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第3話:資産管理という名の断捨離

 魔王城「パンデモニウム」の朝は、血の匂いではなく、重苦しいインクと古い羊皮紙の匂いで幕を開ける。

 魔王ルナリスの私室。そこには、彼女の身長を優に超えるほどの書類の山が築かれていた。それらはすべて、広大な魔界を統治するために必要な軍事費、補給路の維持、そして各地の領主たちへの下賜金に関する報告書だ。


「……また、足りぬのか」

 ルナリスは、こめかみを指で押さえながら深く溜息をついた。

 手元の帳簿には、無情にも赤字を示す魔法印が刻まれている。魔族は戦うことにかけては右に出る者はいないが、収支を合わせるという繊細な作業においては、その鋭い爪は何の役にも立たなかった。


「失礼いたします、ルナリス様。本日の朝食は、胃への負担を最小限に抑えた特製ポタージュと、全粒粉のスコーンをご用意いたしました」

 いつものように、音もなく現れたアルベルトが、銀のトレイを机の僅かな隙間に置く。

「……ああ、アルベルトか。すまぬが、今は食べる気力が起きぬ。このままでは来月の魔獣たちの餌代すら、王宮の備品を売って工面せねばならん事態だ」


 アルベルトは、ルナリスの疲れ切った表情をしばし見つめると、静かにトレイを置き、彼女の背後に回った。

「主人が食事を楽しめないほどのストレスを感じているのは、執事の不徳。……ルナリス様、その帳簿、少々拝見してもよろしいでしょうか?」

「貴殿にこれを見せても、解決するものではあるまい。これは魔族の、血と暴力の歴史が積み上げた負債なのだからな」

「歴史を整理するのも、執事の仕事の一つでございます」


 アルベルトは、ルナリスから羽ペンを借りると、流れるような動作で書類の山を崩し始めた。

 彼の指先が紙の上を滑るたびに、驚くべき光景が広がる。彼は文字を読むのではない。数字の羅列の中に潜む「矛盾」を、狩人が獲物を見つけるような鋭さで摘出していくのだ。


「……ほう。この第六軍への食糧費、実際の輸送能力に対して計上されている額が三割ほど過剰です。おそらく輸送担当官が中抜きをしていますね。さらに、この『魔王城壁修繕費』。前回の修繕記録が三ヶ月前にあるにもかかわらず、再び巨額の請求がある。これは施工業者との癒着です。……そして、何よりこれです」

 アルベルトが指し示したのは、四天王の一人、バルバラが管理する軍備予算だった。


「バルバラ様は、新しい斧を新調するたびに、古い武器を『供養』と称して地下の宝物庫へ放り込んでいるようですが……その維持費だけで、城下の孤児院が三つ建てられるほどの魔石を消費しています」

「……そこまで、正確にわかるのか?」

 ルナリスは唖然として、アルベルトの横顔を見上げた。彼の銀縁のモノクルには、複雑な魔法数式が濁流のように流れている。


「執事にとって、主人の資産を把握するのは嗜み以前の常識です。……ルナリス様、この書類の山は私が預かります。その間に貴女様は、この温かなスープをお召し上がりください。食べ終える頃には、この城に『隠された財宝』がどこにあるか、すべて洗い出しておきましょう」


 それから一時間後。アルベルトは、不満を隠そうともしない四天王の文官たちを前に、冷徹なまでの「資産再建計画」を叩きつけていた。

「……な、何を言うか人間! これは我ら魔族の伝統的な予算配分だぞ!」

「伝統という言葉は、無能を隠すための外套ではありません。無駄な支出を削り、最適化する。それができないのであれば、貴方たちの給与もすべて『伝統的な没収』の対象としますが?」

 アルベルトの放つ、冷たく、かつ暴力的なまでの正論に、屈強な魔族の文官たちは震え上がった。


 午後に向かったのは、地下深くにある「魔王城大宝物庫」である。

 そこは、数千年にわたる略奪と勝利の歴史が、埃と共に堆積した「価値あるゴミ溜め」だった。


「……バルバラ様、少々お伺いしますが」

 アルベルトは、宝物庫の入口に立つ女将軍に問いかけた。

「ここに転がっている、この錆びた鉄屑の山。これは何のために保管されているのでしょうか?」

「鉄屑だと!? それはかつて、我が軍が人間界の三つの城を落とした際に得た戦利品だ! 誇り高き勝利の象徴だぞ!」

「勝利の象徴がカビを吐き、空間を圧迫し、さらには有害な魔素を放出して城全体の空気を汚染している。これは執事として看過できません。……これらはすべて、本日中に溶かしてインゴットに精錬し、人間界の貴金属市場へ流します」


「き、貴様……本気か!? 魔王様の財産を勝手に売り払うなど――」

「許可は、先ほどあのおいしいスープの代償としていただいております」

 アルベルトは、懐から一振りのハンマーを取り出した。それは、一見普通の道具に見えるが、触れたものの「真の価値」を見抜く魔法具である。


 彼は迷いなく、山積みの財宝の中へと歩を進めた。

 豪華な装飾が施されているが中身のない模造品の冠を蹴飛ばし、地味だが純度の高い魔導原石を正確に拾い上げる。

「これは売却。これは廃棄。これは……呪いが強すぎますが、浄化すれば希少な建材になりますね。……そして、これ」

 アルベルトがゴミの中から拾い上げたのは、泥に塗れた一つの小さなブローチだった。


「……それは、確かルナリス様がまだ幼い頃に、先代から賜ったものだとか聞いたが。石も欠けて、今ではただの石ころだ」

「いえ。この石こそが、人間界で数百年前に失われたとされる伝説の『月涙石』。適切なカットと魔力充填を行えば、王国の国家予算三期分に相当する価値を生みます。……バルバラ様、これこそが『管理』と『目利き』の差です」


 アルベルトの苛烈なまでの「断捨離」により、宝物庫には数百年ぶりに床が見えるようになった。

 不要なものが処分され、代わりに、正確な鑑定によって正当な価値を与えられた品々が、整然と棚に並べられていく。その光景は、ただの物置から、真に「王の権威を示す美術館」へと変貌していた。


 夕暮れ。アルベルトは、売却益とコストカットによって生まれた莫大な「余剰資金」の目録をルナリスに提示した。

「……アルベルト。余は、夢を見ているのではないか? これだけの金があれば、兵たちの食事を改善し、さらには城下の民に減税を施すことすら可能ではないか」

「はい。ですがルナリス様、最も重要な支出を忘れておいでです」

「重要な支出……? 新たな武器か? それとも強力な結界の強化か?」


「いいえ。――主人の『笑顔』のための支出です」

 アルベルトは、ルナリスの前に一着のローブを差し出した。

「ルナリス様、これまでは城の維持に追われ、一人の女性としての楽しみを忘れておられました。本日の夜は、お忍びで人間界の『宝石と服飾の街』へ参りましょう。貴女様が先ほど取り戻された『月涙石』にふさわしいドレスを、私が選ばせていただきます」


 人間界の市場。

 魔王であることを隠すための隠蔽魔法をかけ、ルナリスは人生で初めて「戦い以外の目的」で街を歩いた。

 最初は人間の多さと活気に怯え、アルベルトの燕尾服の袖をぎゅっと掴んでいた彼女だったが、アルベルトが完璧なエスコートで宝石店やブティックを巡るうちに、その瞳は少女のように輝き始めた。


「見てくれ、アルベルト! この布地は、触れると風のように軽いのだな。……それに、この装飾品。魔力はないが、ただ眺めているだけで心が温かくなる」

「それは、貴女様が本来持っておられた美しさが、それらの品々に共鳴しているからでございます」

 アルベルトは、ルナリスのために最高級のシルクのドレスを、そして彼女の角を優雅に飾るための銀の鎖を選び抜いた。


 買い物を終え、城へと帰還する二人の足取りは、出発前とは比べ物にならないほど軽やかだった。

 城門では、慣れない掃除でヘトヘトになったバルバラや他の兵士たちが、不機嫌そうな顔で立っていたが、戻ってきたルナリスの顔に浮かぶ、見たこともないほど晴れやかで美しい微笑を見た瞬間、彼らは言葉を失った。


「……アルベルト。余は決めたぞ」

 寝室へ向かう廊下で、ルナリスはボソリと呟いた。

「……何をでございますか?」

「余の財産も、この城の未来も、すべて貴殿に預ける。……ただし、たまには、今日のように余を街へ連れ出せ。これは執事としての命令だ」

「御意のままに。……ルナリス様、次のデートのために、明日は城のキッチンの全面改装を行わさせていただきますが、よろしいですね?」


 資産を整理し、主人の心を満たしたアルベルト。

 しかし、その完璧すぎる手腕が、今度は四天王たちの「嫉妬」と「不信」を煽ることになる。

 廊下の曲がり角で、暗い殺気を放つ女騎士バルバラが、愛用の斧を研ぎながら彼を待ち構えていた。


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