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第2話:暴かれた秘密の夜食

 魔王城「パンデモニウム」の夜は、人間界のそれよりも深く、重い。

 窓の外では、魔界特有の紫がかった月が雲間に隠れ、時折、遠くの森で魔獣が吠える声が風に乗って聞こえてくる。


 着任初日の夜、アルベルトに与えられた部屋は、執事という立場を考えれば十分に広壮なものだった。しかし、彼はその豪奢なベッドに横たわるつもりは毛頭なかった。

 彼は上着を脱ぎ、予備のシャツの袖を捲り上げると、自らの「戦場」へと向かった。


 魔王城の厨房。そこは、ある種の地獄であった。

「……これは、予想以上ですね」

 アルベルトは、手にしたランプの火を灯し、溜息をついた。


 石造りの床には、いつのものとも知れぬ魔獣の脂がこびりつき、換気扇の役割を果たす魔法陣はすすで目詰まりを起こしている。調理器具といえば、巨大な鉄板と、首を撥ねるためかと思うほど巨大で無骨な肉切り包丁のみ。

 魔族にとって「食べる」という行為は、単なるエネルギー摂取、あるいは「強さを誇示するための略奪」に近い。そこには、洗練された調理という概念も、衛生という美徳も存在しなかった。


 アルベルトは、四次元的な収納機能を持つ執事専用の鞄から、人間界の最新式の清掃道具と、厳選された洗剤を取り出した。

「ルナリス様の健康を守るには、まず、この不潔な温床を根絶しなければなりません」

 それから数時間、厨房からは魔法による爆発音でも、魔獣の咆哮でもない、規則正しく、かつ異常なほど素早い「磨き上げる音」が響き続けた。


 一方で。

 魔王城の最上階、ルナリスの寝室では、この城の主が一人、身悶えしていた。

「……腹が、減った」

 シルクの寝着に身を包んだルナリスは、空腹で鳴り響く腹を抱え、枕に顔を埋めた。


 昼間、アルベルトに指摘された通り、彼女は慢性的なストレスによる「過食」に悩まされていた。魔王という絶対的な強者を演じ続けるため、彼女は公の場では一切の弱さを見せず、配下が用意した「ただ焼いただけの肉」を無感動に飲み込む。

 その反動が、深夜に爆発するのだ。


 彼女は周囲を警戒しながら、ベッドの下に隠していた小さな木箱を引き出した。

 中には、人間界との密貿易で手に入れた、油ギトギトの安価な揚げ菓子や、大量の砂糖をまぶした粗悪なクッキーの袋が入っている。

「……いいのだ。これは余の城だ。誰にも文句は言わせぬ。あの無礼な執事にも……」

 しかし、袋に手を伸ばした瞬間、彼女は思い出した。

 昼間に飲んだ、あのハーブティーの味を。


 あの時、心に染み渡った静謐な時間。それに比べ、手元の菓子がいかに不健康で、自分の価値を下げるものか。一度「本物」を知ってしまった脳は、もはや粗悪な刺激では満足できない状態になっていた。

「……いや、だが……背に腹は代えられぬ」

 ルナリスは迷った挙句、菓子袋を持って寝室を抜け出した。せめて、自分以外誰もいない静かな場所で、この背徳感を味わおうと考えたのだ。


 彼女が向かったのは、普段なら誰も寄り付かない深夜の厨房だった。

 だが、その扉の前まで来たとき、ルナリスは足を止めた。

「……匂う? これは、何の香りだ……?」


 鼻腔をくすぐったのは、重苦しい魔界の空気とは正反対の、軽やかでいて芳醇な香り。

 焦がしたバターの香ばしさ、新鮮な香草が熱を通された時の爽やかさ、そして、複雑に絡み合った濃厚な「出汁」の匂い。


 彼女は吸い寄せられるように扉を開けた。

 そこには、別世界が広がっていた。


 数時間前まで脂と煤で汚れていたはずの厨房は、今や月明かりを反射して銀色に輝いている。

 そして、その中心。完璧に磨き上げられた調理台の前で、一人の男が優雅に、しかし峻烈な速度でナイフを動かしていた。


「……アルベルト? 貴様、こんな時間に何を……」

 ルナリスの問いかけに、男は振り返りもせず、最後の一振りのスパイスを鍋へ落とした。

「おや、ルナリス様。……その手に持たれている袋、没収させていただいても?」

「な、何を――っ!?」


 気づいた時には、ルナリスが抱えていた菓子袋は、アルベルトの手の中にあった。

 彼はその袋を、まるで汚物を扱うような手つきでゴミ箱へと落とした。

「あ、余の……余の非常食がっ!」

「あのような粗悪な油は、王の血を濁らせるのみです。……代わりに、こちらを」


 アルベルトは、ルナリスの前に一皿の料理を置いた。

 それは、魔界の特産品である『夜見の黒キノコ』をふんだんに使い、人間界の最高級米と共に煮込まれた、白銀のソースが輝くリゾットだった。


「魔界キノコと、特製クリームの薬膳リゾットでございます。ルナリス様の疲れ切った内臓を労りつつ、脳が求める満足感を最大限に引き出しました」

「ふ、ふん。余を誰だと思っている。人間界の小細工など――」


 ルナリスの言葉は、アルベルトがスプーンで一口分を掬い、彼女の唇に寄せた瞬間に止まった。

「……あ」

 拒否する間もなく、リゾットが口の中へ滑り込む。


 瞬間、ルナリスの思考は真っ白に染まった。

 キノコの濃厚な旨味が爆発し、それを生クリームの優しさが包み込む。隠し味に使われた微かな酸味が、飽きを感じさせないリズムを作り出している。

 何より、米の一粒一粒が、完璧なアルデンテ。


「な、なんだこれは……。熱い、だが、温かい。……腹の底から、力が湧いてくるような……」

「『食』とは、生命を維持するための儀式です。暴力であってはなりません」

 アルベルトは膝をつき、夢中でスプーンを動かし始めたルナリスを見つめた。

 魔王としての威厳を忘れ、頬を膨らませて食べる彼女の姿は、冷酷な支配者ではなく、ただの空腹な少女のようであった。


「……おいしい。おいしいぞ、アルベルト」

「左様でございますか。……ですが、食べ過ぎはいけませんよ。今夜はあと三口で終わりです」

「なぬっ!? これほど美味いものを、あと三口だと……!? 余は魔王だぞ! 命令だ、もっと作れ!」

「執事としての忠告です。これ以上は明日の朝食に響きます。……それとも、明日の朝、むくんだ顔で四天王の前に立ちたいとお望みですか?」


 その一言で、ルナリスはぴたりと動きを止めた。

 彼女は名残惜しそうに最後の一口を飲み込み、深く、満足のいく溜息をついた。

 不思議なことに、あれほど彼女を苛んでいた焦燥感が、今はどこにもなかった。


「……アルベルト」

「はい、ルナリス様」

「貴様……このことは、他の四天王には秘匿せよ。いいな? 特にバルバラに知られれば、あいつは食い気だけで城を破壊しかねん」

「心得ております。主人の秘密を守ることも、執事の重要な責務ですから」


 ルナリスは、赤くなった顔を隠すように背を向け、足早に寝室へと戻っていった。

 その足取りは、昼間よりもずっと軽やかだった。


 一人残された厨房で、アルベルトは冷徹な微笑を浮かべ、再び布巾を手にした。

「……まずは一人。次は、あの不格好な甲冑を纏った将軍を、もう少し『清潔』にする必要がありますね」


 翌朝。

 玉座の間で執務に励むルナリスの肌は、昨日とは見違えるほどに白く、輝いていた。

 四天王たちは、その変化に首を傾げたが、魔王の傍らに立つ執事だけは、何も知らないような顔で、完璧な姿勢を保っていた。


 胃袋から始まった侵略は、確実にこの魔王城の根幹を揺るがし始めていたのである。


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