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第5話:初めての「視察」デート

 魔王城「パンデモニウム」の朝に、これほどまでに華やいだ空気が流れたことがあっただろうか。

 窓から差し込む朝日は、アルベルトが磨き上げた廊下の床に反射し、城内を神聖な神殿のような輝きで満たしている。


 魔王ルナリスの寝室。そこでは、今まさに「歴史的な変革」が行われようとしていた。

「……アルベルト。本当に、これで行くのか? 余は魔王なのだぞ。このような、守られるだけの弱き小娘のような格好で、外を歩くなど……」

 鏡の前で、ルナリスは落ち着かない様子で何度も自分の姿を確認していた。


 彼女が身に纏っているのは、かつての威圧的な黒いドレスではない。アルベルトが人間界の最高級店から取り寄せ、彼女の瞳と肌の色に合わせて特注した、深い夜空の色をしたシルクのワンピースだった。

 肩口には繊細なレースが施され、動くたびに、魔法を編み込んだ生地が星屑のように微かな光を放つ。さらに、アルベルトが丁寧に手入れをしたルナリスの黒髪は、緩やかに編み込まれ、先日の「月涙石」で作られた髪飾りが、彼女の小さな角を優雅に縁取っていた。


「ルナリス様。本日の目的は、軍事的な『侵略』ではなく、民の暮らしを知るための『視察』。そして何より――主人の休日でございます」

 アルベルトは彼女の背後に立ち、鏡越しにルナリスを見つめた。その瞳には、芸術品を愛でるような、しかし確かな誇りが宿っている。

「威厳とは、恐ろしい鎧を纏うことだけで得られるものではありません。その身に宿る気品と、余裕こそが真の王者の証。今の貴女様は、どの国の王女よりも美しく、そして尊い」


「……貴殿は、平気でそういうことを言う。人間の男とは、皆そうなのだな?」

「いいえ。私は執事ですから。真実以外は口にいたしません」

 アルベルトは跪き、ルナリスの足元に、歩きやすさと優雅さを両立させた特製の革靴を差し出した。

「さあ、お手を。本日は私が、貴女様をこの世界の誰よりも幸福な女性としてエチケットいたします」


 ルナリスは躊躇いながらも、その白手袋に包まれた手を取った。

 扉を開けると、そこには四天王たちが勢揃いしていた。


「な……っ!? ま、魔王様!?」

 将軍バルバラが、愛用の斧を落としそうになるほどの衝撃を受けて絶句する。

 冷徹な参謀メルヴィも、眠たげな目を限界まで見開き、諜報のゼノビアに至っては気配を隠すのを忘れて柱から身を乗り出していた。


「バルバラ、何を呆けている。……そんなに、変か?」

 ルナリスが少し不安げに問いかけると、バルバラは慌てて首を振った。

「い、いえ! 変どころか、その……あまりにも神々しくて、直視できません! しかし、その格好では身を守る鎧が……! やはり俺も護衛として――」

「不要です、バルバラ様」

 アルベルトが、一歩前に出てバルバラの言葉を遮った。

「貴女が行けば、それは『軍事行動』になります。今日はあくまで、平和的な外交の第一歩。……ルナリス様の身に指一本触れさせぬこと。それは、私の命よりも重い誓約です」


 アルベルトの放つ、静かだが絶対的な威圧感。バルバラはそれ以上食い下がることができなかった。

 彼はそのまま、ルナリスをエスコートして魔王城の転送門へと向かう。


 転送された先は、人間界でも有数の活気を誇る王都の広場だった。

 眩しい太陽の光、香ばしいパンの焼ける匂い、行き交う人々の笑い声。魔界の静寂と重圧とは対極にある光景に、ルナリスは思わず立ち止まり、アルベルトの腕を強く掴んだ。


「……人が、これほどまでに密集している。皆、武器も持たずに笑っているのか?」

「はい。これが貴女様が和親条約を結び、守ろうとした平和の形の一つでございます」

 アルベルトは彼女の緊張をほぐすように、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。


「さあ、参りましょうか。まずは、この街で一番人気のカフェで、朝のティータイムといたしましょう。そこには魔界にはない、冷たい氷を使った絶品のスイーツがございます」

「こ、氷のスイーツ……? そんな魔法のようなものが、普通に売られているのか?」

 ルナリスの瞳に、好奇心が灯る。魔王としての責任感から一時的に解放され、彼女の心は徐々に、初めて外の世界を知る少女のように弾み始めていた。


 市場の喧騒の中、アルベルトは完璧な距離感で彼女を守りつつ、周囲の男たちの視線から彼女を遮るようにエスコートした。

 ルナリスにとって、それは未知の体験の連続だった。

 色とりどりの果物、繊細な細工の施された工芸品、そして何より、自分に向けられるのが「恐怖の眼差し」ではなく、一人の美しい貴婦人を見る「憧憬の眼差し」であるということ。


「アルベルト……皆、余を見て、笑いかけてくる。……余が魔王だと知れば、悲鳴を上げて逃げ出すはずなのに」

「今の貴女様は、ただのルナリス様ですから。人は、美しいものに微笑みを返す生き物なのです」


 カフェのテラス席に座り、運ばれてきた「パフェ」という名の未知の食べ物を前に、ルナリスは目を輝かせた。

「……これは、芸術か? この透明な層、そして上に乗っている赤い実は……」

「イチゴでございます。さあ、溶けないうちに。……あ、失礼」

 アルベルトは、彼女の頬に僅かについた生クリームを、指先で優しく拭った。

「あ……っ」

 ルナリスの顔が、イチゴよりも赤く染まる。


 二人の時間は、甘く、穏やかに流れていく。

 しかし、その光景を、市場の雑踏の中に紛れた「不穏な影」が監視していた。

 それは魔族でも、ただの人間でもない。

 魔王と人間の執事が密会しているという情報を聞きつけ、平和を良しとしない人間側の「過激派聖騎士団」の刺客であった。


 アルベルトの視線が、僅かに鋭くなる。

(……鼠が紛れ込みましたか。せっかくのルナリス様の休日を、汚すわけにはいきませんね)


 彼は微笑みを絶やさぬまま、ルナリスに告げた。

「ルナリス様。あちらに、もっと美しい噴水庭園がございます。少し、回り道をしていきましょうか」

「うむ。貴殿の案内ならば、どこへでも行こう」


 ルナリスの全幅の信頼を背負い、執事は静かに「掃除」の準備を始めるのだった。


 王都の噴水庭園。

 高く吹き上がる水飛沫が午後の陽光を浴びて、七色の虹を描き出している。色とりどりの花々が咲き誇るその中心で、ルナリスは「パフェ」という名の未知の衝撃からようやく立ち直り、心地よい疲れに身を委ねていた。


「アルベルト。人間界というのは、これほどまでに色彩に溢れているのだな。魔界の紫と黒の世界も誇らしいが……この、柔らかい風は悪くない」

「左様でございますか。貴女様のその穏やかな表情こそが、この風景に最も調和しております」


 アルベルトは恭しく一礼するが、その耳は、風の音に混じる「不自然な金属音」を捉えていた。

 庭園の周囲、刈り込まれた生垣の裏側。そこには、和親条約を「魔族への屈服」と断じる聖騎士団の過激派たちが、潜伏していた。その数、十二名。


(ルナリス様に、この汚れ仕事を見せるわけにはいきませんね)

 アルベルトは微笑みを崩さぬまま、ルナリスに告げた。

「ルナリス様。あちらの東屋あずまやに、最高の眺望を楽しめるベンチがございます。私が、食後の口直しにふさわしい新しいお茶を淹れてまいりますので、少々あちらでお待ちいただけますか?」

「うむ。貴殿の淹れる茶なら、いくらでも待とう。早く戻れよ」

 ルナリスは疑うこともなく、楽しげに東屋へと歩いていった。


 彼女の背中が見えなくなった瞬間。

 アルベルトの表情から、一切の温度が消えた。

「……さて。主人の休日を汚そうとするねずみの皆さん。掃除の時間です」


 彼が指を鳴らした瞬間、生垣の中から銀光が踊った。

「魔王に魂を売った売国奴め! 死ね!」

 飛び出した聖騎士たちの剣が、アルベルトの首筋を狙う。だが、執事は半歩も動かない。

 彼は懐から、調理用の細い「飾り包丁」を一本取り出した。


「マナーがなっていない。……淑女を待たせている最中に、剣を抜くものではありません」

 アルベルトの体が、陽炎のように揺れた。

 彼が行ったのは「戦闘」ではない。それは、徹底した「排除」という名の家事だった。

 剣の軌道をシルクの手袋で受け流し、相手の関節を突いて武器を弾き飛ばす。彼の動きには無駄がなく、服の裾を翻す動作一つ一つが、舞踏会のような優雅さを保っていた。


「ぐ、あああっ!? なんだ、この男の速さは……!」

「静かに。主人の耳を汚さないでください」

 アルベルトは一人の首筋を指先で弾き、瞬時に気絶させた。そのまま、倒れ込む男の服が汚れないよう、そっと地面に寝かせる。それすらも、執事としての「美学」である。


 わずか一分。

 十二名の精鋭騎士たちは、叫び声を上げる暇もなく、まるで丁寧に畳まれた洗濯物のように、生垣の裏で整然と気絶し、積み重ねられていた。

 アルベルトは燕尾服のシワを一つだけ伸ばすと、隠し持っていた茶道具を広げ、何事もなかったかのように湯を沸かし始めた。


 東屋に戻ったアルベルトの手には、完璧な温度で抽出されたお茶があった。

「お待たせいたしました、ルナリス様」

「おお、戻ったか。……ふむ、先ほどまで何か騒がしかったような気がしたが?」

「風が少し悪戯をしていたようです。……それより、このお茶を。人間界の『忘れな草』をブレンドした、思い出を心に刻む一杯です」


 ルナリスはお茶を一口含み、深く吐息をついた。

 西日が、二人の影を長く伸ばしている。楽しかった一日は、終わりを迎えようとしていた。

「……アルベルト。余は、魔王だ。いつかはまた、戦いに身を投じ、貴殿の国と敵対する日が来るかもしれん。……その時、貴殿はどうする」


 重い問いだった。

 アルベルトは、ルナリスの前に跪き、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。

「私は執事です。国家や種族のために仕えているのではありません。……私は、私の手で守ると決めた『主人』にのみ、その魂を捧げております」


 彼は、ルナリスの指先に、慈しむように唇を寄せた。

「たとえ世界が貴女の敵になろうとも、私は貴女の髪一本、ドレスの一房すらも汚させない。……それが、私という執事の、最初で最後の傲慢です」

「…………ずるいぞ、貴殿は」

 ルナリスの真紅の瞳に、熱いものが宿る。彼女はアルベルトの手を強く握り返し、消え入りそうな声で囁いた。

「……ならば、これからもずっと余の側にいろ。余が寝静まり、再び目が覚めるその瞬間まで。……命令だ」

「御意のままに。私の最愛の主人マイ・レディ


 城に戻った二人を、バルバラたちが不機嫌そうに出迎えた。

 だが、ルナリスがアルベルトの腕に抱きつくようにして歩く姿を見て、一同は完全に言葉を失った。

 魔王の顔は、勝利の凱旋よりもずっと輝かしく、そして幸せそうだったからだ。


 自室に戻る際、ルナリスは振り返り、アルベルトにだけ聞こえる声で告げた。

「……明日の朝食も、楽しみにしているぞ。それと、今夜は少し……寝付けないかもしれん。後で、あのマッサージを、しに来い」

「かしこまりました。至高の安らぎをご用意いたしましょう」


 ルナリスの背中を見送り、アルベルトは冷徹な微笑を浮かべて、控えていたバルバラへと向き直った。

「さて、バルバラ様。主人の機嫌は最高潮です。……お次は、貴女のその、錆び付いた『戦鬼』の心を、私が磨き上げて差し上げましょうか?」


「な、何を言って……! 俺は魔王様のように、甘くはないぞ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶバルバラ。だが、彼女の心にはすでに、アルベルトという「毒」が、心地よい安らぎの予感として回り始めていた。



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