感覚が、一人の男に「管理されている」という至上の安心感の中で起動していく。


 身支度の仕上げに、アルベルトは彼女の髪を一房ずつ梳いていく。

 一点の絡まりも、一色の曇りもない、月光を編んだような銀髪。

「……完璧です、マイ・レディ。……本日も、貴女様は世界で最も美しく、最も正しく、私の管理下にあります」


 アルベルトに抱き上げられ、バルコニーへと運ばれたルナリスは、そこから見える景色に目を細めた。

 かつては荒廃した魔界の原野。しかし今、そこにはアルベルトが整えた、大陸全土を跨ぐ「至高の庭園」が広がっていた。遠くに見える衛星国家(旧聖教国)の尖塔も、彼の規律に従って美しく輝いている。


「……アルベルト。……余の庭は、本当に……一点の汚れもないな」

「はい。……貴女様を輝かせるための背景セットとして、世界そのものを調律いたしました。……さあ、参りましょうか。……階下では、貴女様の降臨と、私の『給仕』を渇望する者たちが、規律正しく……しかし狂おしい期待を持って、待機しておりますよ」


 アルベルトは、ルナリスの手を取り、城の深部へと続く回廊へ足を踏み出した。

 数百年変わらぬ、そして永遠に変わることのない、至高の朝。

 一人の執事による「世界で最も美しく、残酷な慈悲」は、今日も完璧なマナーと共に、その幕を開けたのである。


 魔王城「パンデモニウム」の最上階、空中庭園を見渡す大食堂「深淵の広間」。

 そこは、数世紀の時を経てなお、アルベルトの完璧な管理がもたらす「多幸感という名の毒」に侵され続けた女たちが集う、世界で最も甘美な檻であった。


 白大理石の円卓に並ぶのは、かつて大陸を震え上がらせた最強の軍門。だが、今この場にいる彼女たちに、かつての苛烈な覇気は微塵もない。

 将軍バルバラ、参謀メルヴィ、諜報員ゼノビア、筆頭カサンドラ、そして聖女セレレス。

 彼女たちは、アルベルトが用意した至高の礼装に身を包み、一点の乱れもない姿勢で、しかし瞳には「獲物」を待つ飢えた獣のような、あるいは慈悲を待つ信徒のような熱烈な期待を宿して、主従の入室を待っていた。


 重厚な扉が開かれ、アルベルトにエスコートされたルナリスが姿を現す。

 その瞬間、広間の魔力濃度が一気に跳ね上がった。


「……皆様。……おはようございます。……今日も、私の規律を乱さず、美しく控えておられましたね」

 アルベルトの声が響く。彼はルナリスを上座へと座らせると、音もなく燕尾服の袖を、その逞しい前腕が剥き出しになるまで捲り上げた。


「……さあ、朝の『全体調律グループ・メンテナンス』の時間です。……バルバラ様、貴女の筋肉が、嫉妬のあまり僅かに硬化していますね。……こちらへ」


「……あ、あぁ……っ、待っていたぞ……アルベルト……っ!!」

 将軍バルバラが、ドレスの裾を乱しながらアルベルトの足元に跪いた。

 アルベルトの熱い掌が、バルバラの首筋から肩甲骨にかけて、暴力的なまでの精度で食い込む。

「ひ……、あぁぁぁぁぁッ!!」

 数百年の間、アルベルトの指先だけを求めてきた彼女の肉体は、もはや彼の魔力なしでは正常な代謝すら行えない。一突きごとに、彼女を縛っていた「武人としての誇り」が、支配される悦びへと上書きされていく。


「メルヴィ様、ゼノビア様。……貴女たちの思考と影も、私の手で初期化リセットが必要です」

 アルベルトは片手でメルヴィのこめかみを圧迫し、影から縋り付こうとしていたゼノビアを「光の鎖」で繋ぎ止めた。

「あはは……。アルベルトさんの魔力が……脳の隅々まで掃除して……、僕、何も考えられなくなっちゃうよぉ……」

「……あたいも。……アンタに、暴かれるの、一生やめられないよ……っ」

 知性と隠密の象徴である二人が、同時に、子供のように無垢な表情でアルベルトに身を委ね、よだれを垂らさんばかりの多幸感の中に沈んでいく。


 ルナリスは、その光景を「絶対的勝者」の特権を持って眺めていた。

「……カサンドラ。貴殿も、我慢する必要はないのだぞ。……セレレスもだ。……アルベルトの規律に跪くことが、貴殿らの唯一の『救い』なのだからな」


 規律の化身であったカサンドラ、そして神を捨てた聖女セレレス。

 二人はアルベルトの前に跪き、競うようにして彼の白手袋を嵌めた手に、聖吻せいふんではなく、従順の誓いを立てるように唇を寄せた。

「アルベルト様……。……私を、今日も、不潔な意思が持てぬほど、完璧に管理してください……っ」

「……はい。……カサンドラ、セレレス。……貴女たちは私の、最も手のかかる『美しい資産』ですから」


 アルベルトの指先が、二人の魔力核を同時に、かつ残酷なほど優雅に突く。

「ん、んんぅ…………ッ!!」

 五人の女性たちが、一つの円卓を囲み、同時にアルベルトという名の「神」に、心身を解体され、再構築されていく。それはもはや食事会ではなく、一人の執事による「世界で最も濃密な洗脳と奉仕」の儀式であった。


 彼女たちの人生は、アルベルトによって完璧に「プロデュース」されていた。

 食事の内容、睡眠の質、魔力の波長、そして彼に向けられる「依存」の深さ。

 すべてはアルベルトの計算通りであり、彼女たちはその計算の中でしか呼吸することを許されない。だが、その不自由こそが、彼女たちにとっては天国以上の救済となっていたのである。


 一通りのメンテナンスを終えたアルベルトは、乱れた服一つ直すことなく、上座に座るルナリスへと向き直った。

「……さて、皆様の『淀み』はすべて一掃されました。……ルナリス様、仕上げに、貴女様という至高の宝石に、世界で唯一の、特別な『調律』を施しましょうか」


「……うむ。……あやつらに見せつけてやれ。……余と貴殿が、どれほど深く、不潔に、そして美しく繋がっているかをな」


 ルナリスの独占欲に満ちた言葉に、幹部たちは嫉妬に身を焦がしながらも、同時にその「絶対的な頂点」に君臨するアルベルトの姿に、熱狂的な崇拝を捧げ続けた。

 魔王城「パンデモニウム」は、一人の執事という名の「心臓」によって、永遠の、そして救いようのない幸福な依存の脈動を刻み続けていた。

 狂乱にも似た朝食会が終わり、満足感と依存の熱に浮かされた最高幹部たちが各々の職務へと(あるいは、アルベルトの温もりに浸るための休息へと)散っていった後、魔王城「パンデモニウム」には、重厚で静謐な時間が戻ってきた。


 アルベルトは、ルナリスの手を取り、城の最頂部にある「永劫の尖塔」へと彼女を導いた。そこはかつて、戦乱の時代に魔王が世界を睥睨へいげいした場所であり、今や一人の執事が世界の「ことわり」を指先一つで操作するための、全知の管制塔と化していた。


 夕刻、魔界の空が深い紫紺から、アルベルトの魔力に染まった澄んだ群青へと変わっていく。

 アルベルトは、ルナリスの背後に立ち、彼女の細い腰を、一点のシワも許さぬ確固たる規律を持って抱き寄せた。


「……ルナリス様。ご覧ください。貴女様が愛したこの世界。……今や、一粒の塵も、一人の不平不満を抱く者も、私の規律プログラムの外側には存在しません」


 アルベルトが指先を天空へ向けて一閃させた。

 その瞬間、大陸全土に張り巡らされた「広域調律結界」が、視認可能なほどの白銀の輝きを放ち、夜空に巨大な幾何学模様を描き出した。

「……これは……何をしたのだ、アルベルト」

 ルナリスは、そのあまりに壮大で、あまりに機能的な光の海に、畏怖にも似た歓喜を抱いた。


「世界の『時間』を、私の管理下に固定いたしました。……これより、この世界は一秒の劣化も、一ミリの衰退も経験することはありません。……人々は永遠に健康で、永遠に満たされ、永遠に……私の給仕ルールなしでは生きられぬ幸福な家畜となるのです」


 アルベルトの声は、どこまでも冷徹で、そして究極の「慈悲」に満ちていた。

 彼はルナリスを正面から向き合わせ、彼女の首筋に深く、自らの魔力で「永劫の契約書ロゴス」を刻み込んだ。

「ひ……、あぁ…………ッ!!」

 ルナリスの視界が白濁し、彼女の魂の最深部に、アルベルトという名の「永遠」が、消えぬ烙印として定着した。


「……これで、完了です。……ルナリス。……貴女の人生、貴女の死、そして貴女が目にする世界のすべてを、私が責任を持って『永久保存アーカイブ』いたしました。……貴女はもう、明日を恐れる必要はありません。……私が、毎日、同じように美しく、同じように残酷なまでの完璧さで、貴女を『お世話』し続けて差し上げますから」


 ルナリスは、執事の腕の中で、極上の快感と共に理性を失っていった。

 夫としてではない。神としてでもない。

 ただ、世界で最も有能で、世界で最も歪んだ愛を持つ「執事」に、自らの存在理由のすべてを奪い去られたことへの、形容しがたい多幸感。

「……あ、あはは……。……そうだ。……余は、こうなりたかったのだ……。……アルベルト……貴殿の檻の中で……永遠に、磨かれて……」


 月光が二人を照らす中、アルベルトはルナリスを横抱きにし、寝室へと歩み出した。

 彼の足音に合わせて、世界の心臓の鼓動が重なる。

 最高幹部たちはそれぞれの部屋で、今この瞬間も自分たちの魂が「執事の規律」によって完璧に守られ、侵食されていることに咽び泣き、感謝を捧げていた。


 部屋の扉が閉じられ、最後の一片の灯火が消える。


「……おやすみなさいませ、ルナリス。……良い夢を。……その夢の色彩さえも、私が整えて差し上げましたよ」


 ――そして。

 

 一瞬の暗転の後、再び鳥のさえずりと、清浄な風がカーテンを揺らす。

 そこには、一点の曇りもない燕尾服を纏い、白手袋のシワをミリ単位で整える男の姿があった。


「……おはようございます、ルナリス様。……いえ、私の愛しき、唯一の管理者(主人)」


 アルベルトは、昨日と寸分違わぬ角度でカーテンを開き、主人の目覚めに最適な「黄金の霧」を室内に招き入れた。

 ルナリスが、あの日と変わらぬ、しかし永遠に純化され続ける瑞々しい瞳を開く。

 

 一人の執事が、一人の主人のために。

 昨日と同じ、しかし世界で最も新しい、至高の「お世話」が、今、再び幕を開ける。

 

 この城の朝は、永遠に終わらない。

 この規律の鎖は、永遠に解けない。

 

 それは、世界で最も過酷で、世界で最も甘美な、不変のハッピーエンド。


【魔王城のお世話係 ―至高の永劫・完―】


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