第51話:管理区域の平穏と、女たちの「反乱」
魔王城「パンデモニウム」を中心とした新秩序は、隣国である聖教国の刷新を経て、今や永劫に続くかのような「静謐なる停滞」の域に達していた。
アルベルトの構築した管理システムは、魔王城から衛星国家となった聖都ルミナスまで、網の目のように行き渡っている。魔力の流動は最適化され、物流は一分の遅滞もなく、人々の精神衛生はかつてないほどに向上した。
だが、この完璧すぎる「白銀の平和」こそが、魔王城に住まう最強の女たちの魂に、ある種の「禁断症状」を引き起こしていたのである。
「……看過できんな。アルベルトよ、近頃の貴殿のタイムスケジュール。余との時間は確保されているが、全体的に『効率的』に過ぎるのではないか?」
魔王ルナリスは、ティーカップを指先で弄びながら、傍らに控えるアルベルトを恨めしそうに見上げた。
「ルナリス様。環境の最適化が完了した以上、無駄な公務を減らし、主人の自由時間を最大化するのは執事の義務でございますよ。……何か、不足でも?」
アルベルトは一点の曇りもないトレイを抱え、モノクルの奥で平然と瞳を光らせた。
「不足だらけだ! 貴殿が城全体の管理を自動化したせいで、余を『お世話』する際の手際まで、どこか事務的になっているではないか! 余はもっと、こう……一刻(二時間)かけてじっくりと、隅々まで調律されたいのだ!」
魔王のわがまま。だが、これに賛同したのは階下に控える最高幹部たちも同様であった。
「……魔王様の仰る通りだ。アルベルト。最近の俺の筋肉の調律、十五分で終わらせているだろう。……俺の肉体は、もっと貴様の指先の熱を求めて悲鳴を上げているんだぞ!」
バルバラが、磨き上げられた鎧を軋ませて立ち上がった。
「あはは。……僕もだよぉ。執事さん、最近『脳内の整理は済んでいるから』って言って、膝枕の時間を五分に短縮したよねぇ? ……僕の脳が、寂しさでオーバーヒートしちゃうよぉ」
メルヴィが、演算の必要もなくなった空っぽの頭を抱えて縋り付く。
「……不潔なのは、貴殿のその『冷徹な効率』です、アルベルト。……規律とは、時間をかければ良いというものではありませんが……。私に対するマナー指導がこれほど短いのは、筆頭として納得がいきません」
カサンドラまでもが、頬を赤らめながら手帳を叩いた。影からはゼノビアが実体化し、無言でアルベルトの燕尾服の裾を強く、強く握りしめる。
極め付けは、魔王城の「客分」として定着した元聖女、セレレスであった。
「……アルベルト様。私は神を捨て、貴方の規律を信じました。……なのに、最近の貴方の『浄化』はあまりに淡白です。……私はもっと、貴方のその慈悲深い罰によって、魂がバラバラになるまで壊されたいのに……!」
「……やれやれ。皆様、平和を享受するよりも、私の指先に支配されることを望まれるとは。……執事として、これほど不効率な『反乱』もございませんね」
アルベルトは深々と溜息をついた。
城内、そして世界が整いすぎた結果、彼女たちのエネルギーはすべて「アルベルトへの依存」という一点に集中してしまったのである。
「……よろしい。皆様のその、管理不全による『暴走した愛』。……私が責任を持って、一人ずつ、夜明けまでかけて徹底的に『再調律』して差し上げましょう。……ルナリス様、よろしいですね?」
「――ならぬ!!」
ルナリスが立ち上がり、アルベルトを背後に隠すように両手を広げた。
「……貴殿ら! 順番など待っておれるか! アルベルトをこれ以上共有するのは限界だ! ……アルベルトよ。余は今、決めたぞ。……貴殿を、余だけの、永遠の『専属物』とするための、最終的な誓約を執り行う!」
ルナリスの独占欲がついに臨界点を超え、魔王城の「平和」は、一人の執事を巡る、魔王軍史上最大の「成婚騒動」へと突入したのである。
ルナリスの宣言は、魔王城「パンデモニウム」の空気そのものを沸騰させた。
「専属物」――即ち、主従を超えた不変の絆の要求。最高幹部たちは一瞬だけ絶句したが、すぐにそれぞれの独占欲を再点火させ、玉座の間はもはや平和な会談の場ではなく、剥き出しの執着が激突する戦場と化した。
「待ってください、魔王様! アルベルト様を『専属』にするというのなら、私だって負けません! 私は神を捨て、この方の管理下に置かれることを選んだのです。……聖なる伴侶の枠は、私がいただきます!」
セレレスが法衣を翻して一歩前に出る。
「あはは……。伴侶なんて非論理的な言葉より、『共有財産の個人所有化』って言ってほしいなぁ。執事さん、僕の脳のバックアップは、君以外に取らせるわけにはいかないんだぁ……!」
メルヴィの演算魔力が渦を巻き、ゼノビアの影がアルベルトの足元を完全に侵食して「誰にも渡さない」と無言の圧力をかける。
その混沌の只中で、アルベルトはゆっくりとモノクルを直し、ただ一言、氷点下の音を響かせた。
「……お断りいたします」
場が凍りついた。ルナリスは目を見開き、掴んでいたアルベルトの腕から力が抜ける。
「……き、貴殿。今、なんと申した? 余の……余の願いを、拒むというのか?」
「ルナリス様。執事とは主人の環境を整え、資産を管理し、その輝きを最大化する『機構』に過ぎません。……結婚、あるいは伴侶という契約は、管理対象と管理者の境界を曖昧にし、サービスの質を著しく低下させる『重大な規律違反』です」
アルベルトの言葉は、あまりにも冷徹で、あまりにも彼らしい正論であった。
「……そんな。……余は、貴殿が……余の隣で、執事としてではなく、一人の男として……」
「ルナリス様。私が一人の男として貴女様の隣に座れば、一体誰が貴女様の朝の目覚めを調律し、夜の疲れを完璧にメンテナンスするのですか? 他者に任せるなど、私自身のプライドが許しません」
アルベルトは一歩、落胆に震えるルナリスへと歩み寄り、その手首を優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで掴み上げた。
「私は、貴女様の夫になりたいのではありません。……貴女様の生涯を、この世で最も美しく、最も完璧に支配し続ける『唯一無二の執事』でありたいのです。……主従という名の、永遠に終わらない『お世話』。それこそが、私の求める究極の独占ですよ」
ルナリスの真紅の瞳に、新たな火が灯った。
夫として平穏に暮らすのではない。執事として、一生、自分を規律の鎖で縛り続け、慈しみ、管理し続ける。それは、どんな甘い愛の言葉よりも重く、背徳的な「誓い」であった。
「……あ、あはは! そうか、貴殿は、どこまでも……どこまでも、余を『管理』し尽くさねば気が済まぬのだな。……よかろう! ならば契約を書き換えてやる! 結婚などという生温いものではない。……余の魂のすべてを、貴殿という規律に永劫に預ける『永劫主従誓約』だ!」
「承知いたしました、ルナリス様。……その乱れた決意、私が責任を持って、至高の式典へと整えて(プロデュースして)差し上げましょう」
アルベルトの不敵な微笑。
最高幹部たちは、その二人の「完成された共依存」に気圧されながらも、自分たちもその「管理網」の一部として生涯組み込まれることを予感し、頬を染めて跪いた。
「……バルバラ様、メルヴィ様、ゼノビア様、カサンドラ閣下、そしてセレレス様。……主人の『永遠の管理』が始まる以上、貴女たちのメンテナンスも、より一層厳しく、濃密なものになります。……覚悟はよろしいですね?」
「「「「「……御意にございます、アルベルト様!!」」」」」
魔王城に、かつてないほど高らかで、かつてないほど「異常な」忠誠の唱和が響き渡った。
平和は完成したのではない。
一人の執事による、魔王と最高幹部たち、そして世界そのものを「自分なしではいられない状態」に繋ぎ止める、永遠の調律が始まったのである。




