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第4話:執事、魔王の肌に触れる

 魔王城「パンデモニウム」に、かつてない激震が走っていた。

 発端は、玉座の間で執務に当たっていた魔王ルナリスが、突如としてその場に崩れ落ちたことである。

「魔王様ッ!」

 四天王の将軍バルバラが駆け寄り、その肩を抱く。ルナリスの顔は土気色に染まり、額には珠のような汗が浮かんでいた。呼吸は浅く、全身が細かく震えている。

「……案ずるな。ただの、魔力欠乏だ……。少し、休めば……」

 ルナリスは強がってみせるが、その声には力がまったくない。


 魔王とは、その強大な魔力ゆえに、常に自身の精神を極限まで張り詰めていなければならない存在だ。特にここ数日、アルベルトによって財政や生活環境が劇的に改善された反動で、長年溜め込んでいた蓄積疲労が一気に噴出したのである。

「誰か! 城付きの魔導医を呼べ! それと、あの人間の執事はどこだ! あいつが何か変なものを食わせたのではないか!?」

 バルバラの怒声が響く中、人だかりを割って、静かな、しかし確固たる足音が近づいてきた。


「騒がしいですね。主人の静養を妨げるのは、配下として恥ずべき行為ですよ」

 現れたのは、いつもと変わらぬ無表情のアルベルトだった。だが、その瞳にはかつてない冷徹なまでの「意志」が宿っていた。

「貴様、アルベルト! 魔王様がこのようなことになったのは――」

「バルバラ様。その腕を今すぐルナリス様から離してください。貴女の荒々しい魔力が、弱っている主人の経絡を傷つけています」

「な、何だと……?」

「下がってください。ここからは執事の領分です」


 アルベルトは、魔族の禁忌を平然と無視し、ルナリスの細い体に腕を回した。

「……っ!? 待て、人間! 魔王様の玉体に触れることは万死に値する禁忌だぞ!」

 周囲の兵士たちが一斉に槍を向ける。だが、アルベルトは彼らを一瞥もせず、ルナリスを軽々と横抱き(お姫様抱っこ)にすると、寝室へ向かって歩き出した。

「禁忌、結構。ですが、私の目の前で主人が苦しんでいるのを放置する不敬に比べれば、そのような古い法など塵に等しい。……ルナリス様の命を優先したいのであれば、今すぐ私の邪魔をせず、最高の薬湯を用意する準備をしなさい」


 アルベルトから放たれる、魔王にも劣らぬ圧倒的な覇気に、四天王たちですら気圧され、道を空けた。


 ルナリスの寝室。豪華だが冷たい印象を与えるその部屋で、アルベルトは彼女をベッドへと横たえた。

「……アルベルト。貴殿、というやつは……。本当に、恐れを知らぬな……」

 ルナリスが、薄らと目を開けて苦笑する。

「恐れは知っております。ですが、貴女様を失うことの方が、私にとってはよほど恐ろしい。……さて、ルナリス様。これから『徹底的なケア』を行わせていただきます」


 アルベルトは、どこからともなく取り出した白銀のナイフで、自らの指先を僅かに切った。そこから流れ出たのは、人間としては異常なほど純度の高い魔力が込められた血だった。

 彼はその血を、ルナリスのために用意した温かな薬湯に一滴垂らす。すると、湯気は黄金色に輝き、部屋中に脳を蕩けさせるような甘い香りが満ちた。


「……何を、するつもりだ?」

「魔力欠乏の特効薬は、外部からの魔力供給と、肉体の深部からの弛緩です。……ルナリス様、お召し物を、緩めさせていただきます」

「……え?」

 ルナリスが驚く間もなく、アルベルトの手が彼女の首筋に触れた。

 ひんやりとした執事の手袋越しに伝わる体温。それは、暴力的な略奪しか知らない魔族の接触とは正反対の、慈しむような優しさに満ちていた。


 アルベルトは、ルナリスのドレスの背中の紐を、指先の魔力で一つずつ、音もなく解いていく。

「……ま、待て。アルベルト。いくら貴殿でも、これ以上は……」

「主人の健康を管理する権利は、契約により私に一任されているはずです。……ルナリス様。今だけは、魔王という重荷を捨てて、ただの『一人の女性』として、私に身を委ねてください」

 その囁きは、ルナリスの耳元で甘く響いた。

 激務と孤独の中で戦い続けてきた彼女にとって、その言葉はどんな攻撃魔法よりも深く、彼女の心の防壁を打ち破った。


 アルベルトの指先が、彼女の肩から背中にかけて、魔法的な律動を伴って滑る。

 それは、人間界の古の秘術と、執事としての解剖学的知識を融合させた「究極のマッサージ」だった。

「……っ、ふ、あ…………」

 ルナリスの口から、無防備な吐息が漏れる。

 凝り固まっていた魔力の流れが、アルベルトの指が触れるたびに劇的に改善されていく。滞っていた血流が熱を帯び、彼女の肌は透き通るような桜色に染まっていく。


 魔王という「絶対者」を演じるために張り詰め、鋼のように硬くなっていた彼女の肉体が、アルベルトの献身によって、柔らかい、本来の瑞々しさを取り戻していく。

「……お加減は、よろしいですか?」

「余を、これほどまでに、骨抜きにして……どうするつもりだ」

「どうもしませんよ。ただ、貴女様に最高の安眠を届ける。それが今の私の仕事です」


 数時間後。

 アルベルトが寝室から出てきたとき、その顔には僅かな疲労の色があったが、燕尾服に乱れは一切なかった。

 扉の前で今か今かと待ち構えていたバルバラが、彼に詰め寄る。

「……魔王様は!? 中で何をした!?」

「静かに。ルナリス様は、ここ数百年間で最も深い眠りについておられます。起こせば、私が貴女を『掃除』しなければならなくなりますよ」

 アルベルトの冷徹な一瞥に、女将軍は思わず言葉を飲み込んだ。


 翌朝、玉座に現れたルナリスは、全盛期をも凌駕するほどの強大な魔圧を放っていた。

 しかし、その瞳にはかつてのような刺々しさはなく、柔らかな、慈愛に満ちた輝きが宿っていた。

「……バルバラ。余は、この執事の献身に最大限の信頼を置くことに決めた。以後、アルベルトの行動を制限することは、余への反逆とみなす」

 魔王の正式な宣言。

 それは、人間という異分子が、魔王城の心臓部に完全に食い込んだ瞬間だった。


 ルナリスは、傍らに立つアルベルトを盗み見、赤くなった頬を隠すように扇で顔を覆った。

(……あの時、肌を撫でられた感触が、まだ消えぬ。……アルベルト。貴殿は、余に何を教えるつもりなのだ)


 主人の心と体を完璧に把握したアルベルト。

 彼の「奉仕」は、ついに魔王を攻略し、その矛先は次の「不潔な標的」――女将軍バルバラへと向けられることになる。


「さて、バルバラ様。そのボロボロになった肌と、砂塗れの甲冑……そろそろ、私に預けていただけませんか?」

 不敵に微笑む執事の手に、バルバラはかつて戦場で感じたことのない「恐怖」と、奇妙な「期待」に震えるのだった。


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