第1話:着任、あるいは宣戦布告
天を突く黒石の尖塔。紫煙が絶えずたなびき、雷鳴が遠くで轟くその城は、魔界大陸アビス・ガルドの頂点に君臨する魔王城「パンデモニウム」である。
今日、この禍々しき城の門を叩く者がいた。
重厚な黒鉄の門が、重々しい音を立てて開く。
現れたのは、軍勢でも勇者でもない。ただ一人の男だった。
埃一つない漆黒の燕尾服。雪のように白いシャツと、寸分の狂いもなく結ばれたタイ。左胸には王家直属を証明する銀の紋章が鈍く光っている。
男の名はアルベルト。
人間界の王家から「魔族との架け橋」という名目で送り込まれた、ただの執事である。
城の深部、玉座の間へと続く長い廊下には、武装した魔族の兵士たちが左右に並んでいた。彼らは一様に、その鋭い牙や爪、そして剥き出しの殺気を男へと向けている。
「ほう、これが人間界から来たという供物か?」
「ひ弱なものだ。歩く音すら聞こえぬ。恐怖で足が竦んでいるのか?」
嘲笑が響く。だが、アルベルトは眉一つ動かさない。
むしろ、彼の視線は兵士たちの武具に向けられていた。
(……槍の穂先に錆が出ていますね。廊下の隅には三日前のものと思われる煤が溜まっている。管理体制に深刻な欠陥があるようです)
アルベルトにとって、彼らの殺気よりも、清掃の行き届いていない廊下の方がよほど我慢ならない「敵」であった。
やがて、巨大な両開きの扉が開き、玉座の間が姿を現した。
広大な空間の奥、一段高い場所に据えられた玉座。そこに、傲然と腰を下ろしているのが、当代の魔王、ルナリス・ヴォル・ゼーレである。
艶やかな黒髪、真紅の瞳。頭上には魔王の証である小さな二本の角。彼女が放つ魔圧は、常人であれば膝をつき、呼吸を忘れるほどに凄まじい。
その傍らには、魔王軍の精鋭である四天王たちが控えていた。
「貴様が、人間が寄越した『架け橋』とやらであるか?」
ルナリスの声が、静かに、だが重く響き渡る。
アルベルトは玉座の前まで進むと、優雅に、流れるような動作で一礼した。
「お初にお目にかかります、ルナリス様。本日より、この魔王城にて皆様の身の回りのお世話をさせていただきます、執事のアルベルトと申します」
「世話、だと?」
四天王の一人、巨躯を誇る女将軍バルバラが、鼻で笑いながら一歩前に出た。彼女の背に背負われた巨大な戦斧が、鈍い音を立てて揺れる。
「おい、人間。我ら魔族にとって、世話とは弱者が強者に縋るための言葉だ。お前のような細い指の男に、一体何ができる? 我らの剣を磨くか? それとも、我らが食らう魔獣の餌にでもなるか?」
アルベルトは顔を上げ、穏やかな、だが有無を言わせぬ微笑を湛えた。
「バルバラ様。剣を磨くのは私の領分ですが、その前に。……貴女のその甲冑、右肩の継ぎ目に砂が噛んでおりますね。先日の演習から、一度も手入れをなさっていないのでは? 名将の武具が泣いておりますよ」
「な、何だと……?」
バルバラが絶句する。アルベルトの指摘は、数秒間、彼女の動きを観察しただけで見抜いた正確なものだった。
「そして、ルナリス様」
アルベルトは視線を、玉座の主へと移した。
「……貴女様にも、早急に対応すべき問題がございます」
玉座の間に、ピリついた緊張が走る。魔王に「問題がある」と正面から言い放つ人間など、かつて存在しなかった。
ルナリスの細い眉が跳ねる。
「……余に、意見するか。面白い。言ってみろ。納得のいく理由がなければ、その首、ここで落としてくれる」
「恐れながら。……失礼いたします」
アルベルトは音もなく、かつ迅速な歩みで、ルナリスの玉座の傍らへと歩み寄った。
四天王の参謀メルヴィが魔法を発動させようと手を挙げるが、ルナリスがそれを手制止する。
アルベルトが手を伸ばしたのは、玉座の肘掛けの裏、巧妙に影で隠された空間だった。
そこから彼が取り出したのは、魔界には存在しないはずの、人間界の安価な「菓子袋」の残骸であった。
「……っ!?」
ルナリスの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
「威厳を保つための無理な夜更かし、並びに激務のストレスによる過度な糖分摂取。その結果として、貴女様の瞳には微かな充血が見られ、左の頬にはごく小さな肌荒れの兆候がございます」
アルベルトはさらに、どこからともなく取り出した白銀のトレイを差し出した。
そこには、透き通った琥珀色の液体を満たした、繊細な白磁のティーカップが乗っている。
「まずは、こちらを。人間界の『月の雫』と呼ばれる茶葉に、魔界の乾燥ハーブを独自に調合いたしました。神経の昂ぶりを鎮め、魔力の循環を整える効果がございます」
「貴様……いつの間に、そのようなものを……」
ルナリスは困惑しながらも、立ち上る高貴な香りに抗えず、吸い寄せられるようにカップを手に取った。
一口、喉を通る。
「…………っ」
ルナリスは目を見開いた。
ただの飲み物ではない。それは、暴力的なまでに洗練された「安らぎ」だった。
魔族の荒々しい食文化には存在しない、繊細な温度管理と、素材の持ち味を極限まで引き出す抽出技術。
全身の強張りが、スッと消えていく。
「温度は六十五度。ルナリス様の体温と、魔界の気圧を考慮した最適値でございます」
アルベルトは、事も無げに言った。
ルナリスは呆然とカップを見つめ、それからようやく、目の前の男を「ただの人間」としてではなく、「未知の脅威、あるいは恩恵」として認識し始めた。
「……ふん。毒味も済ませておらぬ供物だが、悪くない。……いや、認めてやろう。この茶だけは、余の知るどの宮廷料理人よりも上だ」
魔王の言葉に、場にいた四天王たちもざわめく。
「ありがとうございます。ですが、お茶は序の口。……さて、皆様」
アルベルトは再び一礼し、それから広大な玉座の間を見渡した。
その視線は、もはや使用人のそれではない。
乱れた規律を正そうとする、厳格な支配者のそれであった。
「私は王命により派遣されましたが、私の主人は、あくまで目の前のルナリス様、ただお一人でございます。……よって、ルナリス様の健康を害するもの、その尊厳を汚すもの、そして――この城の美観を損なう全ての汚れを、私は容赦なく排除いたします」
彼は懐から、真っ白な手袋を取り出し、嵌め直した。
「不服がある方は、どうぞ。私の淹れるお茶の味よりも、私を納得させるに足る『完璧な仕事』をお見せください。……それができないのであれば、大人しく私の給仕を受けることです」
それは、実力至上主義の魔族たちに対する、一人の執事による「宣戦布告」であった。
力ではなく、技で。恐怖ではなく、献身で。
アルベルトの「侵略」は、こうして静かに幕を開けたのである。
「ルナリス様、まずは、その玉座のクッションの入れ替えから始めましょうか。詰め物がへたっており、腰痛の原因となります」
「……あ、ああ。貴殿の好きにせよ……」
魔王を圧倒する執事の背中を見ながら、四天王たちは確信していた。
この城の「支配者」は、今日から変わってしまったのだと。




