第53話:新妻の特権と、執事の「無慈悲な甘やかし」
魔王城「パンデモニウム」の最上階、主従の誓約を終えた二人のための新しい寝室に、柔らかな夜明けの光が差し込んでいた。
魔王ルナリスは、生涯忘れ得ぬであろう昨夜の熱情の余韻に浸りながら、隣で眠るはずの「夫」――もとい、執事アルベルトの温もりを探した。
「……ん、アルベルト。……もう朝か。……今日からは夫婦なのだ。……余が、貴殿を起こしてやっても……」
ルナリスが微睡みの中で手を伸ばしたが、そこにアルベルトの姿はなかった。
代わりに、枕元から正確無比な銀の時計の刻む音と、一点の淀みもない「白手袋」が、彼女の乱れた前髪を優しく、しかし有無を言わせぬ規律をもって整える感覚がした。
「おはようございます。ルナリス様。……いいえ、本日から公的には『奥様』と呼ぶべきでしょうか。……ですが、私の前では、貴女は永遠に『愛しき管理対象(主人)』でございますよ」
アルベルトは、既にシワ一つない燕尾服を纏い、いつものように完璧な執事の姿でそこに立っていた。トレイの上には、彼女の目覚めの体調に合わせてブレンドされた、最高級の薬膳茶が湯気を立てている。
「……アルベルト。貴殿、いつ起きたのだ。……せっかく、今日からは余が貴殿に『あーん』をしてやろうと思っていたのに」
ルナリスは、新妻としてのささやかな特権を行使しようと、ベッドの上で頬を膨らませた。彼女は「結婚」したことで、これまでの「されるがまま」の関係から、少しでも自分からアルベルトへ「奉仕」できる立場になれると期待していたのだ。
「……ルナリス様。不潔な妄想は、そのお茶と共に飲み干してください。……主人がキッチンに立ち、不効率な調理で指先を汚すなど、執事のプライドが許しません。……貴女のその白い手は、私の給仕を受け、私の指先に縋るためにのみ存在するのです」
「……っ、アルベルト……貴殿というやつは。……夫婦になったというのに、一歩も譲らぬのだな」
「譲る必要がどこにありますか? ……愛しているからこそ、貴女を私の規律という名の籠の中に、一生閉じ込めておくのです。……さあ、主人の義務を果たしてください。……私の手によって、今日という日を最も美しく『開始』されるという義務を」
アルベルトは、ルナリスの抵抗を許さず、彼女の身体を羽毛布団ごと抱き上げた。
彼は彼女を洗面台へと運ぶのではなく、ベッドの上に用意された「移動式メンテナンス・ユニット」へと横たえさせた。
「……あ。……アルベルト、待て。……顔くらい、自分で洗える……っ」
「黙って、目を閉じて。……貴女の肌のコンディション、昨夜の昂ぶりで僅かに魔力が昂進しています。……私のこの指先で、魂の奥まで『沈静化』させなければ、本日の軍議(マウント合戦)で、最高幹部たちに隙を見せることになりますよ」
アルベルトの熱い掌が、ルナリスの頬を包み込んだ。
それは「夫」としての慈しみでありながら、同時に「管理者」としての冷徹なまでの正確さを伴っていた。
ルナリスは、新妻として彼に何かをしてあげたいという願いが、彼の圧倒的な「お世話」の奔流に飲み込まれていくのを感じていた。
「あ……ぁ…………ッ!!」
アルベルトの指先が特定の経絡を弾き、ルナリスの全身を心地よい脱力感が支配する。
成婚したことで、アルベルトの「調律」は、さらに隠すところのない、より深い領域へと踏み込んできていた。
逃げ場のない、幸福な管理。
ルナリスは、自分が「妻」になってもなお、この執事の手のひらの上でしか呼吸できないことを再確認し、絶頂にも似た安堵の中に沈んでいくのであった。
ルナリスの寝室は、もはや「部屋」ではなく、アルベルトが作り上げた「至高の揺り籠」と化していた。
「妻になったのだから、せめて自分の足で歩くくらいの自由は……」というルナリスのささやかな抵抗は、アルベルトが放つ「一秒の不快も許さない」という狂気的な献身によって、ことごとく粉砕されていた。
「……アルベルト、もうよい。……余は、骨抜きにされてしまう……っ」
「それでよろしいのです。貴女はただ、私の手のひらの上で、呼吸を整えていればいい。……さあ、次は昨夜の疲れが残っている足首の『再定義』です」
アルベルトがルナリスの細い足首に、体温で温めた秘伝の香油を塗り込んだ、その時。
ドォォォォォンッ!!
成婚後の初夜を静かに守るはずだった重厚な扉が、暴力的な魔力によって文字通り「解体」された。
「……そこまでだ、アルベルト! 貴様、結婚したのをいいことに、魔王様を独占しすぎて職務を放棄しているのではないか!」
白銀の鎧を怒りで震わせ、大剣を担いだバルバラが先頭を切って雪崩れ込んできた。その後ろには、嫉妬で脳波を乱したメルヴィ、影から殺気を漏らすゼノビア、そして事務手帳を握りつぶしそうなカサンドラ、さらに聖女セレレスまでもが「不潔な独占です!」と叫びながら控えている。
「皆様。主人の寝室に無断で侵入するとは……。執事として、そしてこの家の『主』として、厳しいマナー教育が必要なようですね」
アルベルトは、ルナリスの肩に薄衣を掛け、一点の乱れもない動作で立ち上がった。その瞳には、新婚の甘さなど微塵もなく、むしろ「邪魔が入った」ことに対する、氷点下の不快感が宿っている。
「新婚の挨拶くらいは認めてやるが、アルベルト! 俺たちの朝の『筋力調律』を飛ばすのは規律違反だ!」
「あはは……。僕の脳のバックアップが止まって、もう一時間も経ってるんだよぉ。責任取ってよ、執事さん……」
最高幹部たちが口々に不満をぶちまけ、アルベルトを自分たちの元へ引き寄せようと手を伸ばす。
だが、ルナリスはベッドから立ち上がり、アルベルトの腕をこれ以上ないほど強く抱きしめた。
「だまれ、この家臣どもめ! アルベルトは余の夫だぞ! 余が満足するまで、貴殿らに貸し出すわけなかろうが!」
「……やれやれ。主人が一人、管理対象が五人。……成婚したことで、かえって皆様の『乱れ』が激化したようですね」
アルベルトは、自分に縋り付くルナリスを優しく、しかし有無を言わせぬ規律で制し、最高幹部たちを一列に並ばせた。
「よろしい。……バルバラ様、メルヴィ様、ゼノビア様、カサンドラ閣下。そしてセレレス。……皆様のその『嫉妬による管理不全』、まとめて私が解決して差し上げましょう。……ただし、これからは『新妻』であるルナリス様の見守る前で、より厳格に、より深く、執事としての全権をもって執り行わせていただきます」
アルベルトの不敵な微笑。
それは、単なる主従から、アルベルトを頂点とした「巨大な共依存家族」への、最終的なシステムアップデートの宣言であった。
「……あ、アルベルト。……余の前で、あやつらを……お世話するのか?」
「はい。主人の前で隠し事をするのは、不潔ですから。……さあ、ルナリス様。貴女も隣で見ていなさい。……私が、この城のすべてをいかに完璧に『愛(管理)』しているかを」
成婚後の魔王城。
そこには、かつてないほどの多幸感と、一人の執事による逃げ場のない支配が、今日も美しく、過激に渦巻いている。
主従の誓約は終わらない。それは、この城のすべてが執事の指先に跪き続ける、永劫の物語の始まりに過ぎなかった。




