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第6話:錆びついた戦鬼

 魔王城「パンデモニウム」の地下深く、外光すら届かぬ場所に設けられた第三練武場。

 そこは、石造りの壁が幾度となく砕かれ、修復され、再び破壊されることを繰り返してきた、魔王軍随一の「血と鉄」の聖域である。


 その中心で、一振りの巨大な戦斧が空気を引き裂く轟音を響かせていた。

「おおおおおッ! まだだ、まだ足りんッ!」

 咆哮を上げたのは、四天王の一人、女将軍バルバラだ。

 彼女が振り下ろした一撃は、魔導強化された訓練用の黒鋼ゴーレムを紙細工のように真っ二つに叩き割り、その背後の石壁にまで深々と巨大な亀裂を刻み込んだ。


 バルバラは苛立っていた。その苛立ちの正体は、最近、魔王ルナリスの傍らに影のように、そして不遜に立ち続けている「人間の執事」アルベルトの存在だ。

 着任から数週間。城内の空気は劇的に変わった。埃まみれだった廊下は磨き上げられ、財政は潤い、何よりルナリスの顔に「心の余裕」が生まれ始めている。

 それは軍の将として喜ぶべきことだ。だが、武人としてのバルバラは、ルナリスが自分以外の者に、それも「守られるべき弱者」である人間に、心身ともに預けている現状が我慢ならなかった。


「あんな優男に、魔王様の何がわかる……! 俺こそが、俺のこの斧こそが、魔王様の盾であり、矛であるはずだ……!」

 己に言い聞かせるように叫ぶバルバラ。だが、彼女の肉体は悲鳴を上げていた。

 連日の過酷な訓練による筋肉の微細な断裂、そして「戦場が終わるまで脱がぬ」という古臭い誓いのために数年間着っぱなしの重厚な甲冑が、彼女の皮膚を執拗に削り続けている。


 再び斧を構えようとした、その時だった。

 ギィ、という不吉な金属音がバルバラの右肩から響いた。

「……っ!?」

 激痛と共に、彼女の右肩を覆っていた厚さ三センチの黒金くろがねの継ぎ目が、内部からの圧力と金属疲労によって弾け飛んだ。

 砕け散った甲冑の破片が彼女の素肌を容赦なく掠め、鮮血が舞う。


「バルバラ様。武の鍛錬も結構ですが、道具の限界すら見極められないようでは、将軍失格と言わざるを得ませんね」


 冷徹な声が、練武場の入り口から響いた。

 そこには、いつの間にか現れたアルベルトが、完璧な姿勢で立っていた。その手には、主人のために用意したと思われる純白のタオルと、鈍く光る一本の「油差し」がある。


「貴様……ッ! いつからそこにいた!」

「バルバラ様が、その錆びついた斧で虚空を三十二回ほど叩き切り、筋肉を無意味に痛めつけておられた頃からでしょうか。……実に、無様ですね」

「何だと!? 貴様に俺の、武の何がわかる!」


 バルバラは怒りに任せて詰め寄ろうとしたが、足元がふらつき、膝をついた。

 蓄積された疲労、そして甲冑の自重に耐えきれなくなった肉体が、一気に拒絶反応を起こしたのだ。

 彼女の額からは脂汗が流れ、呼吸は獣のように荒い。

「近寄るな……! 人間ごときに、俺の体が……触れられてたまるか……!」


「誤解しないでください。私は貴女という個人のためにここへ来たのではありません」

 アルベルトは音もなく歩み寄り、膝をついたバルバラの前で、優雅に腰を落とした。

「貴女は魔王ルナリス様の側近であり、城の象徴たる四天王の一人。その貴女が、手入れもされていない薄汚れた鎧を纏い、肌を荒らし、汗臭い匂いを撒き散らしながら練武場に転がっている。……それは、主人であるルナリス様の『品格』を著しく汚す行為なのです。貴女が醜いことは、魔王様が醜いのと同じことなのですよ」


「ルナリス様の……品格……?」

「左様でございます。主人がどれほど高貴であっても、その傍らに立つ騎士が野犬のような姿では、世間は魔王軍を『野蛮人の集まり』と侮るでしょう。……私は執事として、それを断じて許しません」


 アルベルトの指先が、バルバラの破損した肩当ての隙間に触れた。

 驚くべきことに、彼が触れた瞬間、激痛が走り続けていた箇所の熱が、スーッと引いていく。

「……貴様、何を」

「応急処置です。バルバラ様、今すぐその呪われた鉄屑を脱ぎなさい。いえ――私が今この場で、解体して差し上げます」


「なっ……何を言っている! この鎧は、魔王家代々の守護騎士に伝わる『不抜のアイアン・ドグマ』だ! 一度装備すれば戦場が終わるまで脱がぬ誓いの呪具だぞ! 外すには複雑な解呪と、城付きの文官たちが三日三晩祈祷を捧げる必要があるのだ!」


「私の前で『不可能』という不敬な言葉を口にするのはおやめください。その程度、執事の嗜みである『染み抜き』と大差ありません」

 アルベルトは懐から、一見すると普通の細工用ナイフに見える銀の刃を取り出した。だが、その刃紋には極細の魔導式が刻まれており、周囲の空気を吸い込むように振動している。


「バルバラ様。貴女は魔王様の『盾』であろうとするあまり、自分という財産を雑に扱いすぎました。……執事の仕事とは、主人の周囲を清潔に保つこと。そして、主人にとっての『最良の駒』を磨き上げることです」


 アルベルトは抵抗するバルバラの腕を、驚くべき怪力で制した。

「……ッ、放せ! この人間の……指先が、熱い……!」

「熱いのは、貴女の皮膚が炎症を起こしているからです。……大人しく、運ばれることです」


 アルベルトは、バルバラを軽々と横抱きに抱え上げた。

 鉄の塊のような重さがあるはずの甲冑込みのバルバラを、彼は呼吸一つ乱さずに持ち上げる。ルナリスの時とは違い、その抱擁は慈しみというよりは、壊れた備品を修理工場へ運ぶような、徹底した「事務的」な手際であった。


 運ばれた先は、アルベルトが城内に新設した「特別メンテナンスルーム」。

 そこは、かつての湿っぽく暗い魔王城のイメージを払拭するような、大理石と魔法照明に彩られた清潔な空間だった。中央には、人間界の温泉地から湧き出る「霊素」を含んだ湯が、黄金の蛇口から溢れんばかりに浴槽へ注がれている。


「これから貴女を、魔王様の隣に立つに相応しい『美しき守護者』へと作り替えます」

 アルベルトは白手袋をゆっくりと脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を、筋肉のラインが浮き出るほどきつく捲り上げた。

「さあ、覚悟してください、バルバラ様。……私のケアは、貴女がこれまでの人生で経験したどの戦場よりも過酷で、そして――決して、抗えないものになりますよ」


 バルバラは、初めて自分の意志とは無関係に、鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされるのを感じていた。

 それは未知の魔法への恐怖なのか、あるいは、ずっと一人で鋼を纏い、誰の手も借りずに戦い続けてきた彼女が、心のどこかで待ち望んでいた「誰かに委ねる時間」への予感なのか。


 アルベルトの冷徹な指先が、鋼の隙間から彼女の熱い肌へと、容赦なく潜り込んだ。

 錆びついた戦鬼が、一人の女性へと解体されていく夜が、今始まったのである。


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