第52話:魔王の求婚、執事の留保
魔王城「パンデモニウム」は、全土を挙げた祝祭の準備に沸き立っていた。
魔王ルナリスと執事アルベルトによる「永劫主従誓約」。それは名目上こそ主従の絆を深める儀式であったが、実質的には魔王城の全権を執事が永遠に預かり、魔王の心身すべてを執事が独占的に管理し続けるという、事実上の「成婚」に他ならない。
だが、式典を数日後に控えた深夜。ルナリスは自室の広大なバルコニーで、月光を浴びながら一人、震えていた。
アルベルトの「管理」によって、城も民も、そして自分自身も、かつてないほど美しく整えられた。しかし、誓約が完了し、彼との関係が「永遠」という名の鎖で固定されることを前にして、彼女の心には、魔王という地位さえも揺るがすほどの「最後の一片の不安」が疼いていた。
(……もし、永遠を誓った後で、あやつが余に飽きてしまったら? あやつの『管理』に、余の存在がただの『義務』として組み込まれてしまったら……?)
これまで孤独の中で戦い続けてきたルナリスにとって、アルベルトから与えられる「調律」の快感と安らぎは、もはや魂の栄養そのものだ。彼なしでは、もはや眠ることも、魔王として玉座に座ることもできない。この依存が深まれば深まるほど、彼女の内に潜む「一人の弱き少女」が、見捨てられる恐怖に悲鳴を上げていた。
「……ルナリス様。夜風に当たりすぎて、思考の規律が乱れていますよ。……主人がそのような『不潔な迷い』を抱えたままでは、至高の誓約は成し遂げられません」
静寂を裂くように、背後から冷徹で、しかしどこまでも甘美な声が響いた。
アルベルトである。彼は一点のシワもない燕尾服を纏い、いつものように銀のトレイに温かなハーブティーを乗せて立っていた。だが、そのモノクルの奥で光る瞳は、今夜に限っては主人の不安を容赦なく暴き立てる、支配者の光を帯びている。
「アルベルト……。貴殿には、隠し事はできぬな」
ルナリスは自嘲気味に微笑み、彼に歩み寄った。
「……余は、怖いのだ。貴殿と永遠に繋がることで、貴殿が……余という『資産』を、ただの数値としてしか見なくなる日が来るのではないかと」
アルベルトは無言でトレイを置き、ルナリスの前に跪くのではなく、逆に彼女の細い肩を力強く掴み、自分を直視させた。
「……ルナリス様。……貴女様は、私の執事としての矜持を、そこまで低く見積もっておいでですか?」
アルベルトの手から伝わる、熱い魔力の律動。それがルナリスの心臓を、逃げ場を奪うように締め付ける。
「貴女という資産は、磨けば磨くほどに新しい『乱れ(美しさ)』を見せる、世界で唯一の未完成品です。……私が貴女に飽きる? 滅相もございません。……むしろ、貴女を一生かけても整えきれないのではないかという、贅沢な絶望こそが、私の生きる糧なのですから」
アルベルトは彼女を抱き上げ、主人のための「特別メンテナンスルーム」へと歩み出した。
「……今夜は、誓約前の最終調整を執り行いましょう。……貴女のその『不安』という名のノイズ。……私が責任を持って、夜明けまでに、二度とそんな迷いを抱けぬほどの快感で、塗り潰して差し上げますよ」
ルナリスは、執事の腕の中で、恐怖さえも蕩けるような幸福感へと変質していくのを感じていた。
史上最も過酷で、最も独占的な「お世話」が、今幕を開ける。
特別メンテナンスルームの重厚な扉が閉じられ、外界との繋がりは完全に断たれた。
大理石の台の上に横たわる魔王ルナリスは、身に纏う薄衣がアルベルトの指先によって丁寧に解かれていくのを、荒い吐息と共に受け入れていた。室内に漂うのは、アルベルトが今夜のためだけに調合した、意識を極限まで鋭敏にさせる「覚醒の香」。
「……アルベルト。……貴殿の指先が、怖い。……だが、それ以上に、貴殿に触れられないことが……狂おしいほどに恐ろしいのだ……」
ルナリスの真紅の瞳は、もはや魔王の威厳を失い、ただ一人の管理者を求める剥き出しの渇望に染まっていた。
「よろしい。その『恐怖』と『依存』の混濁こそが、至高の調律を完成させる唯一のスパイスです」
アルベルトは燕尾服の上着を脱ぎ捨て、シャツの袖を捲り上げると、黄金色に輝く最高濃度の調律オイルを掌に取った。
「……ルナリス。貴女の魂の最深部にこびり付いた、最後の『迷い』を、私の規律で根こそぎ書き換えて差し上げましょう。……今夜が明ける頃には、貴女の心拍の一つ一つ、魔力の瞬きの一つまでが、私の管理下にあることを、その身に刻み込むことになります」
アルベルトの熱い掌が、ルナリスの魔力の源泉である「核」の直上へと押し当てられた。
「ひ……、あぁぁぁぁぁッ!!」
ルナリスの全身が、かつてない強烈な衝撃に貫かれて跳ねる。
アルベルトの放つ魔力は、慈悲深い安らぎではなく、主人のすべてを支配し、己の色で染め上げる「所有の規律」そのものであった。一突きごとに、ルナリスの不安は物理的な快感へと変換され、彼女の理性をドロドロとした熱い蜜へと溶かしていく。
「……そうです、ルナリス。……声を殺す必要はありません。貴女を縛る『魔王』という仮面は、私が今ここで、跡形もなく剥ぎ取ってあげました。……残っているのは、私の指先に縋り、私の名を叫ぶことしかできない、一人の愛しき『私の資産』だけです」
アルベルトの指先は、容赦がなかった。
ルナリスの背筋をなぞり、神経の末端を愛撫し、彼女が隠し持っていた「自立心」という名の最後の砦を、圧倒的なホスピタリティで蹂躙していく。
ルナリスはもはや、自分が誰であるかも分からない。ただ、アルベルトに触れられている間だけは、自分がこの世で最も「完璧に愛され、管理されている」という、絶頂にも似た充足感の中にいた。
「あ、あああああッ!? アルベルト……!! 貴殿が、貴殿がいなければ……余は、もう……息をすることさえ、不潔に感じる……!!」
「……はい、それでよろしいのです。……貴女の生命活動のすべてを、私が責任を持って『代行』しましょう。……永遠の誓約など、ただの形式に過ぎない。……貴女の魂は、すでに私の管理下に堕ちているのですから」
アルベルトは、蕩けきったルナリスを正面から抱き寄せ、彼女の項に、生涯消えることのない「執事の印」を魔力で深く刻み込んだ。
主従を超え、愛を超え、二人の魂は一つの「完璧な秩序」として、分かちがたく融合したのである。
翌朝。
式典当日の太陽が昇る中、ルナリスはアルベルトの手によって、世界で最も美しく、最も「依存した」姿へと整えられていた。
鏡の前に立つルナリスの瞳に、もはや昨夜の不安はない。そこにあるのは、自分を完璧に支配する執事への全幅の信頼と、彼なしでは一歩も歩めないことを誇りとする、狂信的なまでの多幸感であった。
「……完璧です、ルナリス様。……さあ、世界に披露しましょう。……私の手によって、永遠に磨き続けられる、至高の魔王の姿を」
「うむ。……アルベルトよ。……余を、余の人生のすべてを……余が灰になるまで、一秒の休みもなく『お世話』し続けよ。……これは、余が貴殿に与える、唯一無二の特権だ」
魔王城「パンデモニウム」に、祝祭の鐘が鳴り響く。
一人の執事による「世界で最も美しく、過酷なハッピーエンド」は、この永劫の誓約という名の共依存の中で、永遠に完成し続けるのである。




